第21話「桜坂」

 水衣みい舞衣まいが部屋を出ると、矩子のりこが廊下で待っていた。

御父君おちちぎみとのお話は終わりましたでしょうか」

矩子の声はいつも丁寧でやわらかだ。

「うん」

舞衣がそう返すと

「ではお山の御屋敷おやしきへと帰りましょう」

矩子は水衣と舞衣の手をゆっくりと引く。

二男四女の末娘すえむすめといえど、その言葉遣いと所作しょさは流石の伯爵令嬢はくしゃくれいじょうといったところだ。

所々千秋ちあきとつい比べてしまう。

「私がお送りしましょう」

扉の横に立っていた片坂かたさかが声を上げる。

先導する片坂の後ろを舞衣が歩き、次いで水衣と矩子が並んで廊下を進む。

舞衣は見慣れない廊下を歩きながら小考しょうこうする。

本邸ほんていの奥まったところまで来ることは滅多にない。

ましてや父の書斎へ足を踏み入れるのはおぼえている限り初めてのことであった。

日頃の連絡事項も侍女じじょや周りの者を通じて伝えられ、父と話す機会さえ毎朝の朝食時くらいしかない。

そんな距離感にもかかわらず、今夜は父がわざわざ本邸に寄るように言ったという。

その行動はひどく奇妙きみょうなものに思えた。

父の自分たちに対する接し方が今までとは明らかに違う、今日一日でそう感じ得るには十分であった。


玄関へ戻り片坂が玄関扉を開くと、車寄せにセダンと運転席の千秋が見えた。

左腕にはめた時計をしきりに気にしている。

自分がすぐ戻ってくると言ったのに、30分経っても戻ってこないことを心配しているのだろうか。

舞衣はそう思って「千秋!」と呼んでみる。

隣で半ば寝ながら歩いている状態の水衣がビクッ、と飛び上がる。

千秋もその声に気づき、咄嗟とっさに顔を上げて運転席の窓を開ける。

「遅かったですね」

靴を履き車の方へとを進める舞衣に千秋が話しかける。

矩子は意識が朦朧もうろうとしかけている水衣の肩を抱いているが、身長は低くとも自分とさほど体重の変わらない水衣に悪戦苦闘している。

千秋が後部座席のドアを開けると矩子は水衣をなんとかだ。

舞衣は水衣が横たわる後部座席へと、矩子も助手席へと乗り込んだ。

「のりちゃんは非力だなぁ」

車のドアが閉まる間、千秋は矩子に話しかける。

「それなら手伝ってくださればよいのに、それに貴女がおかしいのであって私は普通の範疇はんちゅうです」

非力ひりきそしりりを受けて、矩子は珍しく毒づいた。

「安全ベルトは着けました?」

千秋は話題をらすように後ろへ呼びかける。

「あぁ、まぁいいか……」

もうすっかり入眠してしまった水衣を見て千秋はつぶやく。

「いや、よくないでしょう」

矩子は後部座席へと身を乗り出し、水衣に安全ベルトを着けさせる。

「いやぁ、献身的だなぁ」

モーターのスイッチを入れながら千秋は感心したような声で言う。

「当然です」

矩子がそう言った刹那せつな、千秋はアクセルを踏み、車が進み始める。

「お屋敷でお二人の身の回りのお世話をするよう旦那様におおせつかっているのですから」

急なアクセルにも動じず、矩子がそう言うと千秋は

「じゃあ帰ったらお風呂入るから、それもよろしく」

「いやそれは貴女もしてください、流石にお湯浴ゆあみのお世話は一人では難しいですし」

「私そういう仕事じゃないから」

「でも貴女も湯浴ゆあみなさるのでしょう?」

「まぁそうだけど...」

「じゃあ手伝ってください」

「……しょうがないなぁ」

千秋は言い負かされ、口をつぐんでしまった。


 二人が言い争っている間、舞衣は窓の外をぼんやりと眺めていた。

電燈でんとうに照らされた桜坂さくらざかをセダンが上っていく。

春になれば美しい花をつける染井吉野ソメイヨシノも今の季節にはよくある枯れ木の一つに過ぎない。

そんな真夜中の桜坂さくらざかは、舞衣の目には少しだけ不気味に映った。

 よく人の命は桜の花のようにはかないものに例えられる、それこそが命の美しさであると。

先ほどの父との会話で水衣が永遠の命というものに何らかの魅力を感じているのは疑う余地よちがなかった。

しかし、そんなものに何の価値があるというのだろうか。

想い出は遠い彼方かなたへと消え去り、周りの人たちも自分を残して死んでしまう。

父や母はもちろん、侍女じじょたちでさえも。

そんな思考の渦の中である考えが舞衣の脳裏のうりかすめた。

「みーちゃんは、私と二人きりになりたいんじゃないか」

人のことわりを遥かに超えた、二人だけの世界で。

あまりにインセストな考えに舞衣は思わず頬を窓にくっつける。

ガラスは冷たく、少しだけ濡れた。


幾分いくふん経ったか、車が別邸の前に着く。

「ほら、着きましたよ」

矩子は安全ベルトを外すと後部座席の方へ来て、水衣の身体をすりながら言う。

舞衣は視線を左に移し、水衣の身体に目を落とす。

水衣はうめき声を上げながらゆっくりと目を開ける。

「ん……うん?」

矩子は水衣に着けた安全ベルトを外す。

「お山の御屋敷に着きましたよ」

そんな言葉を意に介さぬように、水衣は身体をごろん、と座席の上で転がす。

そんな水衣を見かねて、矩子は水衣のわきへと手を通し、起き上がらせようとする。

「ちょっと、桐野さんも手伝ってください」

水衣の身体を抱え上げた矩子は運転席の千秋へと助力を求める。

「そんなこと言ってもこの車を車庫に戻さなきゃ」

「結局お嬢様方じょうさまがたが降りなければ車を動かせないのですから、とりあえずはこっちを」

「……ったく、世話が焼けるなぁ」

「まったくです」

「いや、人ひとり持ち上げられない事が」

「はぁ?では逆にきますけど、貴女のようなにお屋敷のお世話が出来て?」

矩子は運転席の方へと振り返り、するど口撃こうげきする。

「こっちが下手に出たらポッと出がえらそうに、いくら伯爵の娘だからってあんまり調子に乗るなよ」

千秋も矩子の方へと身体を寄せ、反撃する。

「貴女こそ肝付きもつき様のご紹介が無ければ、こんなお屋敷にえんもゆかりも無い生まれでしょうに」

「うっ……」

千秋は乗り出した身体を戻し、言葉を詰まらせる。

「し、しかし精二さまであれば私の父と全く面識がないという事は...」

「そこ、喧嘩しない」

一声、視線は水衣へと集まる。

水衣はわきに通された矩子の腕もそのままに、機嫌が悪そうな顔をして起き上がろうとする。

「申し訳ございません」

千秋は咄嗟とっさに運転席と助手席との間にひざまづく。

矩子も水衣の腋に通した腕をさっと抜いて、千秋にならう。

「みーちゃん、起きたならちゃんと自分で立って」

舞衣は水衣の手を引くと、右手のドアを開けて外へ出た。

水衣は黙り込んで、舞衣に手を引かれるままにセダンを降りる。


 舞衣は玄関扉へと手を触れた。

手の平に埋め込まれたチップに反応し、短い機械音と共に扉のじょうは解かれる。

朝ここから出る時にも重たかったが、今は何故かもっと重たく感じる。

舞衣が体重をかけて扉を押そうとすると、横から千秋が出てきて力添ちからぞえをする。

 扉がギィ、ときしんだ音を立てて開く。

玄関の広間には使用人たちが待ち構えていた。

ここの使用人長を始め、炊事すいじ使用人と洗濯せんたく使用人がそれぞれ1人ずつ、掃除そうじ使用人が2人と一通り揃っている。

いつもはこの倍はいるが、今日は時間が時間なので昼夜二交替の夜の担当だけといったところ。

事前に千秋か矩子から連絡が飛ばされていたのだろうか、そんな考えが舞衣の頭をよぎる。


千秋と矩子が洗濯使用人たちに水衣と舞衣の上着や外套がいとうを預ける。

右手の最前にいた使用人長の

「お風呂沸いてる?」

舞衣は

すると使用人の一人が声を上げる。

「は、はい、丁度よいお湯加減ゆかげんになっております...」

舞衣はふと声のした方向へ目をやった。

年は舞衣たちと大差ないように見えるが、身長は水衣よりもずっと低い。140cmくらいだろうか。

前髪は厚く、肩ほどまでの黒髪を後頭部の低い位置で束ねている。

舞衣に使用人の顔を覚える趣味はないが、恐らくはこの子が風呂を用意する担当のようだ。

舞衣はややうつむいて目も合わせてくれないその使用人の手を取る。

「ありがとう、頂きますね」

その手は年齢不相応ねんれいふそうおうと呼べるほどに荒れている。

水場、特に重労働を強いられる食器洗いや風呂場の使用人には珍しくもないことだ。

使用人は咄嗟とっさの出来事に顔を上げて飛び退けようとするも、なんとかそれをこらえる。

「そ、そんな私ごときに感謝なされるなんて...」

舞衣の手を振り払えないまま目を丸くして飛び上がり、最終的には顔を赤くして再び俯いてしまった。

舞衣はゆっくりと手を離すと、少しだけ微笑ほほえむ。


 使用人の間を抜けると、今までずっと左肩に寄りかかっていた水衣を引き離して右手で水衣の左頬ひだりほほつねる。

「みーちゃん、いつまで寝てるの」

頬をつねってもまだ寝ぼけている水衣に、舞衣は右手で引っ張りと回転を加える。

「痛、ちょっ、取れちゃうから...」

水衣は舞衣の右手を振り払って左頬を押さえる。

目の端には薄っすら涙すら浮かんでいる。

「お風呂沸いてるって、冷めちゃわないうちに入ろ?」

舞衣は頬を押さえている水衣の手を強引に取り、玄関広間の両階段の横を通って廊下へと向かう。

水衣は廊下へと小走りで駆けていく舞衣に圧倒され、何回かつまづきつつも何とか追いついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る