第57話 異質の部屋 ー 1


 走って、走って、とにかく走った。


 必死だった。夢中だった。けれども頭の中は常に冷静であるよう、足を踏み出す度に自らを諫めた。


 人気のない街は、ゴーストタウンを言葉通り表現したように静かで、踏みしめたアスファルトが、カツンカツンと小気味いい音を雨上がりの空に響かせていく。


 特に注意したのは、空と、それから交差点での出会い頭の遭遇だった。


 街には特殊情報局の連中がうじゃうじゃと湧いている。それは、戸倉さんが自ら語った情報だった。本来ならば囮たる幸介をシロから引き離し、敢えて部屋に残したことがその信憑性を裏付けた。要するに、自分たちがおらずとも、幸介に万が一があれば他の魔術師が察知できるということである。


 しかし一方で、魔術師たちの本来の目的は幸介ではない。それは、犯人が市内に少なからず残しているであろう、魔力の痕跡を辿ることにある。彼らは、住宅街を動く人間よりも、魔術によって発せられた魔力を優先するのだ。


 つまり、目視されない限り、自分が屋外での活動を制限されることは考えにくい。


 加えて地の利はこちらにあった。六年のブランクがあるとはいえ、元は住んでいた街である。小さな城下町の住宅街がそれほど極端な変貌を遂げているわけもなく、むしろ幼少期を最も長く暮らした幸介にとって、目的の場所へと向かう道は、もはや庭のようなものだった。


 もっとも、そこへ通った記憶は、両手指を使って足りる程度の回数でしかないのだけど。


 なにしろ顔を合わせる場所といえば、決まって病院か、大学の秘密基地だったのだから。


 上がった息をゆっくりと吐きながら、一軒家を見上げる。


 表札には『桃生』の文字が記されていた。


 そしてここまで来た以上、もはや躊躇う必要もなく。


 勢いに任せて、チャイムを押した。


 音が鳴る。響いていく。薄曇りの空に。二階建ての家の中に。チャイムは三回押した。しかし一度も反応はなかった。市内全域に屋内退避が勧告されている状況下において、その静寂は言葉以上の異質さをもって幸介の胸を叩いた。


 心臓が高鳴る。痛いほど跳ねる。


 まだだ。まだそうと決まったわけじゃない。


 玄関のドアには鍵がかかっていた。仕方がないので、リビングに面した庭側に回ってみる。しかし案の定、こちらもしっかりと窓に施錠がされていた。加えてカーテンも閉められていた。当然、中の様子が伺えるはずもない。


 さて、どうしたものか。


 脳裏を過ったのは、この憶測が、本当に憶測に過ぎなかった場合のことだった。たぶん、すっごい怒られる。はーちゃんにも、シロにも。戸倉さんに至っては蹴られるかも。


 しかし一方で、それならばそれで構わないとも思っている自分がいた。


 憶測が憶測で済むのなら、それぐらいの代償は安いものではないか。怒られるだけ、怒られればいい。叱られるだけ、叱られればいい。そうしたら、ごめんなさいと頭を下げるのだ。彼らはきっと許してくれる。すぐには無理かもしれないけど、いつか、きっと。


 そんなことを考えながら、用意してきた小道具をポーチから取り出した。


 軍手とマイナスドライバー。


 シロが余計なことを言うものだから、やり方は動画で覚えてしまったのだ。


 狙うのはリビングの大きなガラス戸。クレセント錠の位置を確認し、縁に向けて迷うことなく一撃目を振り下ろす。


 ゴン。叩くというよりは、殴ったような鈍い音がした。続けざまの二撃目。ガラスに放射線状の亀裂が入る。位置を変えて、三撃目。容量が掴めてきたのか、今度は一撃で亀裂が入った。もう一度位置を変え、四撃目。亀裂を抉るようにドライバーを動かすと、割れるというよりは剝がれるような格好でガラスの一部が外れ、穴が空いた。


 穴は、錠に対してやや高い位置に空いてしまった。しかしそれでも構わず、幸介は穴へ腕を突っ込んだ。体をねじり、押し込むようにして右腕を伸ばし、錠を開ける。動きやすいからといって半袖を着たことを後悔したのは、そのときだった。ゆっくりと引き抜いた腕に、注射のような僅かな痛みが走った。前腕が割れたガラスの先端に触れ、傷口から鮮血がじわりと滲み出した。


 血はズボンで拭った。それ以上のことは考えなかった。ガラス戸を開け、念のため土足は脱いでフローリングに足を踏み入れる。閉じられていたカーテンの向こう側は、薄暗い闇に包まれていた。


 そして強烈な違和感は、真っ先に視界をついてそこに現れた。


 ベッドが置いてあったのだ。


 だだっ広いリビングの、その隅っこに。


【次回:異質の部屋 - 2】

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