8-3 「案件名:東京開発不動産」 その後処理
「それにしても、まさかこんなとんとん拍子に進むなんてね」
会社を出て最寄り駅へと向かう途中、円香がぽつりと言った。
午後、智章と円香は東京開発不動産の本社へ、受注のお礼のあいさつに行くことになっていた。部長の奥平とは、本社のビルの前で合流する手はずになっている。
朝には降っていた雨も、いつの間にか止んでいた。
「いいんじゃない? 本来はもっと早くに決まっているはずだったんだから」
「それはそうだけど。ついこの前まで、どうなるか全く分からなかったのに」
確かに、奥平が競合へ情報を流したことで、どちらに転んでもおかしくない状況になっていた。
だが、提案が漏れることさえなくなれば、決して勝てない相手ではない。
2人の会社から、最寄りの駅までは一本道が続く。受注が確定したこともあって、リラックスした空気でゆっくりと歩道を歩いた。
「まあ、無駄に苦労はさせられたよね」
「本当に。注目してもらってる案件だっただけに、もし落としてたら、なんて言われてたか……」
「けど、良かったね。これで一気に出世が近づいたんじゃない?」
円香は今、営業部の中で一番の出世頭だ。特に上層部からも注目をされているこの案件を取れたとなれば、間違いなく次の人事発表の時には相応の役職がつくはずだ。それこそ、奥平が危惧した展開になることだってありえるだろう。
「そっか。そうなるのかな」
それなのに、やはり円香の表情は冴えなかった。
「嬉しくないの?」
「みんなの期待に応えられるんだから、嬉しくなきゃいけないよね」
意外だった。
出世欲のない自分と違って、円香は常に上を目指しているものだと、智章は思っていた。
「別に嬉しくないといけないことはないと思うけど……」
「だけど、やっぱりみんな期待してくれてたし」
円香は申し訳なさそうに眉をひそめる。
「私、久しぶりに甲斐くんと仕事をしておかしくなったのかも」
「え、俺のせいなの?」
突然、円香は聞き捨てならない言葉を口にした。
「だって、これまではずっと、大きな仕事を決めた時は達成感があったのに。これはもう、甲斐くんのせいしかないかなって」
「いやいやいや……」
(確かにいろいろ振り回した気はするけど、そこまで言われることかなぁ)
「大丈夫。別に嫌な意味で言ってるわけじゃないから」
そう言って円香は小さく笑った。
じゃあどういう意味なのと、智章が訊こうとした時だった。
「あれ? あの人……」
円香は何かに気づいたように向かいの道路の方を見た。
視線の先を追うと、そこにはうずくまるような姿勢になった老婆の姿があった。歩道の途中でお腹を抱えるような姿勢になって、まったく動く気配がない。
「大丈夫かな。誰か――」
「甲斐くんは部長と合流して」
円香には一瞬の逡巡もなかった。智章が驚いている間にも、円香はその老婆のもとへと駆けていた。
それは一切の躊躇も迷いのない動きだった。
「なるべくすぐに追いかけるから!」
人命とビジネスを天秤にかければ、そんなものはわざわざ考えるまでもない。まして、今回の訪問に円香がいなければいけない理由も弱い。
ただ、それにしてもあまりに円香の決断は早かった。これまでに見たことのない速さで老婆へ駆け寄っている。
「あんなに必死になるんだ」
それは、思わず漏れたつぶやきだった。これまで仕事で見てきた円香は、冷静に淡々とやるべきことをこなしてきた。そんな姿を見てきただけに、今の円香はとても意外に映った。
あるいは、こちらの円香の本当なんだろうか。
向かいの通りに渡った円香が老婆へ声をかける。老婆は円香の呼びかけに応えるように顔を上げていて、どうやら意識はあるようだ。
(俺だけは部長のところに行かないと)
そんな円香の様子を横目に見ながら、智章は東京開発不動産のビルへ向かう。後ろ髪を引かれる気持ちはあったが、この場は円香ひとりで十分だろう。
智章はひとり、この案件に決着をつけに向かうことにした。
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