論破のこと
昨日障害者手帳のことを相談したら、血液検査を勧められた。存外、すんなり通って暖簾に腕押しというか。断られると思っていたので。
雨という天気はジメジメとするし億劫でしかなかったけれど、雨粒が落ちて、コンクリートの地面に黒いシミを作っていくのはいい。雨粒の落下死の瞬間を目撃しているのだから。黒いシミは人間でいう血。大量の雨粒の命が、1キロメートル以上旅して、その果てに潰える。そう思うと、森羅万象の生命体の生殺与奪を自分が握っているようで、万能感に浸れる。そんな気がする。
ごめん嘘ついた。シンプルに暑いので降ってほしいだけです。
最近、論破というのがトレンド通り越して、自分の価値を左右する必須スキルとなっているらしい。論破されたヤツに価値はないと考える人もごまんといて、自分と世界の隔たりを感じる。自分と他人の感覚が一致したことはあまりない。思うんだけど、自分の感覚や社会性が、世間のものと一致するという蓋然性で設定されるのだろうか。特性?性格?環境?分からない自分は、ずっと自分が地球外生命体ではないかという感覚で生かされている。
話が逸れた。毎度ながら。
ソクラテス時代から論破という概念はあったようだから、論破好きは人類普遍のものなのだろう。
ただ疑問なのだが、相手を論破したという定義はどこにあるのだろうか。競技のようにルールがある訳でもなく、レフェリーがいてAの勝ち、Bの勝ちというわけでもない。でも会話のなかに薄く存在している。なんか幽霊みたいなやつ。それが論破の認識だ。
相手の意見を変える、という意味であれば分かる。明確な基準だからだ。でも討論とは本来対話からよりよい考えを得ようとするものだから、なんか違う気がする。
論破王の異名を持つ人のYouTubeを見たのだけれど、彼は質問者なり討論相手なりの話から知識を総動員して、必要な知識を提供したり、諭したりしているように見えた。説得や教示にみえて、論破と違う。
多分、自分は論破の面白さを分からないのだと思う。
そもそも反対するよりも賛同する方が簡単だしメリットが多い。たくさん賛同されたら人間不信になる。昨日の通話もそうだった。反対されて、その意見に筋があればその人のことは信頼できると感じる。昔、賛成しかしない臣下に辟易した王様が、反対意見を述べた臣下に感謝したなんて話もあるけど、自分の気持ちはその話の王様と似ていると思う。
この日記、論破信者からしたら論破しようとしてるようにしか見えないのかもしれない。感覚が合わない同士が話してもこじれるだけばかりなのは、本当によくないとおもう。
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