四 流行病 その四
睦月(一月)二十日。
近頃、流行病にかかる者が減った・・・。
これまで、流行病にかかった者たちは一割ほどの者たちが亡くなった。
流行病にかかった者たちは、三日ほど高熱を出して生死の境をさまよい、その後、快復するか、他界するかだ。巷で流行病を『三日熱』などと呼ぶが、そんな生易しい発熱ではない・・・。母と父を流行病で亡くした俺は、流行病の高熱の苦しみがどんなに酷いものか分かっている・・・。
今なら、阿片で咳を止めして発熱の苦しみを和らげられるが、母と父が流行病にかかった時、阿片は無かった・・・。
昨年長月(九月)八日の祝言後、頻繁に藤代たち香具師仲間に会い、霊岸島の越前松平家下屋敷留守居役の松平善幸の商い代行による儲け二百両の中から、五十両を己たち香具師のために藤代に渡した・・・。
流行病が拡がり始めた霜月(十一月)下旬には、藤代たちに、流行病にかからぬ対策を説明し、藤裳が懐妊したと分かった師走(十二月)初旬に懐妊を知らせ、その時、師走(十二月)分の五十両を前もって渡した。そしてそれ以来、藤代に会っていない・・・。
藤代に、まだ、今月睦月(一月)分の五十両を渡していない・・・。
身重の藤裳が流行病にかからぬようにするには、藤代と言えど他人に会わぬのが一番の対策だが、折をみて藤代に会って金子を渡さねばならない・・・。気が思い・・・。
藤五郎は思い悩んだ。
病にかかる者が減ったため、江戸市中の大店は商いを再開して店開きたが、亀甲屋は店を閉じたままだった。
「春になって暖かくなるまで、流行病は無くならぬ。
世間では、流行病が減ったと言って商いを再開した店もあるが、亀甲屋はまだ商いを再開はせぬ。
皆、気を抜くな」
藤五郎は、引き続き、奉公人たちに流行病の感染防止策を徹底させた。
そして、霊岸島の越前松平家下屋敷留守居役の松平善幸にも、藤代にも、藤五郎みずからが出向いて流行病による窮状を伝えて納得してもらい、商いを休んでいた。
如月(二月)初旬。
渡り鳥が大量にお濠に飛来し、そして渡り鳥と在来の鳥が大量に死んだ。そろそろ商いを再開しようと思っていた矢先の事だった。
町奉行所は、本道医(内科医)で、公儀お抱えの隠れ寄合医師であり、北町奉行所の検視医を務める、神田佐久間町の町医者竹原松月の指示の元、死んだ鳥に触れぬように、鳥を小塚原に運び、使った道具と共に鳥を焼却した。
「不吉な・・・」
誰もがそう思ったように、また、流行病が江戸市中に蔓延した。
すでに感染者の四割が亡くなっていた。
亀甲屋の奉公人は藤五郎と主の庄右衛門から指示されたとおり、流行病にかからぬ様、感染防止策をとったが、奉公人が次々と流行病にかかった。
如月(二月)六日、昼四ツ半(午前十一時)。
藤五郎は台所から昼餉の膳を離れに運んだ。
「ついにうちの店の奉公人が病にかかった。
藤裳も、気をつけなさいよ・・・」
藤五郎が離れに膳を並べるが、藤裳から返事は無い。
「藤裳、どうした。具合が悪いのか」
口鼻覆いをしている藤裳は、座敷の炬燵に入って口鼻覆いを縫っている。
「ふじも。ひるげだよ」
藤五郎はゆっくり藤裳に言った。藤五郎も口鼻覆いをしている
「ああ、ゴロさん・・・、あたし・・・」
そう言ったまま、針仕事の手を休め、針を裁縫箱に戻して、口鼻覆いを片づけた。
「どうした」
「あたし、熱が・・・」
そう言って藤裳は炬燵に突っ伏した。
「藤裳っ」
藤五郎は藤裳を抱き起こした。藤裳の身体が熱い。額に手を触れた。酷い熱だ。その時、奥庭に面した障子戸と障子戸の間から、数羽の鳩の鳴き声が漏れ聞こえた。
これだっ。口鼻覆いをしていたのに、藤裳は鳩が運んだ流行病で、流行病にかかった・・・。
ただちに藤五郎は褥を敷いて藤裳を寝かせ、台所へ行って、上女中に状況を話して主の庄右衛門を離れに来るように呼んでもらい、手桶に水を汲んで離れに戻って藤裳の額を濡れ手拭いで冷やした。
「藤裳はっ、どうしたっ」
口鼻覆いをした主の庄右衛門が廊下を走ってきた。
藤五郎は障子を開けずに言った。
「義父さんっ。藤裳が流行病にかかりましたっ。
入らずに聞いてくださいっ。
また、竹原松月先生に往診を頼んでください。
早駕籠を送って、来てもらってください。
往診中なら、往診先まで駕籠を送って、往診を頼んでください。頼みますっ」
すでに、亀甲屋は、流行病にかかった奉公人を、医者の竹原松月に往診してもらっている。
「わかった。私が行ってくる。義娘と孫の運命がかかってるんだ。私が行ってくるっ」
庄右衛門は廊下から走り去った。
藤裳は、口鼻覆いをした藤五郎と、口鼻覆いをした庄右衛門の女房で義母のお咲に看病され、頻繁に額の濡れ手拭いを交換されていた。藤裳は高熱のため、荒い息づかいで苦しんでいる。
竹原松月は藤裳に声をかけて額に手を当て発熱を確かめ、脈をとり、下瞼を下げて白目の充血を確認し、舌を出させて喉の奥を診た。
診察が終わると、用意された、焼酎入りの手桶の湯で手を洗い、
「例の咳止めはありますか」
と庄右衛門に言った。
竹原松月が流行病対策を話しに亀甲屋を訪れた折りに、た庄右衛門が竹原松月に持たせようとした阿片の咳止めである。
「あります」
と藤五郎。
「では白湯の鉄瓶と土瓶を二つ、湯飲みを二つと匙を二つ、咳止めをこれにお持ち下さい。
咳止めは、咳と発熱による苦痛を和らげ、腹下しを改善します。
熱冷ましはここに・・・」
竹原松月は持参した薬箱から煎じ薬を取り出した。
「すぐにお持ちします。
藤五郎は、お咲とともに藤裳の傍に居なさい」
庄右衛門はその場を立って、すぐさま、白湯の鉄瓶と土瓶を二つ、湯飲みを二つと匙を二つ、咳止めを持って戻った。
「これと咳止めを、それぞれ煎じて飲ませなさい」
竹原松月は熱冷ましを庄右衛門に渡した。
庄右衛門は、咳止めと熱冷ましを、それぞれの土瓶に入れて白湯を注いで匙でかきまわし、二つの湯飲みそれぞれに、熱冷ましと咳止めを注いで藤五郎に渡した。
「熱いから、冷ましてゆっくり飲ませなさい」
竹原松月に言われ。藤五郎は咳止めと熱冷ましの湯を冷ましながら少しずつ飲ませた。
湯飲みの煎じ薬を飲み終える頃、藤裳の額と首筋から汗が噴き出て、藤裳の息づかいがおちついてきた。
竹原松月はそれを見て、
「これで熱は下がります。息づかいも落ち着いてきました。
今夜を乗りきれば、一安心です。
症状が悪化する前に治療ができて、何よりでした。
奉公人たちにも、この熱冷ましと咳止めを飲ませなさい」
と言い、
「お咲さん、今後の看病の仕方を説明しますから、此方に・・・。
藤五郎さんと庄右衛門さんは藤裳さんを頼みますよ。
なお、手は焼酎入りのぬるま湯で洗って下さい。
藤裳の看病を藤五郎と庄右衛門に頼み、お咲を離れの外に呼んだ。
その状況に、藤五郎も庄右衛門も、妙だと思った。
流行病の事ならここで話せば良い。この場で話せない事をお咲に伝えるのだから、男にはわからぬ、女体についての事か・・・。
竹原松月が何を伝えようとしているか、藤五郎も庄右衛門も薄々勘づいた。
その事を顔に出さぬようにせねばならぬ・・・。
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