二 藤五郎と母の美代

 その後、祝言は亀甲屋で行なわれ、藤吉と美代は亀甲屋の裏長屋に居を構えた。

 一年後、藤五郎が生まれた。


 藤五郎の五郎は、亀右衞門の祖父の五郎右衛門にちなんでつけられた。

 五郎右衛門は五男たったが、兄たちが流行病はやりやまいで他界したために亀甲屋を継いだ頑強な男だった。藤五郎の五郎には、五郎右衛門ような頑強な男になってほしいとの、亀右衞門の願いがこめられていた。

 藤吉は、産まれた我が子が健康で商いができて香具師の元締の後目を継げる腹の座った賢い子に育つよう、己の藤を藤五郎につけた。藤吉の他界した父藤信によれば、藤吉の家系を溯ると藤原の開祖、中臣鎌足に至るとの事だった。


『中臣鎌足、(614〜669)飛鳥時代の政治家。藤原鎌足ともいい,藤原氏の祖。中大兄皇子(のちの天智天皇)と協力し,大化改新を実現(645年)。その後も皇子の片腕となって改新政治を押し進め,律令体制の基礎を築いた。死の直前,天智天皇から大織冠たいしょくかんという最高の冠位と,藤原という姓を賜った。(出典、学研)』



 その後、藤五郎は元気に育った。祖母のトキは藤五郎をおんぶして、藤五郎に藤吉の商いと亀甲屋の商いを語って聞かせた。言わば英才教育であったが、藤五郎には天賦の商才があった。藤五郎の家族がこれに気づくのは藤五郎が父藤吉とともに小間物の行商をするようになってからで、それ以前の藤五郎の商才に気づく者は誰もいなかった。ただ、母の美代だけが、言葉を話すようになる前から、父藤吉を真似て算盤を弾く藤五郎を見て、ほほえましく思っていた。


 藤五郎が三歳の時、江戸市中に流行病はやりやまいが蔓延した。

 藤吉と藤五郎、そして亀甲屋の家族は感染しなかったが、藤五郎の母美代や亀甲屋の下女たちが感染した。


 藤五郎は褥に横たわる母の傍にじっと座り、祖母のトキや父藤吉とともに、濡れ手拭いを母の額に当てて冷やし、薬を飲ませ、祖母のトキが下女たちを見舞っているあいだも、藤五郎は片時も母の傍を離れずにいた。


 このまま母は目が覚めなくなって、そのままになる・・・。

 藤五郎はこれまで、長屋で飼われていた犬や猫が病死する姿を何度も見ていた。

 病にかかった母は、そうした病気になった犬や猫と様子が同じとは言えなかったが、いずれ皆が言う『死んだ』と言う状態になるのが、藤五郎は何となく理解できていた。

 だが、死そのものを感じていたが、どう言う事かまだ理解していなかった。犬や猫が、身体が冷たくなって動かなくなり、鳴かなくなるように、母が何も話さなくなるのだけは理解していた。


 藤五郎は悲しかった。

 これまで何でも藤五郎の疑問に答えて藤五郎の行いや思いを理解して暖かく抱きしめてくれた母が動かなくなって何も話せなくなれば、藤五郎は独りぼっちで誰もいない世界に放り出されてしまう。その気持ちをどうやって母に伝えればいいか、藤五郎は考えられなかった。褥に横たわる母の傍で、濡れ手拭いを母の額に当てて冷やし、薬を飲ませる藤五郎は、三歳ながらそう感じていた。


 母の美代は、医者の手当ての甲斐なく、数日で他界した。

 藤五郎は心優しい母と、藤五郎を可愛がってくれた亀甲屋の下女たちを数日で亡くした。


 葬儀が終わっても、藤五郎は母や下女たちを探したが、どこにもいなかった。

 父や祖母に訊いても、死んだと言うだけだった。

 生きている者はいずれ死に、この世から姿も心も消えて、生きている者たちの記憶に残るが、その記憶もいずれ消える、と教えられた。


 それでも、藤五郎は記憶をたどって、何日も、母と下女たちを探した。

 どこにもいなかった。

 藤五郎は、死とはそういうものだ、と諦めた。

 藤五郎にとって初めての絶望と諦めだった。

 同時に、生きている者たちより形が残る物、証文より、商いで扱う品と支払われる銭金に興味以上の拘りを持つようになった。

 三歳で、母の美代と奉公している下女たちを亡くした藤五郎は、こうして商いにのめり込んだ。



 一方、亀右衞門とトキと息子の庄右衛門は、長女の美代と下女たちを亡くし、失意のどん底にあったが、亀甲屋と奉公人と藤五郎を守るため、家族と奉公人ともども、気を奮い立たせて商いに打ちこんだ。

 藤吉は藤五郎をトキに預け、亀甲屋の商いと、自分の商いの香具師の元締に没頭した。

 

 藤吉の裏世界での働きがあって、亀甲屋は取り引き相手や客から見下されることなく、順調に商いを重ねていった。

 表沙汰にされなかったが、身内に香具師の元締の藤吉がいる亀甲屋は、同業者からも客たちからも警戒されたが、それも、支払いを渋った取り引き相手や客たちが流したの根拠のも無い噂だとわかり、噂を流した者は信用を無くして商いの世界から追放された。


 さて、次回から、話は、藤五郎が十五歳になった頃まで飛ぶ・・・。

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