第7話 調査終了・対峙の日
「えっと、こんにちは」
警戒するように周囲の様子を覗いながら、女子生徒が文芸部の部室の扉を開けた。
「うん。こんにちは。どうぞ、座って」
他でもない。彼女こそが「柚月ひな」。僕がこの部室に呼びだしたのだ。
現在、部室には彼女と僕、二人きり。一柳さんは、また用事があると言ってどこかに行ってしまった。一昨日と同じように、四人組の女子が一柳さんを連れ去ってしまったのだ。
それに、一柳さんは「柚月ひな」と顔見知り。「柚月ひな」のためとは言え、彼女に指導することは避けたかったのだろう。
だから、これは僕の役割だ。探偵としての、役割だ。
「ここに呼んだのは、他でもないよ。君の正体を暴くためだ」
「……私の、正体?」
少し、怯えたように腕を抱えた。けれど、僕は追及を止めない。単刀直入に、彼女に告げる。
「うん。そうだよ。『柚月ひな』さん」
「!」
彼女は目を見開き、黙ってしまった。声にはなっていないが、口が「どうして」と発している。
「どうしてって、他でもない君が、出身高校をばらしてしまっているからね」
そこでようやく、彼女は声を上げた。
「う、嘘! だって、個人情報については、注意を払ってた! 私を特定できるはずがない!」
言って、彼女は「しまった」という顔をした。咄嗟のことで、彼女は「柚月ひな」であることを認めてしまったのだ。
僕にとっては、話が早くなるので好都合だ。僕はそのまま切り出した。
「嘘じゃないよ。現に、こうして僕が君に辿りついたんだから」
「……嘘。私、喋ってないよ」
こうして声を聞くと、なるほど確かに彼女が「柚月ひな」だ。しかし以前彼女の声を聞いた時はわからなかった。彼女の声の変化には驚くべき才能があるのかもしれない。
「確かに、君の配信を見ている限り、喋ってはいないね」
雑談配信でも、歌配信でも、デート配信でも、彼女は決して個人情報を漏らさなかった。
「……なら!」
「でも、描いてはいるんだよ」
僕は、自分の携帯端末の画面に、彼女の漫画を表示させた。
「君が『柚月ひな』というのなら、つまりは『カンキツ』……つまり、この漫画の作者ってことになる」
「……」
「高校オカルト部」。「柚月ひな」が描いている漫画だ。そこに、証拠が眠っている。
彼女はやや俯きがちに黙ったまま、固まっている。今度は安易に認めようとはしなかった。けれど、耳だけは僕の声に集中している。その確信があったため、僕は構わず続けた。
「この漫画のジャンルはホラー。そして学校が舞台だ。とは言え、内容はフィクションだし、当然、久瀬高校という名前は出てこない。でも、君は描いてしまったんだ」
僕は画面上の漫画を見つめた。この漫画には重要な特徴が一つある。それは画力の低さだ。彼女の絵は上手とは言えない。
だが、そこだ。そこに、証拠を得るための鍵がある。
「失礼な言い方をするけど、この漫画の絵は、上手とはいえない。……実際、君も画力については自信がないでしょ?」
「……どうしてそう思うの?」
彼女は小さな声で訊ねた。
「だって、難しい構図になった瞬間、絵が写実的になっている。これは、写真をそのまま上からなぞって描いたんでしょ?」
「柚月ひな」は、やや左を向いた人間の顔しか描くことができない。人の全身や、あおり、俯瞰の構図、そしてポーズを取った人間は、描くのが難しい。だから、画力のない彼女は、透写するしかないのだ。実力不足を認め、写真に頼るしかない。
「そして、君が描けないのは、人間だけじゃない。……背景だって、苦手なんだ」
背景を描くことは簡単ではない。僕も詳しくはないが、パースだとか、アイレベルだとか……とにかく、登場人物に対して違和感のないように描かなければならない。人物を描くよりも難しいのかもしれない。
「だから、君は背景も写真を参考にした。透写したんだ」
「……」
「さて、『高校オカルト部』の舞台は高校だ。なら、そこで描かれる背景はなんだろう。透写される写真は、どこを写したものだろう」
答えは一つしかない。
「一番手頃な資料は、ここだよね」
「あ……」
僕は床を指し示す。久瀬高校。彼女はこの校舎を写真に撮って、漫画に載せたのだ。
実際、確認してみると、「高校オカルト部」の背景は、久瀬高校の校舎を参考にしていることがわかった。
学校の外観は、誰でも見ることができる。学校外の人間だって、「高校オカルト部」の背景を見て、それが久瀬高校であることを悟ることが可能なのだ。
「これこそ、『柚月ひな』が久瀬高の生徒である証拠だよ」
彼女が歯を食いしばった音が聞こえた。僕は彼女の顔を見つめ、そして名を呼ぶ。
「納得してもらえたかな。……『柚月ひな』さん、いや、橘結羽さん!」
「……一体、何が目的なの?」
橘さんは怪訝な表情で僕を睨み付けた。文芸部の部室で二人きり。それも、僕が彼女の弱みを一方的に握っている状況だ。
「さて、どうしようかな」
僕は考え込む。
「これは君にとって知られたくない秘密だよね。僕は、そんな秘密を握ったんだ。使い道なんて、いくらでもある」
「……」
橘さんは人見知りの引っ込み思案だ。「柚月ひな」の皮を被っている時は、明るく振る舞っているが「橘結羽」は違う。無論、どちらが本性などと野暮なことを言うつもりはないが、「柚月ひな」としてU Tubeで活動を行っていることは、隠したいはずだ。
「橘さん。このことを言いふらされたくなかったら、僕の言うことを聞くんだ」
「……」
彼女は僕を睨み付け、
「最低」
目に涙を浮かべた。
……潮時だろう。
「と、まあ、こんな風に」
僕はなるべく柔らかい声で言う。
「悪用されるかもしれないし、厄介なファンも増えるかもしれないから、せめて高校生の間はデート配信を控えるべきじゃない?」
「……え?」
橘さんは目を見開いて、そのまま固まった。
「えっと、脅しにきたんじゃないの?」
怯えるように、彼女は小さな声で訊いた。僕は大袈裟に頷く。
「当たり前だよ。僕は探偵。依頼者の信頼によって成り立っている。脅しなんてして、悪評が流れでもしたら、探偵としての名声が地に落ちちゃうからね。それに、君にして欲しいことなんか何もないよ。僕は今までだって、助手の一人も雇ったことはないんだから」
「……なにそれ」
安心したのか、彼女は小さく笑った。
「だからまあ、同級生として、探偵として、市民の味方として、忠告。子供の内は危ないことはしない方がいい」
「……」
同じく子供である僕のご高説を聞いて、彼女は少し不満気であったが、僕に追及された後では、首を横に振ることはできないだろう。渋々彼女は頷いた。
「それに僕は、活動の全てを止めるべきとは言ってないよ」
「え?」
「君の一番大事な活動は、やめなくてもいいんじゃないかな」
「……どういう意味?」
僕は、もう一つの推理を彼女に聞かせる。
「だって、U Tubeでの配信は、単に人を集めることだけが目的だったんじゃない? 本命の活動の為に、集客していただけじゃない?」
「……!」
「君が本当に大切にしていた活動は、漫画だよね」
「……なんで、それを」
橘さんは驚いたように呟いた。そう驚かれると、少し困る。
「まあ、君が漫研だからっていうのが一番の理由なんだけど」
推理ですらない、当然の帰結に苦笑する。橘さんも「そっか」と小さく呟いた。
「それに、漫画は、他の活動に比べて、手間が掛かりすぎる」
ストーリーを考え、キャラクターをデザインし、ネームを作り、作画する。それを行うには、時間も手間も掛かる。
その上、彼女が描いた漫画は六十ページ。それは、決して他の活動の「ついで」には行えない。漫画が大切だったからこそ、その労力を注ぐことができたのだ。
それに、「高校オカルト部」が掲載されているのはU Tubeではなく、別のサイトだ。そして、そのサイトでは、U Tubeの活動の宣伝は行われていなかった。
つまり、どれほど精力的に漫画の活動を行おうと、どれだけ読者が増えようと、U Tubeの活動には何ら貢献しない。
しかし、その逆はあり得る。U Tubeで宣伝することによって、漫画の読者が増えるのだ。実際、配信中に「漫画読んだよ」と多くの視聴者がコメントを寄こしていた。彼等は「柚月ひな」を見ていなければ「高校オカルト部」を読むことはなかっただろう。
だからこそ、本命は漫画だと、そう考えたのだ。U Tubeでの活動は、漫画を読んで貰うために撒いた餌に過ぎないのだと、考えた。
それに。
僕は言おうか迷って、結局口にした。
「まあ、部活動に何かあるんじゃないかとは、ずっと疑っていたんだけどね」
彼女は怪訝そうに首を傾げた。
「どういう意味?」
「つまり、君は漫画が本命であることに気を使い過ぎたんだ」
「?」
僕は「柚月ひな」の配信を思い出す。彼女が開示した情報を一から整理する。
「橘さん。君は放送中、自分が高校生であることは明かしているよね」
「……ええ」
「それを初めて見たとき、僕は迂闊だと思ったんだ。個人情報を簡単に明かしちゃう、ちょっと間抜けな人間だと思った。でも違った。『柚月ひな』はそれ以上の個人情報を頑なに開示しなかったんだよ」
どんな些細なことも、彼女は口にしなかった。出身地はおろか、所属の部活動まで教えなかったのだ。
「そこで一つ疑問があるんだ。個人情報を与えなかった『柚月ひな』が、どうして高校生という情報だけは与えたのか。日本には高校生が多くいるといっても、情報は情報だ。君の特定に繋がってしまう。それなのに、女子高生であると明かした。それは何故だろう」
その答えは一つしかない。
「その情報に、価値があるからだ」
彼女が高校生であることを明かした時、視聴者は喜んだ。高校生という情報に、価値を感じ取っていた。だから彼女は明かしたのだ。高校生という情報を餌に、視聴者を増やした。
橘さんは小さくため息を吐いた。
「……高校生って、それだけで喜ばれるの」
彼女はそのまま天井を仰いで、続けた。
「高校生にもなれば、私達の身体は大方成熟する。だから、十八歳以下も、二十歳も、それ程大きな差はないはず。でも、大人達にとっては違う。大人達にとって『高校生』は特別な意味を持つの。そこに大きな付加価値を嗅ぎ取って、寄ってくる」
「……」
そうして、大人達の欲望を絡め取り、彼女は人気者になった。……その構図がやはり気持ち悪く、僕は小さくため息を吐いた。僕は推理を続ける。
「……だとすると、やっぱり不可解なことがあるんだ」
「不可解なこと?」
彼女は個人情報を明かさない。……けれど、身元特定の恐れが低く、その上視聴者が喜ぶ情報ならば、彼女は開示する。「柚月ひな」のキャラクターに特徴をつけることで、人を集めることができるからだ。
しかし。
「君は部活動を隠したんだ」
「……」
それは妙だった。
「部活動を明かしたところで、学校を隠しているなら、大した情報にはならない。その上、部活動は重要なキャラクター性になりうるはずだ」
実際、高校の情報は漏れてしまっていたため、結果的に部活を隠していたことは正解だった。しかし、彼女の中では出身高校は開示していないことになっている。だとすれば、やはり部活動を隠したことは妙だった。
高校生と部活動は、切っても切れない関係にある。部活動が判明するだけで、その人物に対する解像度は上がり、視聴者は親しみを持つだろう。部活動に精を出す姿を想像し、その妄想を楽しむだろう。
U Tubeの視聴者を増やす上で、部活は有益な情報であるはずだ。しかし、隠した。橘さんは慎重な人間だ。狡猾といってもいいだろう。それなのに、彼女は隠したのだ。
「それは、君が漫研だからだよね」
彼女の部活は漫画研究会。漫画を愛し、そして漫画を描く部活動だ。当然、漫研という情報は、「柚月ひな」のキャラクターを鮮明にするだろう。
しかし、彼女には明かせない理由があった。
「君はU Tubeでの活動以外に、漫画を描いている。もし、そんな君が漫研に所属していることを視聴者が知ったらどう思うだろう。……中には『本命は漫画で、U Tubeは漫画の読者を増やすための好餌なんじゃないか』って、疑う人も出てくるはずだ」
当然、漫研であることが判明したからといって、「本命は漫画」は所詮疑いに過ぎず、確信に変えることはできない。しかし、否定することもできない。そして、永遠に拭いきれぬその疑惑は……悶々と抱える内に、いずれ大きく膨れ上がるだろう。
「だから、君は部活を隠した。疑惑を生まないように……本命が漫画だと、見破られないように」
僕は確かめるように、橘さんを見つめた。橘さんは少し黙った。
「……」
少し、無理のある推理だっただろうか。
数秒間、彼女と目が合って
「……漫画が本命っていうのがなまじ本当のことだから、それがバレちゃうことに過剰に怯えちゃうの。石澤くん。全て、あなたの推理通り」
彼女は小さく、ため息を吐いた。
「漫画家になりたかったの」
小さく、彼女は呟いた。
「自分で絵を描いて、話も自分で書く。一から自分だけの世界を作って、みんなにその世界を知ってもらうことができるの。こんなに素敵な仕事、他にないよ。私は何としても、どんな手段を使ってでも、漫画家になりたかった」
でも、と彼女は目を伏せた。そして、ゆっくりとかぶりを振った。
「自分に才能が無いのは、わかってた。話は良いってみんな褒めてくれたけど、何より絵が下手で、ただ漫画を公開するだけじゃ絶対に誰も読んでくれない。……でも、それでも誰かに読んで欲しかった。いえ、もっと正直に言って、私の漫画が有名になればいいと思った。どんなに下手でも、私は頑張って描いたから。
だから、私自身を売った。今限定の、オプションをつけて売り飛ばした。そしたらね、おもしろい程、人が集まったの。みんな、私を求めてくれた。その人達は、私のためなら何でもしてくれる。くだらない話をいくらでも聞いてくれるし、歌を聴いてくれるし……漫画も、読んでくれる。寂しさを埋めてくれるの。
石澤くん。高校生って凄いんだよ。それだけで、私の味方になってくれる人間が、一万人も集まってくれるの」
彼女は力無く笑った。その笑顔は何故かとても虚しく見えて、僕は思わず目を逸らした。
「……だからって」
それは危険なことだ。子供が……高校生が取るべき選択肢ではない。
橘さんが、純粋な気持ちで……否、邪な気持ちであっても、単に視聴者と戯れることが好きという理由で活動していたなら、まだ良かった。
しかし彼女は違う。彼女は自分を売ったのだ。漫画を読んで貰う為に、自分を餌にした。
「……大いなる目的の達成は」
彼女は呟く。
「自らの人生を賭すような決断の先にしかあり得ない。そう……私の友達が言っていたの。私の尊敬する友達の言葉。
これから先、私の漫画がどこまで通用するかわからない。だから今、全部を賭けるしかないの。自分を売るしかなかったんだ。……そうじゃないと、見てすらもらえない」
「……」
夢。その達成には、少なからず努力は伴う。当然、人生を賭して夢に挑む人間だっているだろう。……いや、夢を追う人間の多くが、全てを捧げているのかもしれない。しかしそれでも、その全員が夢を叶えられるわけではない。
その熾烈な競争の中、栄光を掴むのは誰だろう。……それはやはり、誰よりも人生を捨てた人間ではないだろうか。誰よりも、地獄を見た人間だけが、最後に勝利の美酒で酔えるのだ。
だから、彼女の決断は正しいのかもしれない。戦略は正しいのかもしれない。しかし……。
「……それでも、そんなやり方は駄目だよ。漫画で成功したいなら、尚更、そんなことしちゃ駄目だ。それは、漫画に対して紳士じゃないよ」
言って、馬鹿馬鹿しくなる。今さらそんな掃いて捨てるほどありふれた言葉、僕のような部外者に言われたくないだろう。
だが、そんな僕の安い説得に、彼女は小さく頷いた。
「うん。わかってる。なんか、同級生に見られてるって思ったら、急に恥ずかしくなっちゃった。デート配信はもうしない。……でもね、石澤くん」
橘さんは……「柚月ひな」は力無く笑った。
「確かに最初は、漫画を読んで貰う為の人集めだった。でもね、楽しかったのも本当なの。本当に、恋人みたいに愛していたの」
その言葉を、僕は受け取った。本当に届けたかった人には、永遠に届かない言葉を、受け取った。
「でも、だからこそ、駄目だよね。だって、漫画以外の全てを捨てなきゃいけないのに、いつの間にか、U Tubeは逃げ道になってたんだもん。自分を肯定してくれる、気持ちの良い場所に逃げちゃった。だから、私の夢は……」
「……」
僕は、彼女に対して何も言えなかった。
「柚月ひな」を捨てるのならば、彼女の漫画を読む人間は減る。誰も読まなくなって……彼女の漫画家という夢は潰えるだろう。
……本当に、それでいいのだろうか。僕の夢は「探偵」。だけど、「探偵」なんて職業は存在しない。僕は、幻影を追っている。そんな僕が、彼女の夢を終わらせてしまっていいのだろうか。
僕は「探偵」として、ある程度の努力はしてきたつもりだ。謎が現れたら諦めることなく噛みつく。推理力だって、洞察力だって、ある程度は身についたはずだ。しかし、それらの努力は「夢を叶えるための努力」ではない。きっと、技術を磨くことと夢を叶えることは、必ずしも同じではないのだ。
そんな僕が、真剣に夢を追ったこともない僕が、今、つまらない言葉で一人の人間の夢を終わらせた。間違ったことをしたとは思わない。けれど、僕にその資格があったとは、今は思えない。
「……一つ訊いてもいい?」
僕は彼女に尋ねる。
「何?」
「君は、とても計算高い人だ。だから、個人情報の管理もしっかりしていた。なのに、そんな君がどうして、漫画の背景に校舎なんて描いたの? そんなの、少し考えればわかるじゃないか。高校が特定されちゃうなんて」
彼女は、小さく笑った。それはきっと、自分自身を嗤ったのだ。
「石澤くんの言う通り、私は絵が下手。自信も無い。だから、少しでも見栄えを良くしようと必死だった。少しでも取り繕おうと必死だった。それで、写真を透写したの。でもね、石澤くん。それはトレースって呼ばれていて、漫画家界隈じゃ禁忌なの。だって、自分自身の力じゃないもの。それでも私は止められなかった。簡単に、上手に描けるトレースを止めることなんて、できなかった」
その表情は、とても悲しかった。橘さんは小さく呟いた。
「石澤くん。人はね、後ろめたいことをしている時、それ以外のことなんて考えられないの」
「そういえば」
思い出したように、橘さんが僕を見た。
「どうして『柚月ひな』が私だって気づいたの?」
「え? どうしてって……あ」
そこで、思い出した。僕が手に入れた証拠からは、「『柚月ひな』は久瀬高校の生徒である」という情報しか得られない。久瀬高校の誰か、なんてわかるはずがないのだ。
「ええと」
口籠もっていると
「っていうか、どうしてそもそも『柚月ひな』を知っているの? どこで知ったの?」
怪訝な顔で、僕を見た。
「どこでって……」
溝口先生から依頼されて、と言おうとして思い留まる。
先生は、あくまで僕が彼女を指導することを望んでいる。教員達の関与を隠す為だ。橘さんは「柚月ひな」の活動を教師達に隠したいはずで、教員達も彼女達を傷つけたくはないのだ。
しかし、学校側からの依頼があったことを伝えてしまえば、当然、彼女の配信を先生達も見ていたことが伝わってしまう。
だから、僕が勝手に「柚月ひな」を見ていて、その上で漫画の背景に気づいたことにする必要がある。
「……僕は元々デート配信が好きでさ」
少し恥ずかしいが致し方ない。
「デート配信を沢山見ている内に、おすすめに君が出てきたんだ」
「……まさか、同級生に、純粋に楽しまれていたなんて」
世界って案外狭いね、なんて彼女は笑った。僕は続ける。
「それで、君の漫画を読んでいる時に背景の校舎に気づいたんだ。それを見て、『柚月ひな』は久瀬高校の生徒かもしれないと思い至って調査をしている時に、一柳さんから聞いたんだよ。この漫画の作者を知ってるって」
「そっか、一柳さんは私の漫画知っているもんね」
これで、取り繕えただろう。溝口先生の依頼は達成だ。先生からの依頼であることを隠したまま、事件を解決することができた。
溝口先生が「柚月ひな」を知っていることも、不気味なメールが届いたことも、何もかも隠したまま。
……橘さんは、何も知らないまま。
その時、不意に一柳さんの言葉を思い出した。
「ねえ、『柚月ひな』に会って、注意して……それで、本当に彼女は安全なの?」
……何か、引っかかる。その違和感の正体を探っていると
「それにしても」
橘さんが少し引きつった顔で言った。
「石澤くんは探偵だから仕方ないのかもしれないけど、ちょっと怖い」
「怖い?」
「うん。久瀬高校の生徒であることを知って、正体を調査するなんて、なんだかストーカーみたい」
「……!」
その言葉で、繋がった。
「そうか、だから一柳さんは心配していたのか」
小さく呟く。じっと自分の考えを纏めていると、橘さんが恐る恐る僕の顔を覗きこんだ。
「石澤くん? えっと、ごめん、冗談。気を悪くしたらごめんね。折角私のためを思って叱ってくれたのに」
彼女の声にはっとして、顔を上げた。
「いや、うん。大丈夫。まさかストーカーと呼ばれる日がくるなんて思ってなかっただけだから。確かに、僕の行動はストーカーそのものだ」
そう自嘲気味に笑って見せたけど、上手く笑えていたかわからない。
そう、そうだ。一柳さんの言う通りだ。この事件は、橘さんに注意しただけで終わるはずがない。
「ねえ、橘さん」
僕はとある仮説を組み立て、問い掛ける。
「『柚月ひな』の活動のことを知ってる人って他にもいるの?」
「え? どうして」
「おねがい、答えて」
彼女は不思議そうに首を傾げたまま言った。
「……宗谷は知ってるよ。宗谷は私の、たった一人の友達だから」
「漫画といえば、石澤くん」
部室を出て行こうとした橘さんが振り返った。
「少し、依頼があるの」
「依頼?」
「うん。この前から一柳さんに相談していることでもあるんだけど……」
「ああ、部室に来た時に言ってたやつか」
漫研で起こっているという奇妙な事件。ここ最近、橘さんと宗谷さんは文芸部に来ては、その話題について度々一柳さんと話していた。
そういえば、一柳さんが「高校オカルト部」を知っていた理由は聞いていなかった。一柳さんと橘さんが出会ったのは三日前。事件の依頼の時に知り合ったのだ。つまり、一柳さんは先日の依頼によって「高校オカルト部」のことを知ったのだろう。
だとすれば、漫研で起こっている奇妙な事件は、「高校オカルト部」に関係しているのかもしれない。
橘さんは俯いて言った。
「宗谷と一柳さんは、幽霊の仕業だって言うんだけど……どうにも、私にはそう思えなくて」
「まあ、幽霊なんていないからね」
彼女は苦笑しながら、続けた。
「でも確かにちょっと不気味なの。だから、私、怖くって。できるなら、犯人を見つけて解決してほしい。幽霊の仕業なんて、納得できない」
「ふむ」
「もう石澤くんには『柚月ひな』のことも漫画のこともバレてるし。だから、依頼したい」
「うん、勿論いいよ」
笑顔で応える。何気に、ずっと気になっていた。橘さんと宗谷さんが依頼に来た時、「女の子の秘密」とか言って、僕だけ依頼の内容を聞けなかったのだ。「女の子の秘密」だとしても、狭い部室の中で仲間外れにされるのは気持ちの良いものではない。
「それで、一体どんな事件が起こったの?」
「それがね、」
そして、彼女は語った。
不気味で、不可解で、理解不能なその事件を。
「……ってことなの。不思議でしょ?」
「ふむ」
彼女の依頼を聞き届け、
「……確かに、これは幽霊というより、ゴーストだ」
一柳さんの言葉遊びに、ほくそ笑む。
すると誤解させてしまったようで、橘さんは眉をひそめた。
「石澤くんもお化けの仕業だと思ってるの?」
「ああ、いや、そうじゃないよ」
手を振って、慌てて否定する。
「多分、一柳さんはゴーストライターのことを言ったんじゃないかなって」
「ああ、なるほど。だからゴースト」
橘さんは納得したように頷いて
「……ゴーストライターなの? この事件の犯人は」
首を捻った。
「まあ、ちょっと違うかな?」
所詮は言葉遊び。あんまり掘り下げることでもない。僕はわざとらしく咳払いをした。
「とにかく、承った。事件が起こったのなら、そこには絶対に犯人がいる。幽霊じゃない、れっきとした人間がね。なら、僕に任せてよ。絶対に犯人を、見つけ出してみせるから」
「……ありがとう」
彼女は深く礼をした。
「本当に、色々ありがとうね」
「いいって。事件を解決するのが探偵の仕事だからね。また何か困ったことがあったら、遠慮せずに、文芸部を訪れるといいよ」
橘さんはもう一度頭を下げると、今度こそ部室を後にした。
その姿を見送り、
「さて」
僕も席を立つ。
ストーカーの存在。危機感の無い先生達。そして、橘さんの依頼。その全てが、僕には無関係に思えなかった。そして、この事件はまだ解決していない。その確信がある。
僕は次なる事件の第一歩として、一つの疑念を晴らす必要があると考える。その為に、先生の嘘を暴かなくてはならない。
僕は職員室へと向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます