六 流行病 その六
如月(二月)十五日、朝五ツ(午前八時)。
藤裳は順調に快復した。奉公人たちも藤裳同様に快復した。
江戸市中に蔓延していた流行病が沈静化した。
亀甲屋の奉公人は竹原松月に寄る熱冷ましと咳止めの処方で、亡くなった者はいなかったが、江戸市中では多くの大店で大量の奉公人が亡くなっていた。
公儀(幕府)は流行病の感染を恐れ、故人を埋葬するという大店の主たちを説得し、故人を火葬する旨の触書を高札に掲示したが、火葬場の不足から、多くの故人が菩提寺の墓地に埋葬された。
昨年暮れ以来店を閉じていた亀甲屋だったが、流行病沈静後、亀甲屋は店開きした。
「流行病が下火になったが、皆、続けて口鼻覆いをするようなさい。
あちこちで、流行病で亡くなった者たちを埋葬しているから、外を出歩かぬようにな。
今までしていたように、店に居ても、一日の節目節目で、着物の塵と埃を払い落として手洗いと嗽をし、口鼻覆いを新しい物に変え、使った口鼻覆いは煮沸するのだぞ」
亀甲屋の主の庄右衛門は奉公人たちに、流行病の感染防止を再度徹底させた。
流行病蔓延中、亀甲屋は店を閉じていたが、薬種問屋の立場もあり、亀甲屋の薬種問屋側に小窓を設え、衝立越しに咳止めと口鼻覆いを商っていた。
値の張る咳止めを扱う立場上、ここを担当していたのは藤五郎と主の庄右衛門だった。
ふたりは流行病感染防止策を徹底しておこなっていたため、藤五郎と主の庄右衛門が感染しなかったと思えた。
しかし、藤五郎は、亀甲屋の奉公人が流行病に感染したのは、窓辺にいた鳥による感染だけでなく、咳止めと口鼻覆いを買い求めた客から、藤五郎と主の庄右衛門が店内に流行病を持ちこんだ可能性があったのではなかろうかと思っていた。
今は、皆が流行病から快復したとは言え、まかりまちがえれば、奉公にだけでなく藤裳と子供を亡くしていたかも知れない・・・。
流行病にかからぬ者も居るが、その者たちが流行病を運んでくる可能性は有り得る・・・。それに、いつも同じ流行病が蔓延するとは限らない・・・。
とは言え、いつも手元に咳止めと熱冷ましを置くには、どうしたらよいか・・・。
如月(二月)十五日、昼四ツ(午前十時)。
褥に横たわる藤裳の傍で、藤五郎は藤裳が病にかかって回復するまでを思った。
如月(二月)六日、昼四ツ半(午前十一時)。
藤裳が病にかかって高熱を出して激しく咳き込んだ。
医者竹原松月が熱冷ましと咳止めを処方した。
翌朝。如月(二月)七日、朝五ツ(午前八時)。
藤裳の熱は下がり、息づかいもおちついて朝を迎えた。
竹原松月の診察で、お腹の子供は流れていなかった。
如月(二月)八日、朝五ツ(午前八時)。
さらに、藤裳の熱が下がり流行病は回復に向かった。
奉公人たちも、藤裳と同じに回復に向かった。
そして、今日、如月(二月)十五日、
藤裳も奉公人も完全ではないものの回復しつつある。
熱冷ましと咳止めを使えば、流行病の熱が下がるのに三日。その後七日間、回復が続き、あと七日もすれば完全に快復するだろう・・・。
何としても、咳止めの元になる阿片と熱冷ましを、いつも手元におきたい・・・。熱冷ましの調合は竹原松月専政に聞けばいい・・・。いかにして阿片を安く手に入れれば良いか・・・。
「ゴロさん。怖い顔してどうしたの」
藤裳が
「咳止めと熱冷ましは流行病に効く。
流行病にかかった者たちに、なんとしても安く届けたいと思ってな・・・。
阿片の商いは、公儀のお墨付である、特別な商い許可証文が要るのだが・・・」
藤五郎は藤裳に、阿片の商い許可証文を説明した。
昨年、神無月(十月)十三日。
藤五郎の依頼を受け、霊岸島の越前松平家下屋敷留守居役の松平善幸は、公儀に、亀甲屋に宝石と阿片の商い許可証文である公儀のお墨付を発行する旨の依頼書を提出した。
それから七日後。
神無月(十月)二十日。
松平善幸の依頼はあえなく却下された。理由は、
『亀甲屋は薬種問屋でもあるから、阿片の商い許可証文は本人から公儀(幕府)に申請すべきであるが、松平善幸が宝石と阿片の商いをしており、亀甲屋がその下請けをしているのだから、そのまま松平善幸の下請けとして、松平善幸の商いを続けるように』
と妙な理屈を述べていた。
これでは、松平善幸の下請けの亀甲屋で扱う阿片の値は下がらない。どうしたら、安い阿片の咳止めを、流行病にかかった者たちに届けられようか・・・。なんとかして安く阿片を手に入れたい・・・。
流行病から回復する、藤裳や奉公人を見て、藤五郎は、霊岸島の越前松平家下屋敷留守居役の松平善幸に、阿片を仕入れ値で分けて欲しい旨を話そうと思った。
だが、藤五郎は思い留まった。
仮に、松平善幸が仕入れ値で藤五郎に阿片を卸すとしても、松平善幸は、必ず松平善幸が商う阿片の値より安くしてはならぬ、と命ずるのはわかっている。藤五郎が安値で阿片を商えば、松平善幸の阿片は藤五郎が扱う阿片より高値のため売れず、松平善幸は大損する。そして、亀甲屋は、松平善幸の宝石と阿片の商いの下請けを解雇され、建前上、阿片は手に入れられなくなってしまう。
説明を終えると藤五郎は言った。
「これはあくまでも、建前だ・・・」
「そうだね。建前だね」
藤裳はただちに、藤五郎の説明に納得した。
藤五郎は、藤裳の決断の早さに驚いた。
「やはり、藤裳もそう思うか」
「はあい、そう思いますよ」
藤裳はそう言って笑っている。
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