二 新たな商い

 文月(七月)一日、昼四ツ(午前十時)。

 駿河へ赴いた藤五郎が戻った。

 藤五郎は持参した薬剤で今までの処方通りに咳止めを調薬させた。亀甲屋の報告人は、藤五郎の行いに口出ししなかった。


 その結果、亀甲屋の薬種問屋部門は、留守居役松平善幸への支払い値を差っ引いた値で咳止めを商えるようになった。

 しかしながら、留守居役松平善幸が懇意にしている各大名家への阿片は、今まで通り、喜楽堂善哉門の二重底の菓子折に詰めて、それらを鍼医の室橋幻庵を通じて各大名家に届けている。


 藤五郎は思った。

 いつまでも留守居役松平善幸の商いに関わっていては亀甲屋の商いが疎かになる。

 亀甲屋だけでない。香具師たち独り独りが、原材料の仕入れ、露天で使う道具の賃貸、独立の積立を通じ、亀甲屋の顧客である。この者たちも守らねばならない。

 だが、亀甲屋が香具師の積立を行うに当り、亀甲屋は留守居役松平善幸の口添えで「両替商」として公儀(幕府)の許可を得、正式に「両替商」として「積立屋」を開業した。

 したがって留守居役松平善幸の商いを疎かにはできぬが、留守居役松平善幸の商いの下請けのままでは、身動きできなくなってしまう・・・。


 留守居役松平善幸の下請けを続けながら亀甲屋を繁栄させるには・・・。

 祖母のトキ、義母のお咲、妻の藤裳、娘の美代、祖父の亀甲屋亀右衞門や義父の庄右衛門、皆、他界して頼れる者が居なくなった。分担して商いをする者が居なくなった・・・。


 そこまで思った藤五郎は気づいた。

 人が全てか・・・。いや、人が全てだ。何事も、人が全てだ・・・。

 気づくのが遅すぎたか・・・。


 いや、事を成すに遅すぎることはない、気づいた時が、事を成す「今」なのだ・・・。

 信頼できる者を雇い、亀甲屋の商いを手助けさせれば良い・・・。

 信頼できるのは松月先生なれど、寄合医師の松月先生は多忙で商いなどできぬな・・・

 では鍼医の幻庵先生はどうか・・。幻庵先生は既に留守居役松平善幸の商いに荷担している。このまま、亀甲屋の商いを手伝って貰うのも可能か・・・。

 留守居役の商いの品を届けた折に、話してみるか・・・。

 近々、留守居の商い品を幻庵先生に届ける。その折に伝えよう・・・。



 文月(七月)十一日、夕七ツ(午後四時)

 藤五郎は喜楽堂善哉門の菓子折を携えて鍼医室橋幻庵宅の門を潜った。

「上がらせて頂きますよ」

 藤五郎は、幻庵の妻のおさきの返事を待たずに家に上がった。


 おさきが藤五郎を座敷に通すと、患者の施術を終えた幻庵が座敷に現れ、。先日の礼を述べた。

「先日は和磨の七夜の祝い、ありがとうございました」


「些細な物で相済みませんでした。本日の届けて頂く品です」

 藤五郎は、座卓の横の畳に置いた菓子折の風呂敷包みを、そのまますっと幻庵の膝元へ押した。幻庵は夕餉後、某大名家の上屋敷へ往診に行く予定だ。


 幻庵は風呂敷包みを受け取り、脇に置いた。

「本日の届け物、しかと受け取りました。

 茶と菓子どうぞ」

 幻庵は深々とお辞儀して座卓の茶菓を勧めた。

「して、お話があったのでありませぬか」


「はい。幻庵先生だから話せる事です。他言なさいませぬように・・・」

「はい。承ります」

 幻庵は、念を押す藤五郎に応えた。

 藤五郎はこれまでの経緯を説明した。



「では、仕入れ値で入手できたのですね」

 幻庵は、藤五郎が留守居役松平善幸を通さずに阿片を安く仕入れたのを理解した。

「薬を安く、多くの人たちに使って欲しいのです」

 藤五郎は、流行病で亡くなった妻と娘と祖母と義母、祖父と義父を偲んでそう言った。


 父を亡くした幻庵に藤五郎の気持ちは良く分った。

「店で商うのですか」

 幻庵は、鍼の施術と共に薬を商っても良いと思った


「店で商うと共に、幻庵先生の患者にも商って欲しいのです」

「分りました。承ります。

 松月先生は如何しましたか」


「妙策の立案者ですから、機会を見てお願いに上がります」

「分りました。患者の容態を診て、月に如何ほど薬が必要か、お知らせしましょう。

 いつまでに連絡すればよろしいですか」


「取り敢えずは咳止めが主ですから、そのような症状の者に。

 また、身体の痛みが激しい者にも効果があります。

 鍼と薬の併用で効果が出ると思います」


「と言うと」

「痛みが薄らぎます」

「なるほど。その間に施術を続ければ良いのですね・・・」

「はい・・・」

 藤五郎は懐から、丸薬が詰った小さな竹筒を取り出して幻庵に渡した。

「では、これを。五十粒入っています。これで薬の効果を確認して下さい」


「分りました。お代は如何ほどですか」

「これで、薬の効果を確認して下さい。購入はその後に」



「どちらも同じ丸薬ですか」

「はい。例の丸薬、慈旺丸より小粒で黒色です。一回一粒です。白湯にて服用です」

「日持ちしますか」

「はい。何日も日持ちします。

 ただし、咳止めに使う場合も、痛み止めに使う場合も、ここぞと言う時にお使い下さい」

「どうしてですか」

「常用すると禁断症状が現れます」


「では如何様に使えばよろしいか」


「咳止めに使う場合は一日一つ、三日飲ませて下さい。

 効果が現れぬ時は、四日あけて一日一つ、三日飲ませて下さい」

「はい」


「鍼治療は、何日空けて再施術しますか」

「おおよそ十日です」

「痛み止めは鍼の施術効果が現れぬ時だけ一日に一つです。

 続けての服用は禁止です」

「分りました。薬の名は何と言いますか」

「快気丸です」


「どうしてそんなに薬に詳しいのですか」

「はい。薬種問屋ですので」

「然り・・・」


「月に何人施術しますか」

「例の届け先を除けば、五十人程です」

「一人につき十日に一度の施術で、延べ百五十人ですね。

 今後、さらに患者が増えますよ」

 藤五郎は薬の効果を見越してそう言った。


「はい。月に如何ほど快気丸を購入できますか」

「その話は、この快気丸の効果を確認してからにしましょう」

「分りました」

「よろしく頼みますよ」

「はい」


 これで思ったとおり、幻庵先生を通じて快気丸を商える・・・。

 松月先生は、先生自らが調合した阿片の丸薬を使っている。どうすれば快気丸を扱ってもらえるだろう・・・。

 藤五郎の思いは、竹原松月に快気丸を扱ってもらう方策へ向っていた。

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