第58話 異質の部屋 ー 2
家具は普通に配置されていた。テレビも、テーブルも、棚も、ソファーも。それぞれが、幸介の記憶とほぼ相違ない形で鎮座している。
だからこそ、明らかに場違いなベッドが醸し出す違和感は異常極まりない代物だった。布団と枕、それに延長コードから伸びたスマホの充電ケーブル。それらの全てが、その場所で寝起きする人物の存在を示唆している。
加えて、奇妙な匂いが鼻をつく。
不快ではないものの、やたらと甘い、香水のような匂い。
僅かに開け放しになっていたドアを押し、玄関前の廊下に出る。匂いが強くなった。いや、濃くなった。特に濃い匂いが、階段の上から漂ってくる。
二階は、はーちゃんと、それから桃生夫妻の部屋。
唾を呑み込んだ。緊張の唾だ。足を踏み出した。少し震えていた。ゆっくり、ゆっくりと、フローリングの感触を確かめるようにして階段を上った。
たった数メートルの階段が、どうしてか嫌に長く感じられる。まるで万里の長城でも歩いているような気分だ。終着点のあまりの遠さに、ふと自分の立っている場所がわからなくなる。どこでもない暗闇の中で立ち竦んでいるような錯覚に陥る。しかし階段は、所詮どこまでいっても階段だった。やがてその終着点に幸介は立った。少し視線を動かすと、ドアの表面にかけられた木製の表札に目が留まった。
はるか。ひらがな三文字の可愛らしい自体で、それは部屋の主の名を告げていた。
不思議なものだった。チャイムを鳴らしたときよりも、ガラスを破ったときよりも、幸介は緊張していた。迷っていた。入っていいものなのか。ドアノブに手をかけながら、そんな思考が一瞬脳裏を過った。
頭を振る。邪念を打ち消す。覚悟したじゃないか、と自分自身に言い聞かせる。後で怒られたって構わない。それを確認して証明するために、この場所に来たのではないか。
力を込めて、ドアノブを回す。部屋に入ると、甘い匂いよりも先に懐かしい香りが蘇った。
はーちゃんの匂いだ。
室内はリビング同様、六年前とほぼ変わらない佇まいを留めてそこにあった。当時の小さな体には、少しだけ大きすぎたベッド。お気に入りのキャラクターのシールが貼られた勉強机。掃除は行き届いているようで、誇り臭さを感じることもない。
しかしその一方で、カーテンはしっかりと閉じられていた。まるで外界からの接触を自ら拒むかのように、門のように聳え立つ布の壁が、南向きで採光性に富むはずの部屋の空気を、薄暗い闇の中へと沈めている。
異常はない。一見するだけならば、そう思えたことだろう。
しかし幸介は、それを目に留めてしまった。
ぎっしりと中身が詰まった本棚の一番下。唯一空白地帯のあるそこに並べられていたのは、幸介自身も見覚えのあるはーちゃんのアルバムだった。几帳面だったみちるさんの字で、背表紙にわざわざ年代が書き込まれている。その中から幸介が手に取ったのは、最後のアルバムだった。
『遥香14~15歳』
それは持病が悪化し、彼女が生死の境を彷徨った頃のもの。病室のベッドで眠るはーちゃんの顔色は、魂をどこかに置き忘れてきたかのような土気色だった。同時期には、同じような写真が何枚もあった。きっともう助からないと、医者がそう言ったのだろうか。写真の数は日を追うごとに増えていった。これが最後になるかもしれない。そんな思いでシャッターを切る敏明さんやみちるさんの表情は、容易に想像することができた。
そんな彼女の写真が、ある日突然ガラリと様相を変えた。
ベッドの上で、はーちゃんが半身を起こしている。土気色だった肌に、生気の漲る朱色が満ちている。
やがて写真は、病室から自宅へとその舞台を変えた。外出という名目の一時退院であれば、幸介もその場に同席したことが数度あったが、写真の中の光景は、自身が体験したそれとは明らかに雰囲気が異なっていた。
退院おめでとう。手作りのプレートを乗せたケーキと共に、幸せそうな表情を浮かべる三人の家族がそこにいた。
時期は彼女が中学三年生の秋頃。今からちょうど一年半前のことである。
写真はそれからもしばらく続いた。中学校の文化祭。修学旅行。家族以外の人間が撮ったと思われる写真も混在していた。久野のバーベキュー場に芦ノ湖。敏明さんが車を出して、いろんなところにも出掛けていた。写っていたのは、現在の彼女と比べても遜色ないほど元気な少女の姿であった。
とても、数か月前に生死の境を彷徨ったとは思えないほど。
最後のページは、彼女の高校入学式を記念した家族写真だった。西高の校門を背に、満面の笑みを浮かべたはーちゃんと、朗らかな表情を湛え寄り添う両親の姿が写っている。
写真は、これ以降残されていない。
敏明さんは言っていた。一年前、みちるさんが家を出ていったと。幸介の記憶上、カメラはみちるさんが趣味の一環として所有していたものだった。仮に、桃生家におけるアルバムの撮影機材があのカメラ一台だったとするならば、写真が存在しない理由は、みちるさんがカメラと一緒に家を出たということでも説明がつく。
しかし言葉の上では説明がつくことでも、どうしても消えない違和感だけが、種火の残り滓のように幸介の心の奥底では燻り続けているのだ。
【次回:異質の部屋 - 3】
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