二 流行病 その二
廻船問屋亀甲屋の回船問屋専門の店と、その隣に入口を
霜月(十一月)二十二日、午後。
藤五郎が神田佐久間町の町医者竹原松月宅を尋ねた翌日。
薬種問屋専門の店先の品台に口鼻覆いが並んだ。
待っていた客は、こぞって口鼻覆いを買い求め、すぐさま売り切れた。
藤五郎は他の薬種問屋に、医者の竹原松月の説明付きで口鼻覆いの事を語ったが、材料費と手間賃にイワシの煮付け一尾分の儲け上乗せした、亀甲屋の口鼻覆いの値に、他の薬種問屋は舌を巻いた。藤五郎が明かした口鼻覆いの売値とその内訳に、他の薬種問屋は太刀打ちできなかったのである。
「藤五郎、御店はいいから、藤裳の元に居てやれ」
亀甲屋の主の庄右衛門は口鼻覆いをしたままそう言い、藤五郎を店先から立ち退かせた。亀甲屋の主として当然の指示だった。
口鼻覆いをしている藤五郎は、藤裳が待つ離れへ歩いた。
藤五郎はそのまま離れに戻ろうと思ったが、医者竹原松月の説明を思い出し、井戸端へ行って着物の塵や埃を手拭いで打ち払い、口鼻覆いを外して洗面と手洗い嗽いし、ふたたび口鼻覆いをして離れへ歩いた。
途中、台所で上女中に、
「客や奉公人と話した後は、外で着物の塵や埃を手拭いで打ち払い、口鼻覆いを外して洗面と手洗い嗽いし、使った口鼻覆いを予備の口鼻覆いと取り換え、使った口鼻覆いは菜箸を使って熱湯で煮沸しなさい。
煮沸した口鼻覆いは、箸で摘まんで、そのまま天日干しにするのです。
この事を奉公人たちに徹底せなさい。
私に菜箸を一膳下さい」
と説明し、上女中から菜箸を貰って離れへ歩いた。
「お帰り、ゴロさん。暖かくしてるよ。時折、障子を開けて風を入れてる。
炬燵に入ってるから、暖かいよ」
藤五郎が離れに入ると、藤裳は口鼻覆いを縫う手を休め、顔の口鼻覆いを外そうとした。
「外すな。俺は客と会ってきた。発病しておらなくも、流行病にかかっているやも知れぬ。家族も然りだよ」
藤五郎はそう言って己の口鼻覆いを示した。己の着物の塵や埃は打ち払ったが、口鼻覆いの塵や埃はそのままだ。煮沸せねばならぬ・・・。
「藤裳、ひとつ、貰うよ」
藤五郎は藤裳が縫った口鼻覆いを示した。
「はい、どうぞ。どうするの」
「今使っているこれを煮沸して、この新しいのを使うんだ。
鉄瓶の湯と洗い桶を借りるよ」
藤五郎は菜箸で、口鼻覆いを湯がく仕草をした。
「はい。熱いから気をつけてね」
「はい、気をつけます。おかあちゃん」
「もう、ふざけないのっ」
藤裳はクスクス笑っている。
藤五郎は、作りたての口鼻覆いをひとつ懐に入れ、火鉢の五徳に載った鉄瓶と、傍にある洗いおけを持って離れを出た。
離れの外廊下に立つと手桶に鉄瓶の熱湯を入れ、使っていた口鼻覆いを外し、持ってきた菜箸で熱湯に浸した。
しばらくすると、口鼻覆いを菜箸で摘まみ、外廊下の物干し竿に吊した。
この時、藤五郎はふと思った。
口鼻覆いを乾かすのはここで良いのだろうか・・・。
霜月(十一月)二十二日、午後。
今日は晴れて穏やかな日和だ。風もない。
しかし、例年はこれから風が強くなる。口鼻覆いを外に干したのでは、塵や埃だらけになる・・・。
塵や埃だらけならぬように、風を避ければ・・・、それでも塵や埃は舞ってくる・・・。いっその事、座敷にでも干すか・・・。
そう思った藤五郎は思いついた。
座敷の障子は・・・、そうかっ。障子紙は風を通すが塵や埃は通さぬ・・・。
障子戸で囲った中に、洗った口鼻覆いを干せば、口鼻覆いに付く塵や埃はわずかだ・・・。だが、外に干すより乾きは悪い・・・。
藤五郎は、湯上がりの濡れ手拭いを座敷の手拭い掛けに掛けた時を思った。
それでも、外廊下に干して、塵と埃にまみれるよりましだ。早速、天井と四方を障子戸にした口鼻覆いの干し場を作ろうっ。
藤五郎は外廊下から離れの座敷に入った。
「藤裳、使った口鼻覆いは熱湯で煮沸して干すのだよ。
煮沸した口鼻覆いに、埃や塵が付かぬよう、それぞれの外廊下に、障子戸で囲った、口鼻覆いの干場を作るから、そこに煮沸した口鼻覆いを干しなさい。
座敷から出たら、戻る時、外廊下で着物の塵と埃を手拭いで打ち払い、使った口鼻覆いを予備の口鼻覆いと交換して座敷に入りなさい。
使った口鼻覆いの煮沸と干すのを忘れぬようにな。
それと、常に予備の口鼻覆いを持っていなさい」
藤五郎は藤裳に優しくそう言った。
その日のうちに、亀甲屋の外廊下の各々に、障子戸で囲われた、口鼻覆いの干し場が設えられた。
使って煮沸した口鼻覆いが干されると、乾きは遅いものの、戸外に干した着物や肌襦袢や下帯などと比べ、塵や埃が付着しておらず、奉公人たちから、
『物干し場も、障子戸で囲っては如何か』
との申し出が出た。
奉公人の申し出はすぐさま取り入れられて、障子戸で囲われた物干し場が外廊下に出現した。まるで、外廊下に、細長い障子戸の部屋が現れたようだった。
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