五 亀甲屋の評判と藤五郎

 亀甲屋に夜盗が入り、これを見張り番の香具師たちが捕縛して北町奉行所に引き渡した一件は、江戸市中で評判になった。


『亀甲屋は、本所の香具師の元締の又芳。深川の元締の末次郎、神田の元締の権太、馬喰町の元締めの藤代たちが手下を率いて見張り番に立っている。亀甲屋は江戸一番の安全な御店だ』

 と評判になり、

『金子を借りるなら両替屋の亀甲屋だ、積み立てするなら積立屋の亀甲屋だ、物借りるなら損料屋の亀甲屋だ』

 と評判になった。


 亀甲屋の客が増えるに連れて多忙になり、藤五郎は廻船問屋の仕事と薬種問屋と薬種屋(薬剤の小売り)の仕事に手がまわらなくなった。

 見かねた多紀が藤五郎に助言した。

「旦那様。一番信頼している藤代さんが両替屋(積立屋も兼ねている)と損料屋を切り盛りしてるんですから、安心して全て任せたらいかがですか。

 旦那様は、薬種材料の仕入れと留守居役様の下請けという、大事な商いがあります。これは、他の者に任せられないはずです。廻船を手配して薬種材料の仕入れと留守居役様の下請けに尽力なさいませ」

 多紀は言葉穏やかに藤五郎に助言した。


 藤五郎は、多紀の話をもっともだ納得した。

 俺は新たな商いに何を浮き足立っていたのだろう。藤代を信頼して藤代の女房の綾も藤代の従弟の藤治郎も信頼しているのに、どうして俺は、亀甲屋の全ての仕事を俺が見なければならぬと思っているんだろう。俺は心の奥で、藤代たちに両替屋と損料屋の仕事を任しきれないと思っているのか・・・。これが今まで何事も独りで行ってきた俺の本質か・・・。

 多紀さんは俺の本質に気づいてる・・・。俺に助言したのは、俺が忙しくなって大変だと思っているだけではない。多紀さんは亀甲屋の上女中として俺の性格を見抜いてた・・・。藤代たちに両替屋と損料屋を任せろというのは俺の性格を変えるためか・・・。

 奥座敷でそう思いながら、藤五郎は大福帳を見ていた。



 奥座敷に、多紀がお茶を持って現れた。

「まもなく昼餉にします。

 特に、食べたい物がありますか」

 多紀は藤五郎が大福帳を見ている座卓にお茶を置いた。


「多紀さんにおまかせる・・・。

 ところで、多紀さんが話したように、俺は、任せられる商いは世話役の藤代と大番頭の佐吉、番頭の吾介に任せ、薬種材料の仕入れと留守居役の下請けに精を出します。

 奉公人たちのことは多紀さんにお願いします」

 座卓に向っていた藤五郎が、座卓から多紀に向き直って改めて正座し、畳に手を着いてお辞儀した。


「承知しました。奉公人たちの事はあたしにお任せください」

 多紀も畳に手を着いてお辞儀し、藤五郎の礼に答えた。そして、おもてを上げると、

「ゴロさんは、損料屋と積立屋を兼ねた両替屋を開業した折に、祖母のトキさんと義母のお咲さんが奉公人たちとどのように接していたかを理解なさいました。

 あたしも、祖母様と義母様がなさっていたように、これからは今まで以上に奉公人たちを家族として扱います」

 と藤五郎に微笑んだ。


 多紀は思っていた。

 これまであたしは、奉公人たちを子や孫の様に思って接する祖母のトキさんと義母のお咲さんの姿に、奉公人との接し方を学び、上女中として奉公人に接してきたつもりでいたが、あたしの姿は奉公人たちを使う大番頭や番頭の立場に似ていた・・・。

 藤五郎さんが大川の夕涼みに奉公人たちを連れだして、祖父の亀右衞門さんと義父の庄右衛門さんの立場と、祖母のトキさんと義母のお咲さんの違いに気づいたように、あたしも亀甲屋の女将として、奉公人たちを家族として扱い、一人として不満を抱く者が出ぬように、手懐け・・・・ねばならない・・・。

 そう思う多紀の脳裏に祖母のトキと義母のお咲の姿が浮んだ。


 祖母のトキと義母のお咲は丁稚たちや下女たち奉公人に、好きな物を買って食べなさいと駄賃を与えて使いに出したり、奉公人たちができるちょっとした仕事をさせて終ると休ませておやつを与え、また季節の折々に物見遊山に連れ歩いた。

 祖母のトキと義母のお咲が奉公人にさせていた使いも仕事も、亀甲屋の商いではない内輪の使いや仕事だった。祖母のトキと義母のお咲は、あえて、それらを奉公人たちにさせて駄賃やおやつを与えて物見遊山に奉公人を連れ歩き、奉公人たちを手懐けていた。


 祖母のトキさんと義母のお咲さんの内助の功が、亀甲屋の奉公人を家族のようにまとめていた。そのお陰で、祖父の亀右衞門さんも義父の庄右衛門も気兼ねなく奉公人に商いをさせていた・・・。

 あたしも祖母のトキさんと義母のお咲さんのように、藤五郎さんの支えにな

・・・。

 多紀は、改めて藤五郎の妻としての己の立場を実感した。

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香具師の生涯 与力藤堂八郎① 牧太 十里 @nayutagai

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