岩断・前

 夏の日差しが、青と緑の世界へ降り注いでいる。青は白と隣り合い、緑は黒と隣り合う。山は木々と岩肌の片身替わりを纏い、その道は瑞々しく茂る枝葉に覆われている。

 木々の隙間から見える、翠緑を滴らせるような山野に、青空の鮮やかさ。眩く清々しい夏景色に、志乃は笠の下で目を細めた。たまに吹く風がどこからか涼気を拾ってきてくれるものの、すぐ暑さにかき消されてしまう。文月二十日あまり六日の昼下がり、盛夏の只中は蝉の声と、草木や土の匂いに満ちていた。


「志乃殿。見えました」


 前方を歩いていた紀定が、木立の途切れた場所で止まり、麓の先を指し示す。志乃も足を止めて見ると、二つの川に田畑、小さな村、その先に数多の家屋が連なる町が見えた。数か所から煙が棚引いているのは、炊事だけでなく工芸が盛んだから。


「あれが岩断いわたちですかぁ」


 山の斜面から見えているのは、藍山府鳶分とびわけ郡岩断。刀工を筆頭に、数多の職人が集う町である。藍山道も通っているが、志乃と紀定は正式な街道を通ってはいない。岩断にて待ち合わせの約束があるため急がなければならず、時間短縮のため近道を使っていた。

 山道を終えた後、一面が爽やかな緑に満ちた田畑を横切って街道に出る。岩断のすぐ手前にあった村を通れば、志乃と紀定以外にも、旅人の姿がちらほら確認できた。旅装束で紛れているが、姿勢や歩き方から武の心得を読み取れる者も少なくない。


「案外、武士の身分をお持ちの方は多くいらっしゃるのですねぇ、紀定さん」

「武士と呼べるほどのものかは分かりませんよ。失われた旧武家の縁者という方もいるでしょうが、単に用心棒を生業としている方や、武具を扱う故に心得がある方もいますから。そういった話は密やかにした方がよろしいかと。視線をむやみやたらに飛ばすのも、控えた方が」

「あー、そうですねぇ。因縁を付けられてしまうと、紀定さんが困りますもんね」


 ひっそり返した紀定に、志乃もひっそり返して、笠を目深に調整した。そのせいで紀定の呆れ顔を見ることはなかったが、志乃とて理由は承知している。不要な喧嘩の勃発を防ぐためだ。時たま花街に来ていたような、粗暴な人間が多いわけではないだろうが、何が誰の気に障るかは分からない。

 物の怪や妖怪という外敵がいる以上、戦う術を持っておけば利点も多くなる。色護衆のような組織に入れば収入が安定するし、単なる用心棒でもそれなりの稼ぎがある。だからこそ、物騒の種は人間同士でも発芽するし、どこにでも潜んでいるのだ。自警団に入って見回り中に客人の話を聞いたり、酔って暴れる客人を押さえたりする機会があった志乃も、身に染みて知っている。


 幸い、特に絡まれることもなく村を出れば、山から見えた大きな川のうち片方が見えてきた。道はそのまま、高く長い橋へと続いている。渡る際に川を見下ろせば、積み荷を乗せた舟が下っていく姿を見られた。舟が来た方向へ視線を向ければ、川岸で積み荷を上げ下げする人々の姿も見える。

 川の涼気と水面のきらめきを通り過ぎ、二人連れは町の入り口へと辿り着いた。大きな街もかくやの立派な門を通るには、門番に身分を告げなければならない。


「お名前と、出身あるいは所属をお教えください」


 門のすぐ手前にある番頭小屋に寄れば、いかにも役人然とした男と文言に出迎えられた。申告役の紀定が笠を脱ぎ、志乃も倣って顔をあらわにする。


「色護衆、麗境山所属の守遣兵、産形紀定。こちらも色護衆、人妖兵の花居志乃」

「色護衆の、産形の方でございましたか。ようこそいらっしゃいました」


 人妖兵という言葉に少し目を見開いた男だったが、取り乱すようなことはなく、丁寧に頭を下げる。にこにこ笑ってお辞儀をする志乃にも、表情一つ変えず返礼したのち、紀定に向き直っていた。


「先日、岩断に入られました守遣兵の方より、言伝を預かっております。人手が要りそうなところで手伝いをしているので、お手数おかけしますが、探してくださいと」


 一言一句、狂いなく覚えていそうな文言に、紀定は頷きを返す。志乃と二人で岩断まで来たのは、ここで守遣兵たちと合流し、任務を共にこなすためだ。


「確かに聞き届けました。ありがとうございます」

「いえ。それでは、どうぞ門をお通りください」


 示された手に従い、志乃と紀定は堂々と門をくぐる。同時に、笠を被り直しながら。紀定はそもそも顔を知られない方が良く、志乃も刀を帯びているとはいえ、顔立ちや表情から侮られ絡まれたこともあったので。その分、余分な不審さがついてしまうのは致し方ない。


「紀定さん。守遣兵の方でも、他のお仕事を手伝って良いのですか?」

「金銭を貰わない慈善活動であれば大丈夫ですよ。情報を掴めることもありますからね。この様子だと店は多いでしょうし、探すのも一苦労かもしれませんが」


 応答しつつ門を抜ければ、眼前はすぐ目貫通り。ざっと見渡しただけでも金物の多さが目に付くが、合間に装飾品や日用品、食べ物と様々な商品が挟まっている。職人が手掛けたのだろう品を売っている店では、旅人や商人と思わしき客と店主が話し込んでいる様子も見受けられた。


「まあ、目星はつけられるだけマシでしょう。少なくとも大通りの店にはいないかと。しっかりして大きい店であれば、ぽっと出の日雇いを歓迎することはないでしょうし」

「んえ、そうなのですか? いかにも人手が要りそうですけど」

「その分、きっちり人を雇っていますよ、そういう所は。名匠が手掛けた品であれば、盗まれないよう対策もしているはず。その日会った縁で数日だけ雇うなどと危ういことはしないでしょう。そういう相手が盗みを働いた場合、痕跡を追いづらくなりますからね。守遣兵は身分を証明できますから、あまり警戒されないかもしれませんが」


 説明しながら、紀定は小さな路地へと入り、落ち着いた雰囲気の通りへと出る。相変わらず金物が多いものの、武骨さと作り手の気配をより強く感じるような店が増えている。


「このあたりは、あまり忙しなさを感じませんねぇ」

「ええ。言伝では店と限らず、人手が要りそうなところとありましたから、職人の近くもあり得そうです。店への納品を手伝っているとか。実際、待ち合わせている片方は、力仕事を率先してこなすような方ですし」

「となると、お一人は体が大きい方なのですか」

「大きいですし、そもそも造形が異国由来の方ですね。髪と目の色も異国の色合いなので、よく目立つ方ですよ」


 ほへぇ、と気の抜けた相槌が、通り過ぎた道へ落ちていく。紀定は志乃を連れて、どんどん路地を進んでいた。店すらない閑静な長屋を通り越し、町の外れ、鍛冶場が集う区画へと近づいていく。カンカンと相槌が響き、物の燃える匂いや金臭さが漂ってくる。行き交う人も職人らしい、厳めしい雰囲気の男たちばかりになっていた。

 暑さ故か上裸になっている人も見受けられる中、旅装で笠も被りっぱなしの志乃と紀定は目立つ。視線を感じながらも、どこかで手伝いをしているらしい守遣兵を探すが、一目で分かるだろう特徴を持った片方さえ見つからない。


「こちら側ではなかったかもしれませんね。すみません」

「いえいえ。あ、人に訊いてみます? そんなに目立つ見目であれば、噂話でも聞いたことがあるかも……あれ?」


 笠の下、志乃の目が丸くなり、ぱっちりと瞬く。紀定も志乃の視線が向かった先を見やれば、景色に馴染まない赤金あかがねの一点が見えた。周囲の大人たちより遥かに大柄な男が、空の荷車を引いてやって来ている。


「紀定さん」

「あの方です。行きましょう」


 お互いに見合って頷いたのち、志乃と紀定は真っすぐ、赤毛の男に近づいていった。途中、気配を感じ取ったらしい男が振り返った。その顔立ちは彫りが深く、確かにこの国の人々とは違う。双眸には、夏の日差しを受けて爽快の光を宿す翠緑の瞳が嵌まっていた。


「……おお! 紀定殿か!」


 旅装束かつ躊躇なく歩み寄ってきたからか、赤毛に緑眼の男はパッと顔を輝かせ、荷車を引いたまま距離を詰めた。顔が確認できるほど近くまで来れば、「やはり紀定殿だな」と笑って見せる。

 紀定は知人に微笑みかけているが、志乃は改めて、男の背丈に驚いていた。辻川や雷雅よりもずっと背が高い。加えて、風晶のようにがっしりとした体格をしているため、家屋に入れるのか心配になってくる。が、装いは小豆色の小袖に鳩羽鼠の袴と、麗境山所属を示す組み合わせだから頼もしい。


「それで、そちらは直武先生が新しく連れ出したという」

「ええ」


 ぽかんとしていた志乃の背に、紀定の手が当てられる。はっと我に返った志乃は、いつもの笑みを浮かべた。


「初めまして。人妖兵の花居志乃と申します」

「あなたがそうか。おれ大鰐おおわに誠吾せいごという。以後、よろしく頼む」


 荷車の取っ手を下ろし、姿勢を正して、誠吾と名乗った守遣兵が一礼する。志乃も同じく綺麗なお辞儀を返したところへ、「誠吾!」と濁声だみごえの呼びかけが飛んできた。一斉に三人の視線が向いた先から、紺色の足袋を履いた男が駆け寄ってきている。強面の表情に、親しみやすい柔和を滲ませて。


「このお二人が、待ってたって人たちか?」

「ああ、おやっさん。確か、次で荷運びは終わりでしょう。かずの字にも会わせないといけませんし……紀定殿、任せてもらった仕事はやりきりたい。最後までやらせてもらえないか」

「もちろん。我々にもできることがあれば、お手伝いさせてください」

「ほんとか? 助かるよ。そんじゃ、ひとまずついてきてくれ。ああ、お二人さんは、もうちっと身動きが取れやすくしといた方がいい」


 色護衆の者だと分かっているからか、何の警戒もなく仕事に二人を組み込んだ男に、紀定が返事をしつつ笠と羽織を脱ぐ。志乃も同じく顔を晒し、脱いだ笠と羽織は、とりあえず荷車へ乗せてもらった。

 準備を済ませ、三人が男につれられ歩いていった先は、木箱が積み重なっている倉庫代わりの小屋。内部には正方形で小さい箱、小さな金物や陶器が入っているのだろう箱が多く重ねられているが、縦長で大きな箱も見受けられる。箱には蓋を押さえるため紐が結び付けられており、納品先の屋号を記した札が一緒に付けられていた。


「ここからここまでに積まれてるのを、荷車に移していってくれ」


 簡単な指示に素直な了承が三つ発されたのち、積み荷の運び出しが始まった。先導を務めた男を含め四人がかりで。

 屋内はさほど広くないため、四人は一列になり、一人が複数の箱を抱えて運び出す。二人がかりで運び出すほど重く大きい箱は無かったのも幸いして、作業は素早く順調に進んでいった。荷車に積んだ後は、布をかけ、その上から二本の掛紐で固定する。


「よし。後は運ぶだけだ。頼んだぞ、誠吾。お二人さんも」

「お任せあれ」


 晴れやかに笑って返した誠吾に続き、再び笠と羽織を身に着けた志乃と紀定も手を振って応じる。積み荷が山と盛られた荷車が、赤毛に緑眼の大男に引かれ、両脇には旅装のお付きをそれぞれ従えて進み出した。

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