仙妖伝奇

故水小辰

第一話

 素白は、奚宣に弟子として迎えられた日をずっと覚えている。生まれ持った毒を使って獲物の人間を痺れさせ、精気をいただいて自身の妖気に換えるばかりの小さな白蛇だった彼を、奚宣は決して見劣りのしない仙人の卵に育て上げたのだ。


 奚宣は彼の生きる全て、目指すところの全てだ。だからこそ、師を失望させるような真似などできるはずがない。そう思って修行してきたというのに、昔のよしみに気を許したせいで逆戻りだ。草むらの中を這って進みながらも、素白は視界がぶわりと滲むのを止められなかった。泣くな、もう大人なんだからと思っても、次から次へと涙がこぼれてくる。


「誰だ? そこにいるのは」


 ふと、ずっと高いところから大好きな声が降ってきた。素白はしゃくりあげて鎌首をもたげ、声の主を探したが、そうする間にも涙がまた一筋小さな頬を伝って落ちていく。小さく鼻をすすると、遠くの方で周囲を見回していた男が弾かれたように素白に向かって駆けてきた。

 ゆるく結われた髷、背中に流れる黒髪、白い深衣と上衣に腰帯から垂れる玉佩。目元には叡智と慈愛が宿り、世俗を感じさせない雰囲気をまとうこの男こそが奚宣だった。素白がしゅんと頭を下げる間にも、奚宣はすぐに素白の前に膝をつく。奚宣は眼前の白蛇が赤い目を潤ませてしゃくりあげていることに気付くと、「素白か?」と呟いて両手を差し伸べてきた。


「師尊……」


 素白は余計にこみ上げる涙をそのままぽろぽろこぼしながら、わっと声を上げてその腕に絡みついた。


「師尊すみません、僕が不甲斐ないばっかりに、仙気を全部取られてしまって、」


 大蛇というほどではないが、素白も奚宣の腕ぐらいの長さはある。それが腕に絡みついて泣きじゃくっていても奚宣は眉ひとつ動かさず、あやすように白い身体を撫でてやった。


「ひとまず中に入ろう。落ち着いたら詳しく聞かせてくれるかな?」


「はい、師尊」


 素白は一言だけ答えると、奚宣の腕にそっと頭をくっつけた。



***



 奚宣に弟子入りする前のこと、幼い素白には一風変わった兄貴分がいた。片方の欠けた不揃いな角と手足の生えた蛇のような、歪な成長を遂げた龍のような姿のその義兄は、まだ奚宣の肘ほどもなかった素白をいきなり鷲掴みにして「ははっ」と笑ったのだ。


「面白いヤツがいるな。お前、俺と来いよ」


 一緒についていったというよりは無理やり連れ去られたという方が正しい、そんな出会いだったが、兄貴分が人間に変化して——不揃いな角だけは変わらず額から伸びていたが——荒泉と名乗った瞬間に素白は恐怖心など忘れてしまった。すっかり興奮し、どうすれば人間の姿になれるのと尋ねた素白に荒泉が教えたのが体内に妖気を蓄えること、いわゆる妖族の修行だった。


「修行の第一歩は人間の言葉を使いこなすことだ。これができるだけで人間を騙すときに怪しまれる確率がぐっと下がるんだが、その大きさでもう喋れるってことはいきなり変化術から教えても良いだろう」


 荒泉は唇をめくり上げて、肘にも届かない素白の体を乱暴に撫でる。すぐにでも離れるべき相手だと分かってはいたが、ねじれた牙を見せて笑った荒泉の言葉に、素白はすっかり取り込まれてしまったのだ。


「俺様の言うとおりにしたら百になる頃には人間に化けられるようになるぜ。そうすりゃお前もいっぱしの妖蛇だ。ガキだってのによく喋るし、お前多分才能あるぜ」


 こうして師弟とも何とも言えない奇妙な関係が始まった。

 荒泉は、人間の精気や修道者の仙気を奪って自身の妖気に変える方法を素白に叩き込んだ――妖族の修行で最もよく知られたものがこれなのだ。この修業自体は真っ当と言えたが、それ以外は所作も話し方も全てが乱暴で、俗にいう「ろくでなし」であることは火を見るよりも明らかだった。だから素白は奚宣に拾われたときについていくことを決めたのだ。



「荒泉と一緒にいたのは三十年です。人間にとっての五年ほどでしょうか」


 素白は膝の上で握りしめた両手を見つめて言い終えた。奚宣の仙気を借りて人間の姿に戻ったはいいが、正座したまま師の顔を見ることができない。奚宣はそんな素白には構わずにあごに手を置くとふむと呟いた。


「その荒泉が現れたのだね」


「はい。最初は昔話をしていたのですが、そのうち僕が黙って出ていったのを責められて。僕もちゃんと別れを告げれば良かったかなとずっと思っていたのですが、そこにつけ込まれて動揺したところに毒を仕掛けられたんです」


「毒? すると荒泉は蛟龍なのか」


 奚宣がふと目を丸くした。蛟龍は龍の一種だが、神獣になり損ねた妖獣でもある。それだけに強力で狡猾で、素白のような若輩者が敵う相手ではないのだ。

 素白は頷くと、その後の流れを手短かに話した。仙気を全て奪われることは、修道者にとってはどんな拷問よりも耐え難い絶望だ。ましてや人生を捧げると決めた奚宣に授けられた一切を失ったのだ、仔細を伝えようにも気分は千斤の大岩のように重い。

 奚宣は難しい顔のまま息を吐き、


「もしかすると、市に売りに出されているのかもしれないな」


 と言った。


「伝え聞いた話だが、妖族の中には修道者から奪った仙気を高値で売り捌くものがあるという。確実だが何百年とかかる修行を厭い、手っ取り早く妖気を蓄えたい連中がこうした売買を頼るのだと。当然、売り手も買い手もろくな連中ではない」


「……そういえば僕、荒泉に連れられて市の競りに行ったことがあります。荒泉の奴、ふわふわ光るものを巾着に入れていて、それを主催の男に渡して金銭の話をしていました。あのときはあいつが何をしているのか分からなかったのですが……」


「おそらくそれが仙気の密売だろう」


 奚宣の言葉に、素白はやっぱりと顔を曇らせた。なんてことに付き合わさせられていたのかと思うものの、後の祭りとはまさにこのことだろう。


「問題は、仙気の密売で稼ぐような連中に限って相当な修為があるということだ。実力のある相手を封じ込めて仙気を全て奪うのだから、生半可な修為では返り討ちに遭うの方が危険が高い。特に蛟龍は妖獣の中でも強力な部類に入るから、そこはさすがと言ったところだろうね」


 奚宣はそう言うと、両手を袍の袖に入れて深く息を吐いた。穏やかな眉間には深くしわが寄り、どうしたものかと思案しているのが傍目にも分かる。


 一方の素白は何を言えばいいのか分からなくなっていた。どこか後ろ暗いものを感じてはいたが、一番最初に修行の手ほどきをしてくれた相手が俗に言う悪党だったなど、年端もいかない仔蛇に分かるはずもない。


『黙って出て行った挙句俺たち妖族を裏切って、さぞかし良いご身分だな。しかもお前、師尊っつったって天上から落とされた出来損ないだろ? 出来損ないのためにこの荒泉様に楯突いた代償は高いぜ』


 ふと、荒泉に言われた言葉が頭をよぎった。さらには考え直して妖族の側に戻ってくるなら仙気を返してやっても良いと、荒泉は去り際に告げていた。


「どうしたのだ、素白?」


 奚宣に問われて素白ははっと顔を上げた。どうやら考えに耽りすぎていたらしい。


「いえ……なんでもありません」


 素白は慌てて首を横に振り、しかし一抹の迷いに再び目を伏せる。奚宣にもう一度促され、素白はようやく荒泉の最後の言葉を打ち明けた。


「実は、仙気を返してやってもいいと言われていて。でもそのためには、師尊と別れて妖族の方に戻らないといけないんです」


 奚宣は目を瞬いたが、是とも非とも答えない。代わりに素白はどうしたいとだけ尋ねた。


「嫌です。僕は師尊のような仙人になると決めたんです」


 額にかかる白い前髪の下で紅の瞳が急に力を帯びる。揺るぎない視線に、奚宣は思わず口元を綻ばせた。


「私のような、ね。私は罰を受けて地上に落とされた身だが、それでもかい」


「関係ありません。謫仙人であっても師尊はこの世で一番のお方です」


 自虐のように笑う奚宣をきっと見つめて素白は言い切った。


「僕、仙気を取り戻します。そして荒泉ともけじめをつけます。師尊のような人になるなら、荒泉のような奴らとはきっぱり縁を切らないと」

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