二 藤五郎のいい人

 その夜、文月(七月)十五日、夜四ツ半(午後十一時)。


 隣の褥から、規則的な寝息が聞こえはじめる頃、藤五郎はひと月ほど前に、香具師たちの積立の件で馬喰町界隈を仕切る香具師の元締め、藤代の家を訪ねた折を思い出していた。

 藤代は、亡き妻藤裳の従兄で、藤五郎の父藤吉の再従弟である。歳は藤五郎より二つ上。藤五郎の再従弟叔父である。



 藤代の家に上がった藤五郎は奥座敷で、

「藤代に香具師の積立を仕切って欲しい。頼みを聞いてくれるか」

 と話を切りだした。

「どうした。亀甲屋は、今まで積立屋を兼ねる両替屋を行っているではないか。

 それを俺に任せると言うのか」


 亀甲屋は廻船問屋と薬種問屋、香具師たちの積立をする積立屋を兼ねる両替屋、香具師や辻売りに商いの道具を貸し出す損料屋である。そして、霊岸島の越前松平家下屋敷留守居役松平善幸の商いの下請けもしている。


「亀甲屋に出入りして、香具師相手の商いを手伝って欲しいのだ」


「この俺が亀甲屋に奉公して、香具師相手の積立屋と損料屋をするのか」

「香具師を専門に担当し、藤代の都合の良い折に御店に出てくれれば良いのだ。

 頼みを聞いてくれ」

 藤五郎は藤裳に頭を下げた。


 藤代の女房の綾が酒肴の膳を持って現れた。

「藤五郎さん。人手が減ったのかい」

 綾は藤五郎と藤代の盃に酒を注ぎながらそう尋ねた。綾は日頃になく藤五郎の顔に血の気が無く生気がないのが気になった。


「俺の様な家族を亡くす者を減らしたいと思って、薬を安く商おうと手を打つのだが、いろいろ支障が増えてなあ・・・。

 それで、信頼できる藤代に、商いを手伝って欲しくて頼みに来たわけだ」


「そうか。それなら引き受ける。

 藤治郎とうじろうに手伝わせて良いな」

 藤治郎は藤代の従弟で、亡き妻藤裳の弟だ。

 藤代は、妻の藤裳と娘の美代を亡くし家族を亡くした藤五郎の気持ちが良くわかっていた。


「もちろんだ」


「綾、藤治郎をここに呼んでくれ。酒肴の膳を頼む」

「はいよ」

 綾がその場を立った。



 まもなく、藤治郎が奥座敷に現れて座った。藤代から藤五郎の依頼を聞くと、すぐさま承諾し、

「総元締め。義弟として頼みがあります」

 と藤五郎にお辞儀した。


「なにか大事な事か」


「はい、義弟として義兄さんへの頼みです。

 後添いを貰ってください。義兄さんの心を癒す人を貰ってください。

 亡き姉の藤裳と娘の美代を忘れろと言うのではありません。

 亡くなった人たちを、いつまでも忘れないでください。

 しかしながら、このままでは義兄さんの心が病んでしまいます。

 義兄さんの心を癒す人を貰ってください・・・」


 藤治郎は藤代から、妻の藤裳と娘の美代を亡くし家族を亡くした藤五郎の日々を聞き、香具師仲間の依頼を亀甲屋に伝えるついでに、それとなく藤五郎の様子を伺っていた。いつ見ても藤五郎は物思いに耽っていた。その姿は商いを考えているようには見えなかった。

 これでは義兄さんは心の病になってしまう・・・。良い方法は・・・。

 アッ、上女中の多紀さんだ。多紀さんがいる・・・。

藤治郎は、心の内でそう思っていた。


「そうですよ。早く後添いを貰いなさいよ」

 綾が酒肴の膳を運んできてそう言った。


 藤代も言う。

「藤五郎。いい人は居らぬのか」


「そうだな・・」

 藤五郎はいい人が思い浮ばない。

 祖父や義父が気に入っていたおさきさんは幻庵先生に嫁いだ・・・。

 強いてあげれば多紀さんか・・・。

 藤五郎は多紀が藤五郎に好意以上の思いを抱いているのに気づいていた。


「義兄さん。多紀さんはどうですか。あの人は真面目だしそれに可愛いです。

 何よりも義兄さんを見る目が違う。義兄さんを好いている目だ」

 藤治郎は亀甲屋で何度か上女中の多紀に会っている。


「そうだな。多紀さんだな。藤五郎の気持ちはどうなんだ」

 藤代が真顔で藤五郎を見ている。


「わかった。それとなく打診してみる。話がまとまった折は、真っ先に知らせ、内々の祝言を挙げる。その折は力添えを頼みます」

 藤五郎はその場で皆に深々とお辞儀した。

 こうでもせねば、この場がおさまらぬ・・・。


 藤五郎の言葉で、皆が笑顔になった。

「よおしっ。前祝いだ。飲めっ」

 藤代は藤五郎と藤治郎に酒を勧めた。




 あの時は成り行きであのように話したが、藤代たちに話したとおりになりつつある。これも定めか・・・。

 そう思っていると、

『そうだよ、ゴロちゃん。

 いつまでも独りでいたら、美代もお祖母さんもお義母さんも、お祖父さんもお義父さんも、皆が心配するよ。

 多紀さんなら、あたしも安心だよ・・・』

 と声がした。

 藤裳・・・。

 そう言おうとした藤五郎は、いつのまにか寝ていた。




 翌日、文月(七月)十六日、暮れ六ツ(午後六時*日没の30分前)。


 亀甲屋の番頭の吾介に率いられた丁稚でっちたちと、手代の佐平に率いられた下女たちを連れ、藤五郎は多紀と共に、両国橋西詰めの袂から、夕涼みの舟遊びのため三艘の屋形舟に乗った。一艘は番頭に率いられた丁稚たちが、もう一艘は手代が率いた下女たちが乗っている。どちらも大きな屋形舟だ。もう一艘は、藤五郎と多紀が乗る小さな屋形舟だ。


 どの屋形舟も納涼のために障子戸は取り外してある。そして三艘は大川の岸辺沿いに流れを漂っている。


 奉公人たちは、夕涼みに興ずる岸辺の賑わいや、打上げられ花火や、屋形舟や小舟に乗って夕涼みを楽しむ者たち、商人と芸者を眺めながら、屋形舟で出された夕餉の膳に舌鼓を打っている。


「みなが楽しそうだ。これからは折に触れ、このような事をしたい・・・」

 藤五郎は併走する二艘の屋形舟の丁稚たちと下女たちを見ている。

 夕涼みの舟遊びを見せたかったのは多紀にだが、奉公人たちにも何かしたやらねば・・・。

「はい、皆が喜んでます。これからは季節ごとに催しをなされば、皆が喜び、仕事にも精が出ます。」


「そうだな・・・。

 多紀さんにだけ夕涼みの舟遊びを見せたかったのだが・・・」

 二人だけで舟に乗り、もっと多紀を知りたかった・・・。

 今後のために、多紀を何処まで信頼して良いか、早めに見極めねばならない・・・。


「嬉しいお話です。でも、奉公人がたくさんいますから、上女中のあたしだけが遊興にという訳にはゆきません・・・」

 いっそのこと、あたしを旦那様の女房になさいませ。さすれば気兼ねなく何処へなりと付いてゆきます・・・。多紀はそう言いたかったが堪えていた。

 旦那様は、いつまであたしを話し相手にしておくのか・・・。


「いつまでも上女中にしてはおかぬ・・・」

 藤五郎は、丁稚たちの屋形舟に手を振っている。

 上背は多紀が五尺、藤五郎六尺。並んで立てば大人と子供の違いだ。実際、藤五郎はそのように思っていた。


「えっ・・・。それなら、あたしを何にするおつもりですか」

 多紀は藤五郎に心を読まれていると思った。

「多紀さんは何になりたいか」

 今度は、藤五郎は下女たちの屋形舟に手を振っている。


「では、女房にしてくださりませ・・・」

 多紀は半分は戯れで言った。


「あいわかりました。多紀さん」

 藤五郎は奉公人たちの屋形舟を見ながら、多紀に聞こえる小声で言った。


「ええっ、本当ですか」

 多紀は、藤五郎が本気で話しているとは信じられなかった。


「明日、大番頭と番頭と手代を交えて、内輪の祝言をする日取りを決めましょう。お披露目は後ほどにして、当分の間は内密にですよ」

 藤五郎多紀にを見て微笑んでいる。


 旦那様は商いの話し相手に、あたしを女房にする気だ。それも一歩まちがえば、抜け荷の咎を着せられる裏商いになってしまう・・・。

 あたしは旦那様の商いに口添えなどできるのか・・・。


「多紀さんに心配はかけぬ。何かの折は、無理をし過ぎだ、と私を諫めて欲しいのだ。

 これからは隣で寝てください・・・。多紀さんが居ると、いろいろ考えが浮ぶ。安心できてよく眠れる・・・。

 その分、多紀さんが疲れるか」

 藤五郎はじっと多紀を見ている。


「そんな事はありませぬ。あたしもぐっすり眠れますから」

 お世辞ではなかった。多紀は上女中として動きまわっている。疲れで毎晩ぐっすり眠れる。


「では、今宵も・・・」

「はいっ」

 多紀は、藤五郎から当てにされていると知り、嬉しかった。

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