第10話 少しずつ削られて

 朝、茂は新聞を読もうとして、手を止めた。

 見出しに「孤独死、年間三万人」という文字。

 写真には、古びた住宅の前で立ち尽くす警官の姿が映っていた。

 まるで――自分たちの未来を予告しているようだった。


 春江は最近、台所で包丁を握る時間が長くなっていた。

 料理をしているわけではない。

 ただ、無意識に握りしめ、固くなった肩を震わせている。


 近所付き合いも減った。

 外に出れば、あの黒いワゴンがどこかにいる気がしてならない。

 スーパーでは買い物かごを持つ手が汗ばみ、会計を済ませても安堵できない。

 茂も、以前はよく話していた将棋仲間との交流を断った。


 夜になると、二人はカーテンをぴったり閉め、テレビの音量を最小にする。

 家のどこかで床が軋む音がすれば、二人とも同時に息を止める。


 ある晩、春江は夢の中で城田の笑顔を見た。

 眠っている自分の顔を覗き込み、「いい契約でしたね」と囁く。

 目を覚ましたとき、心臓は乱打のように暴れていた。


 枕元の時計は午前3時。

 その時――外で、低いエンジン音が止まった。


 春江は茂の腕を強く掴んだ。

 「……聞こえる?」

 茂は無言でうなずき、布団からそっと身を起こした。


 窓の隙間から、車の影が見える。

 黒いワゴン。

 ヘッドライトは消され、暗闇に沈んでいる。


 運転席から降りた人影が、玄関の方へゆっくりと歩いてくる。

 足音は、異様なほど静かだった。


 茂は息を呑んだまま、春江の手を握る。

 ドアの向こうで、何かが――かすかに金属を擦る音を立てた。


 ガチャリ。


 玄関のドアノブが、ゆっくり回った。

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