二 こじれた夏風邪
それから三ヶ月後の葉月(八月)初旬。
夏風邪をひいたと言って、祖父の右衞門と義父の庄右衛門が寝込んだ。
医者の往診は要らぬと言うふたりを無視して、藤五郎は、神田佐久間町の町医者竹原松月に往診を依頼した。
障子と襖を開け放ち尾部宇迦流れる奥座敷で、祖父の右衞門と義父の庄右衛門を診察した後、口鼻覆いをしたまま、竹原松月は外廊下の手桶に用意された、焼酎入りのぬるま湯で手を洗い清め、口鼻覆いを外して湯飲みに用意された塩水で嗽し、藤五郎がいる隣座敷に入った。
「これを飲ませなさい。熱冷ましと、精がつく薬です」
竹原松月は往診箱から丸薬の包みを取り出して藤五郎に渡した。
すると、傍に控えている女中のおさきが、藤五郎から丸薬を受けとった。
藤五郎が訊く。
「ふたりの具合はどうですか」
「身体が弱っておいでです。
精のつく惣菜を食べさせなさい。軟らかく煮た魚の類いと 軟らかく煮た菜などの青物を、たくさん食べさせなさい。白米は控えて下さい。
分量は、軟らかく煮た魚の類いと軟らかく煮た菜などの青物を、それぞれ同じ分量にし、白米はそれより少なくするのです」
竹原松月は、軟らかく煮た魚を小鉢一杯、菜などの青物を小鉢一杯、白米は小鉢一杯の八割より少なめ、と説明した。
おさきが言う。
「あたし、魚を煮ます。小松菜を茹でて炒めます。精のつく惣菜を作ります」
「それなら白米ではのうて、麦飯を柔らかく炊いてあげて下さい。分量は先ほどの説明のようにして下さい」
「はい・・・」とおさき。
おさきは祖父の亀右衞門と義父の庄右衛門の身のまわりを世話している、十八歳になる女中だ。愛嬌があって笑顔が可愛いおさきは、祖父の亀右衞門と義父の庄右衛門に可愛がられ、祖父の亀右衞門と義父の庄右衛門は、藤五郎の後添いにと思っている娘だ。
「では、私はこれでお暇しますよ」
竹原松月は往診箱を片付けはじめた。
「駕籠を呼びますから、しばしお待ちください」
藤五郎はおさきに言いつけて、手代に駕籠を呼んでもらおうとした。
「それには及びませぬ」
竹原松月は駕籠を断わった。
今日は葉月(八月)の五日、昼四ツ(午前十時)だ。すでに外は暑い。
藤五郎は竹原松月の身が気になった。竹原松月の夜の往診は付き人が居るが、昼日なたの往診は、竹原松月独りである。
「近所ですか。松月先生お独りでは、何かと不便に思いますから駕籠を」
「いやいや、お心遣い、ありがとうございます・・・」
竹原松月が何か話しそうとしているのを感じ、藤五郎はおさきに、
「おさきさん。祖父さんと義父さんに、精のつく惣菜を作ってください」
と言った。
「はい、わかりました」
おさきは、その場から台所へ向かった。
おさきが座敷を離れると、竹原松月は、
「お人払い、ありがとうございます。
藤五郎さんだから話しますよ。他言無用ですよ」
と言い、藤五郎は、竹原松月が患者について話そうとしているのを感じた。
「心得ました」
「これから、鍼医の幻庵先生を往診します。幻庵先生も夏風邪をこじらせましてな。
近頃、あの流行病にかかった者たちで、夏風邪をこじらせる者が増えておりましてな。皆、それなりに、年輩の方たちです」
室橋幻庵は日本橋本舟町に居を構え、各大名家に出入りする、名医の誉れ高い鍼医だ。室橋幻庵の歳は、祖父の亀右衞門と義父の庄右衛門の間である。
藤五郎と室橋幻庵の繫がりは、これまで述べた通りである。その事を竹原松月も知っている。本舟町の鍼医室橋幻庵の家は、ここ日本橋田所町の廻船問屋亀甲屋から徒歩で六町(約654メートル)ほどだ。
「では、祖父や義父に限らず、これまで流行病にかかって快復した年配者が、今年の夏風邪で寝込んでいるのですか」
「それも、かなり重態になりつつある・・・」
「祖父と義父は重態ですか」
「はい・・・」
「幻庵先生もですか」
竹原松月は頷いた。
「此度の流行病で身体が弱ったまま、元の身体に戻ってはいなかったのです。
これはその人の身体の性格故、どうにもなりませぬ。見た目は元気でも、何か有れば持ち堪えられない身体に、夏風邪が追討ちをかけた・・・」
竹原松月は室橋幻庵の病状をきっかけに、祖父と義父の病状を説明した・・・。
藤五郎は祖父と義父、そして鍼医室橋幻庵の病状を理解した。
「覚悟せねばならぬのですね」
竹原松月は頷いた。
「そうですか・・・」
祖父と義父は亀甲屋に居て、藤五郎は日々ふたりと顔を合わせるが、藤五郎が本舟町の室橋幻庵宅に菓子折を届けても、多忙な幻庵は往診中の場合が多く、代わって応対するのは、幻庵の子息の良磨(後に二代目室橋幻庵となる)である。室橋幻庵と顔を合わせるのはひと月に一度くらいだ。
しかしながら、室橋幻庵は藤五郎から受けとった菓子折を携え、ひと月に二十軒の大名家上屋敷を足繁く往診しており、各々の大名家上屋敷から、霊岸島の越前松平家下屋敷留守居役の松平善幸への支払いが滞ることはない。
「松月先生。私はお店を留守にせぬ方が良いのですか」
藤五郎は祖父と義父の容態を再確認した。
「今日明日の事ではありませぬが、できることなら、お店を留守にせぬ方がよろしいでしょう」
「幻庵先生の見舞いは如何ですか」
「此度は、亀右衞門さんも庄右衛門さんも身体が弱っているだけ故、流行病のような感染はありませぬが、藤五郎さんが幻庵先生を見舞う際は、口鼻覆いをして見舞いなさい。
藤五郎さんもおさきさんも元気故と気を抜かず、患者を見舞う際は口鼻覆いし、見舞った後は手洗い嗽をして油断せぬようにな」
竹原松月は患者を見舞う際の注意を促した。
「では、幻庵先生の往診にお供させてください。
今のうちに、幻庵先生にご挨拶しておきたいのです・・・」
藤五郎は再度確認した。
竹原松月は、藤五郎が幻庵の容態を祖父の右衞門や義父の庄右衛門と同じと解釈したのを気づいた。
「そこまで、お気づきなら・・・。
まあ、良いでしょう。挨拶したら、ただちに帰宅して手洗いと嗽をするのですよ。
おさきさんに、見舞いの品を持たせて同行しなさい。
幻庵先生は子息の良磨(後に二代目室橋幻庵となる)さんの行く末を案じておられる。身近に女御がおれば、幻庵先生の気も晴れましょう。
それとも、藤五郎さんはおさきさんを後添えになさいますか」
藤五郎は二十七歳。室橋幻庵の子息良磨は三十二歳でいまだ独り身である。
「いいえ。女房は生き死にに関わらず、藤裳ひとりです。
わかりました。おさきさんを同行します。
松月先生にと思って喜楽堂の詰め合わせを用意しましたので、それと同じ物をお見舞いに・・・」
藤五郎は竹原松月に、往診料の他に手土産として、喜楽堂善哉門の菓子折、饅頭、大福、最中、葛切りそれぞれ五個入りの菓子折詰め合わせを用意していた。
「菓子折の詰め合わせですな。あれは良い。とても良い。病人も喜ぶことでしょう。祖父様と義父様にも差しあげて下さい・・・」
竹原松月の言葉に、藤五郎は、患者たちの行く末が短いのを感じた。
おさきが、熱い茶の碗が載った御盆を運んで座敷に現れた。竹原松月の提案で茶請けの
菓子はない。
おさきが、茶托に載った茶碗を竹原松月の前におくと、藤五郎は竹原松月の往診予定を確認した。
「松月先生。幻庵先生の往診の予定はいつですか」
「使いの者には、すでに往診を依頼されている故、午後に伺うと伝えてありますが、一刻も早い方が良かろうと思いまして」
竹原松月は患者を思ってそう言った。
「では、早めの昼餉を仕度させますから、それを食べてから、幻庵先生を往診なさってはいかがですか」
「できる事なら、一人でも多くの患者を往診したいので、これでお暇致します」
「わかりました」
藤五郎は竹原松月に無理強いしなかった。
今日、葉月(八月)五日、刻限は昼四ツ(午前十時)過ぎだ。すでに外は暑い。午後はもっと暑くなるだろう。
「では、竹原松月と幻庵先生への手土産を用意して、おさきとともに、幻庵先生ご挨拶に行きますので、しばしお待ちください」と藤五郎。
「承知しました」
竹原松月はそう言って茶托の、熱い茶碗を手に取った。
「おさきさん。竹原松月専政と幻庵先生に、喜楽堂の菓子折を用意してください。私と共に、竹原松月先生の往診に同行してください」
「わかりました。菓子折を用意して、お二人の昼餉を他の者に頼んできますね」
「私から、祖父さんと義父さんの昼餉をお多紀さんに頼んでおきます」
多紀は、亀甲屋の上女中だ。
「はい」とおさき。
「では、松月先生。しばしお待ちください。用意しますので」
「分かりました」
「では」
藤五郎とおさきは竹原松月にお辞儀して座敷を出た。
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