三 藤裳への思い
藤五郎と藤裳が許嫁になると、
「では、正式な段取りは亀甲屋の主の庄右衛門からさせまする故、私どもはこれにて日本橋田所町の廻船問屋亀甲屋へ戻りまする。
藤五郎、お前は、今後の事を藤代さんたちと良く話おうておきなさい。
藤代さん。今宵は藤五郎と話し合うて、藤五郎をこちらに泊めてくだされ。
綾さん、藤裳さん。藤五郎を頼みますよ」
「はい」
「今宵はこれでお暇しますよ」
トキは藤裳に目配せして、咲とともにその場から立った。
「お二人をお送ってさしあげろ」
藤代は藤裳の弟の藤治郎と手下に命じた。
「はい」
トキと咲は藤治郎と手下に送られて、日本橋田所町の亀甲屋へ向かった。
「綾、湯飲み茶碗をくれ・・・・。飲め・・・」
綾が藤代と藤五郎の膳に湯飲み茶碗を置いた。盃などではまだるっこしいのは綾もわかっていた。二人とも、飲んでも簡単には酔わない体質だ。それは藤五郎の父、藤吉の家系の者に共通している。
「藤五郎。藤裳を頼むぞ」
「ああ、わかってる」
何をどう話して良いか・・・。住いは亀甲屋の裏長屋か、亀甲屋か、ここ藤代の家か、新たに町屋を一軒借りるかだ。なんなら町屋を買ってもいいが目立つ事はしたくない。藤裳はどの様な住いを気にかけているだろうか・・・。
「住いは・・・」
「住いは・・・」
藤五郎と藤代が同時に口を開いた。
「どこに住むのだ」
そう訊いて藤代は茶碗の酒を飲んだ。
「決めてない・・・」
藤五郎は酒の茶碗を口へ運んだ。
「ならば、世間並みにするか・・・」
藤代は茶碗を膳に置いた。箸で肴を摘まんでいる。
「と言うと・・・」
藤五郎は酒を飲まずに茶碗を口から離した。
「亀甲屋の跡継ぎは亀甲屋に・・・」
藤代は肴を口に入れた。
「では、香具師の総元締めはどこに住めば良いか、答えろ」
藤五郎は藤代を見た。
「それは・・・」
藤代は肴を噛みしめたままだ。
「日本橋の香具師の元締の住いは、父が暮した亀甲屋の裏長屋だ。
亀甲屋の跡継ぎの住いは亀甲屋だ。
この二箇所の真ん中は、何処だ。答えろ」
藤五郎は藤代に、己の立場と住いを確認した。
「それは・・・」
藤代は答えられなかった。
飲んで語る話ではなかったが二人の家系は酒に耐性がある。ほとんど酔っていなかった。
「ここまでは俺の考えだ。藤裳は何処に住みたいか」
藤五郎は隣の膳に着いている藤裳に訊いた。
「ゴロさんは・・・」
藤裳は箸を置いた。亀甲屋で暮すと考えていたため、答えられなかった。
「亀甲屋の裏長屋と亀甲屋の真ん中は、亀甲屋の奥庭か、奥庭の土蔵かと思います・・・」
藤裳の弟、藤治郎が藤五郎の茶碗に酒を注ぎながらそう言った。
「では、」
そこまで言って、藤五郎は茶碗の酒を飲んだ。皆が藤五郎の次の言葉を待った。
藤代が藤五郎の住いを気にするのには訳があった。
これまで亀甲屋は、香具師が商う品の原材料を仕入れて香具師に販売し、香具師が露天で使う道具の賃貸をし、将来独立する香具師のための積立まで行ってきた。
表向きは、亀甲屋の主の庄右衛門と先代の亀右衞門が、香具師相手に商売しているのだが、香具師たちは、香具師の総元締めの藤五郎が亀甲屋を通じて、江戸市中の香具師の世話を焼いていると考え、藤五郎が常に亀甲屋に居ることを望んでいたのである。
つまり、藤五郎の立場は父藤吉と同じように、、単なる集団の長としての香具師の元締の立場から、商取引を行うという立場へと大きく変わっていため、香具師たちは昼夜兼行で藤五郎が亀甲屋にいることを望んだ。
藤五郎は茶碗を膳に置き、皆を見て言った。
「亀甲屋の奥庭か、奥庭の土蔵で暮そうかと思う」
「何とっ」
皆が驚いた。藤五郎は何を言っているのか・・・。
「奥庭に離れを造り、そこで暮すのだ。昼は店に出て、夜は二人で離れに寝泊まりする。
二人水入らずが良いではないか。なあ、藤裳」
「はい」
藤裳は顔を赤らめた。
「よいか。亀甲屋は廻船問屋だ。いろいろな御店の者が出入りする。
我が父藤吉は、香具師の元締として、皆の商い品を亀甲屋から仕入れていたため、顧客として亀甲屋の暖簾を潜っていた。
今は、香具師たち独り独りが、原材料の仕入れ、露天で使う道具の賃貸、独立の積立を通じ、亀甲屋の顧客として亀甲屋の暖簾を潜れる。
だが、香具師の縄張りや揉め事を持ちこむ折は、どうする」
藤五郎は藤代を見つめたま、膳の茶碗を掴み、酒を飲んだ。
「香具師の揉め事は内密事も有る。藤五郎が亀甲屋で暮すことになっても、店表から藤五郎に伝えるわけにはゆかぬな。裏木戸から、店に入るしかないな・・・」
これまで藤五郎の父藤吉と同様に、元締めの藤五郎は、夜、裏長屋に居たから、我らは香具師の揉め事を藤五郎に話せたが、今や正式に亀甲屋の跡目となった藤五郎は長屋で暮らすわけにはゆかぬ。しかも香具師の総元締めとして香具師の統率を図らねばならぬ。
「そういうことだ。
奥庭に離れを造り、裏木戸を正式に裏門として、皆が出入りできるようにすればいい」
そう言って、藤五郎は茶碗を差しだし、酒を注げと催促した。藤五郎にしては珍しい仕草だった。
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