第2話 重み

 朝日が眩しい。カーテンを閉めることなく眠ったせいで、部屋に差し込む太陽の光で目が覚めた。

 朝食をとりながらテレビをつけると、いつも見ているニュース番組がやっていた。テレビは朝のニュースぐらいしか見ないので必然的にこの番組が最初に映る。

 ニュースを見るなら新聞を読めと、ことあるごとに会社の年配の人たちに言われてきた。しかし、俺は新聞を読む気など全くない。


「続いてはこちらのニュースです」


 アナウンサーの声の調子でこれからシリアスなトピックが流れることが分かる。


「昨晩、名古屋の千種区で女子高校生が男に刺される通り魔事件がありました。女性の命に別状はなく、現在病院で医師の治療を受けています。犯人の男は近くにいた数人の通行人に取り押さえられ、駆けつけた警察によって現行犯逮捕されました」


 物騒な世の中だと思うが、結局は自分には関係ない。死ななかったという事実があるだけで罪悪感に襲われることはなかった。

 それにしても犯人を取り押さえた通行人たちは、なぜそんなことができるのだろう。自分が刺されるという恐怖心は持っていないというのか。


「なお犯人は、これは社会に対する復讐だ。刺した女性と面識はない。誰でもよかった。と、供述しています」


 通り魔が社会に対する復讐になる関連性が分からない。

 こういうニュースには関わらないのが一番だ。

 犯人が社会に対する恨みを持っているというニュースに関心があるというだけで、周りから変わった人だと思われるかもしれない。

 まるで俺自身すら、社会に恨みがあると勘違いされるのはたまったものではない。


 俺は朝食を済ませると、身だしなみを整えてソファに腰掛けた。

 今日はいつもより早く起きたからまだ出勤まで時間がある。

 雑音に聞こえたテレビを切ると先のニュースはもう忘れて、スマホを操作し始めた。

 どこかの誰かの一大事より、今日自分が行うと決めた松本課長への反抗に不安と期待が入り乱れていた。



 8時50分、いつも通り始業の10分前に会社へ出社すると、社内はいつもより騒がしかった。

 何よりいつもと違うと感じたのは松本課長の不在だった。あの人は出張がない限り必ずこの時間には席に座っている。

 お偉いさんに呼び出しでもくらっているのだろうか。

 俺は席に着くと、いきなり隣に座る同僚の木村斗真に声をかけられた。


「おはよう。これから少し忙しくなりそうだぞ」

「おはよう。何かあった?」


 俺がそう尋ねると、木村は少し声の調子と大きさを抑え、続きを話してくれた。


「昨日千種区で通り魔事件があったの知ってる?」

「あ……それ……。朝のニュースで見た」

「そのニュースな。それで、刺された女子高生、松本課長の娘らしくて……」

「え……」


 俺は言葉を失った。

 ショックで失ったのではなく、次の言葉次第で自分の人間性が決まってしまうのではないかという心の揺らぎによって言葉が出なかったのだ。


「そんな……」

「ショックだよな。身近な人の身内がこんな目に遭うなんて悲しくなってくる」


 木村は、まるで俺もそう思っていることが至極当然であるかのようにそう言った。

 俺は松本課長の娘の身を案ずるよりも、スーパーチャットまでして備えた今日の反抗ができなくなってしまったことに対する怒りが最初に思い浮かんだ。

 その次に、詰められることはないとう安堵感を覚えた。松本課長は病院に行っているだろうからしばらくは休むはずだ。

 松本課長と彼の娘への心配など一切思い浮かばなかったのだ。


「それにしてもこんなことがあるなんて。俺、松本課長が戻ってきたら何て声をかければいいか分からないよ」


 木村は優しい人だ。おまけにイケメンで仕事もできて、どうしたらそんな人生を歩めるか教えてほしい。

 その後、商談のために外回りをして夕方ごろに帰社しても松本課長の姿はなかった。結局、彼はその日出社することはなかった。


 以前、俺は松本課長から、プライベートより仕事が優先だと言われたことがある。好きなロックバンドのフェスがあるから有給を取ろうとしたら認められなかったのだ。

 事前に確保しておいたチケットは無駄になりお金だけ払うはめになった。一緒に行こうとしていた友達は仕方ないと言ってくれたけど、どこか突き放されたように感じた。


 自分の娘の命が危険に晒されたのだから、病院に駆けつけて当然だろうという意見が大半を占めるに違いない。

 しかし、娘の安否とライブ観賞の価値を比べたとき、その価値の重みは誰が決めるのだろうか。

 松本課長は俺にライブへ行くなら仕事をしろと言った。しかし自分のこととなると、仕事を休んで娘がいる病院へ駆けつけた。

 ライブと人の命では重みが違うという誰かの囁きが聞こえた気がしたが、それは一方的な価値観の押し付けだと気づいた。

 実際に俺はライブに行けなかったことで傷ついた。あの後、友達とは連絡の頻度が減りいつの間にか疎遠になってしまった。そして、俺の人生からライブ観賞という趣味、大学時代の友人という大切な人生の一部が失われた。

 これは人の命を危険に晒す行為と何が違うのだろうか。プライベートより仕事を優先させなければいけないのだろうか。


 考えれば考えるほど、自分が正しいような気がしていますぐ松本課長に問いただしたい気持ちでいっぱいになる。

 あれだけ毎日のように怒鳴り散らしておきながら、自分は不幸な目にあったと悲しみに暮れた顔をして戻ってきたら結局芯のない自分勝手な男だということになる。


「どうした?そんな切羽詰まった顔して」

「え……。あぁ、ううん。松本課長の娘さん大丈夫かなって考えてただけ」


 木村が帰宅の準備をしながら、話しかけてきた。俺は一気に現実へ引き戻された気がした。

そして、嘘で塗り固めた模範解答を答えるだけだった。


「なぁ、今日暇? よかったら飲みに行かん?」


 珍しい。木村から飲みに誘われた。彼とは席が隣ということもあり会社の中ではよく話すのだが、会社の外でコミュニケーションを取ることはほとんどない。

 おそらく木村はプライベートでも陽気で俺が今まで関わることがなかったような人間だからどんな話をすればいいか分からない。


「そんな難しい顔すんなって。ほら、行くぞ」


 木村は俺にとって苦手なタイプに当てはまる人間だ。無理やりにでもそういう人と関わる理由などないはずだが、なぜか飲みの誘いを断ることができなかった。

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蟻の虚栄 坂本名月 @natsuki_sakamoto

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