1-2 退屈な仕事→突然の抜擢

 オフィスのフロアでは、いつも忙しい時間が流れている。電話が鳴り、誰かが誰かに声をかけ、カタカタと急ぐようにキーボードを叩く音が聞こえる。始めの頃は、そんな風に慌ただしく流れている時間に圧倒されたのを覚えている。

 ただ、入社して5年目に突入した今、自分がその慌ただしく働く一員に混じることはなかった。

 忙しく働いているのは、大手の顧客を担当するような期待をかけられているメンバーだけだ。智章はといえば、社内でも注目を浴びることなく、中小の顧客の対応をただ淡々とこなしている。


「あ、お前でいいや。この見積書作ってといてよ」


 デスクで作業をしていると、不意に声をかけられる。見上げると、声の主は営業部の村山だった。村山は特に智章の方を見ることもせずに、手に持った紙の資料をバサっとデスクに置いた。

 村山は智章の一つ後輩であり、お互いにまだ役職にも就いていないはずだった。


(セールスエンジニアって、営業事務じゃないんだけどなぁ)


 智章が新卒で入社して5年目に突入したこの会社は、法人向けのパッケージシステムを販売しつつ、各法人に合わせたカスタマイズやエンジニアの派遣業務を行っている。他にはコンサルなどのチームもあって、手広くシステムに関することを請け負っているが、メインはあくまでパッケージシステムの販売だ。

 智章が所属するセールスエンジニアのチームは、技術的な側面から営業に協力をして、顧客に合わせたカスタマイズの提案を行うのが主な業務だ。

 だがあくまで、村山も所属しているパッケージシステムの提案営業こそが、この会社におけるいわゆる”花形”だった。


「今日中にはやっときます」


 反論するのも面倒で、仕方なくそれを引き受ける。村山は「さんきゅ」と雑なお礼だけ言って、どこかへ消えていった。

 別に出世をしたい気持ちもなければ、下手に大きな案件を持って注目をされたくもない。今の立場に不満はなかった。

 ただ、これではまるで社員Aだ。


(今日はツイてない一日だな)


 押し付けられた見積書の作成に取り掛かろうとした時、フロアの奥から歩いてくる一つの人影が見えた。

 普段この辺りの島ではなかなか見ない恰幅の良いその男は、営業部の部長の奥平だ。誰に用事があるんだろう、と、完全に他人事のように考えていた瞬間だった。

 奥平はなぜか、智章の席の隣で立ち止まった。


「悪いな、うちの村山が」

「い、いえ……!」


 智章は慌てて立ち上がる。

 どうやら、今のやり取りを見られていたらしい。だが、奥山が続けた言葉はそれとは無関係の予想外なものだった。


「それより、お前、名前なんだっけ。今手が離せない案件とかはあるか?」


 いったい何の話だろう。困惑しながらも素直に答える。


「甲斐です。今は細かい案件がいくつか……」

「じゃあお前でいいや。明日から別の案件に入ってくれ」


 ただ驚いた。智章はセールスエンジニアの部署の所属で、奥平は営業部の部長だ。別部署のトップから直接話が来るなんて、今までに一度もなかったことだった。


「えっと。別の案件というのは……」

「東京開発不動産っていう大手だ。向こうの担当とパイプができたから、明日から正式にチームを立ち上げる」

「え……?」


 東京開発不動産といえば、それなりの大手だ。サラリーマンとしては、大きなチャンスをもらえたことに喜ばなければいけないのだろう。けれど困ったことに、特にこれといった感情は湧いてこない。

 ただ、次の奥平の言葉には、思わず反応をしてしまいそうになった。


「ちなみに、相方はうちの渡邊だ。協力して上手くやってくれ」


 それから奥平は、「細かい説明は後でするから」とだけ言って、営業のフロアへと帰っていった。

 断ることも、質問をすることも許される隙はなかった。


(渡邊さんも一緒なのか……)


 奥平が同じチームに入れると言っていた渡邊円香は、営業部署の社員だった。

 円香は智章の同期入社でもあり、そして、単なる同期以上につながりのある関係でもあった。


 この案件で動きがあったのは、さっそくその日の夜のことだった。

 この日は他にも社内でいくつか配置の発表があって、決起集会のような飲み会が開かれることになった。

 いつもであれば声がかからず終わることも少なくないが、この日は円香の相方になる社員として智章も呼ばれていた。


 飲み会が始まってから1時間、だんだんと空気も出来上がってきた頃、ふと智章に向けてかけられた声があった。


「せっかくの飲み会なんだから、もっといろんな人と話せばいいのに」


 見上げると、すぐ隣に円香が立っていた。円香はお酒の入ったグラスと小皿を両手にそれぞれ持って、どうやら席を移動している途中らしい。


(渡邊さん……)


 円香の顔を見て、智章はドキリとした。同じ会社の同期でありながら、まともに顔を見たのは久しぶりで、すっかり綺麗になっていることに驚いた。

 肩の先まで伸ばした清潔感のある黒髪と、パッチリとした少しだけ色素の薄い瞳は、飲み会の最中だというのに、一切の隙を感じさせない。


「さっきまでは一応、課長が隣にいたんだよ」


 20〜30人程度は座れるような広い座敷席の隅で、円香の指摘通り、智章はひとりでちびちびと余った料理をつまんでいた。ただ、ついさっきまで課長が隣にいたのは本当のことで、今はちょうどトイレに立って席を外しているところだった。


「そうなんだ? 今は完全にぼっちな感じになってるけど」


 言いながら、円香は智章の隣に座る。それだけで、ドクンと心臓がはねた。

 こんな近い距離まで近づいて、想像以上に緊張していることに驚いた。同期のはずなのに、年上の女性と話しているような緊張感だ。


(入社した頃は、もっと自然に話せてたはずなんだけどなぁ)


「いいんだよ、どうせ俺がひとりでいたって誰も気にしないんだから」


 少しやさぐれて言うと、円香はくすりと笑った。


「そういうところ、全然変わってない」


 智章はそれに曖昧に笑って流した。


「私たち、同じ会社の同期のくせに話をするの久しぶりよね」


 指摘されて、智章は「そうかも」と同意した。

 円香は純粋な営業のメンバーで、セールスエンジニアの智章とは部署が違う。同じ案件を担当することにならない限り、仕事の話をする機会はほとんど生まれない。


「けど、渡邊さんの話題はよく聞いてるよ。営業部の期待の星だって」


 同じ役回りではないだけに単純な比較はできないが、同期入社であっても5年目に突入すればそれなりに立場に違いは出てくる。3ヶ月の研修の後に営業部へと進んだ円香は、コツコツと成果を出し続けて、いずれは女性管理職になることを期待されているほどだ。

 なんとなく感じるこのぎこちなさは、4年の間に開いた立場の違いが理由なのかもしれない。


「そうなの? 甲斐くんのうわさは……、あまり聞いていないかな」

「あまりっていうか、全然でしょ?」


 自嘲混じりに言うと、円香は「そうだね」と下手に気を使わずに返した。


「だよね。どうせ俺は地味キャラだから」

「私は地味だなんて思わないけど」


 円香はいつもキッパリと話す。久しぶりに話をして、より言葉に力強さが増しているような気がした。働き始めてから4年も経てば、もうすっかり営業の人だ。

 比較して、余計に恥ずかしくなる。


「地味だよ。地味っていうか、もはやモブだし。モブ社員みたいな」

「なにそれ」


 円香は可笑しそうに言ってから、すぐに真面目な顔で言った。


「甲斐くんはずっと真面目に頑張ってるのに、もったいない」


 真面目だなんて褒め言葉、他の人から言われたなら嬉しくはなかった。けれど、円香だけは少し特別だった。

 入社してから3ヶ月の研修期間、智章が最も話をした相手が円香だった。お互い積極的に話をするタイプではなかったけれど、空気感が近いことだけは直感していた。話をするうちに好きな作家が同じだと判明し、そこからまた一気に距離が縮まった。一度、2人きりで遊びに出かけたこともあったはずだった。

 それなのに、研修が終わって別の部署に配属されると、それきり疎遠になってしまっていた。


「別にいいんだよ、変に目立ってもいいことないし。今だって、ただ毎日過ごすだけで精いっぱいなんだから」

「じゃあ、お話は? まだちゃんと創ってる?」


 不意の質問で少し驚いた。

 けれど、円香が相手ならこういう話になるのは自然のことだ。入社してすぐの頃は、こんな話題も自然にできていたはずだった。

 円香はまるで誤魔化すことを赦さないような目で、じっと智章の方を見つめている。耐えきれず、智章は目を逸らした。


「全然だよ。何度か書こうかなって思ったことはあるけど、勉強しなきゃいけないこともたくさんあるし、一人暮らしだといろいろと時間も取られるし……」


(まるで、自分への言い訳みたいだな)


 こうやってずっと、書かない理由じゃなくて、書けない言い訳を探している。入社してすぐの頃は、仕事に慣れたらすぐに創作を始めるつもりでいたのに。

 無難に会話を進めるなら、「そうだよね。忙しいよね」なんて、適当な同調の言葉が返ってくるのが当たり前の流れだ。それなのに、円香はそれを赦してはくれなかった。


「それでも、まったく時間が取れないってことはないんじゃない?」


 ――私、やっぱり甲斐くんにはお話を書き続けてほしい。


 不意に思い出すのは、一度だけ2人で出かけた時のこと。そういえばあの時も、そんなことを俺に言っていたっけ。


「別に時間があれば書けるってものでもないんだよ」

「もう飽きちゃった?」


 これがオフィス内の雑談なら、適当な言葉で誤魔化しただろう。それでも抑えが効かないのは、きっと飲み会の席だからだ。


「書いたって、どうせ何にもならないから」

「え?」


 ずっと物語を作るのが好きだった。

 小さな頃は頭の中で物語を展開させて楽しんで、高校に入ってからはそれを小説という形にするようになった。そして、大学3年生になって仲間に出会うと、みんなで1つのゲームを作ろうとしたりもした。

 だけど、いったいそれで何が残ったんだ。

 小説は友達が何人か読んでくれた程度で、何度か応募した賞はかすりもしない。

 そして、みんなで作ろうとしたゲームは、結局未完成のままチームが空中分解だ。


「なんていうか、身の程を知ったんだよ」


 物語を創っている間だけは、モブじゃなくなれる。

 男Aみたいなキャラじゃなくて、エンドロールに名前が載るような、何者かになれる。そんな気がしていたんだ。

 それでも現実は非情で、どこにいても何をしても、ゲームの世界に行ってすら、俺はモブのままだった。


「身の程なんて、そんなの――」

「お、いいねえ! 若者同士、親睦を深めてるねえ」


 円香が言いかけた言葉を遮るように、課長が席に戻ってくる。上司が戻ってきたとなれば、プライベートの話はそこで終わりだ。それからは、課長のありがたい話に適当な相槌を打つだけの時間になった。

 そんな風にして、無益な時間が過ぎていく。

 大人の飲み会は、ただただ退屈だった。

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