第36話 闇夜と共に死は迫る
時計の針は十一時五十八分を指している。海の近くのリゾートホテルの一室で座して待っていた望は暗闇の中、ゆっくりと立ち上がった。
「……」
今頃は隣で夢の中に居る紗希を起こさない様、そっと部屋から出て、ゆっくりと扉を閉める。オートロックの施錠音に紛れて現れた気配を察知した。
「やあ、こんばんは」
振り返ると、扉を閉めるまでは影も形も無かった筈なのに目の前には未だに謎の多い男、高河誠也が其処に居た。
「……部屋で待っているのではなかったのですか」
「ワザワザ迎えに来たっていうのにツレナイ事言うなよな。僕達、そんな仲じゃないの、知ってるでしょ?」
どうしたらその減らず口を止める事が出来るのか。少しばかり苛立ちが募ったが、今はそれどころではない。
「もういいです。とっとと貴方の部屋へ案内して下さい」
「まぁそう焦んないでよ。……夜は長いんだからさ」
そう言って誠也はさっきまでの浮ついた表情から一変し、氷の様に冷たい眼差しを見せる。
此方の肚の中はもう読まれているらしい、と察した望もまた、周囲を欺く為の作り笑いを止め、男の後を追う様に部屋の中へと入っていった。
「……さて、その様子だと今の今まで忘れていた過去を全て思い出した、といった感じかな? ――
絶那。男がそう呼ぶ名前は懐かしくもあり、忌々しくもある名前だ。これは望が最初に与えられた名前だ。
「……ああ。思い出した。何もかも全部だ。だからこそ問いたい。何故生きているんだ?」
――威断。脳の認識機能に異常が無いのであれば、この男は高河誠也ではない。嘗ての仲間であり、友である筈の男、イタチだ。
「悪いがそいつはもう死んでる。威断は組織にハメられ呆気なく誅殺。……となるべ所を、今は高河誠也という名前で生まれ変わってる」
「……お前もまた、我と同じ道を進んでいた、という事か」
「一つ違う点を挙げるとするなら、僕はいつ存在を知られてまた殺されるかもしれないという綱渡りを渡っていたところかな」
望は先日の公園でのやり取りをふと思い出し、誠也の言っていた事がようやく理解する事が出来た。そしてそれを見兼ねた男は深く深く溜息を吐いた。
「本ッ当に、君は、相も変わらず、問題児なんだから」
「……面目次第も無い」
「いいよ別に。どうせこうなるのも時間の問題だったんだしさ。……なぁそうだろ?」
――
瞬時に危険を察知した望は大きく跳び、無音なる奇襲攻撃を躱す。着地し、振り返るとこれまた懐かしい顔が其処にあった。
「よォ、久しぶりだなァ、ゼナ? イタチ? 逢いたかったぜェ?」
「……やはりお前か、カナメ」
口角を釣り上げて不敵な笑みを浮かべる三白眼の男を望はよく知っている。禍哭滅もまた、望の仲間であり、友である筈の男だ。
「お前程の男が何故我達を裏切った?」
「裏切っただァ? 寝惚けたコト言ってんじゃあねェぞォ? 組織の鉄の掟を破って抜け出そうとしてんのはテメェらだぜェ?」
「確かに僕達は殺されても仕方無い事をした。……ただ君は本当にそれでいいというのか? 何の罪も無い人達を殺す事に」
イタチの言葉に拍子抜けた表情を一瞬浮かべるカナメ。だがそれは忽ち嘲笑へと変貌する。まるで馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに。
「だから僕達はもう殺したくありませェ~ん、ってかァ? ……甘ェんだよ! 甘々なんだよ!! オレ達の手はもう血塗られて拭い取る事なんざ出来ねェんだよ!!」
誰よりも優しく、誰よりも命の尊さを知っている筈だった男が履き捨てる言葉とは到底思えない。どうやらもう昔のカナメでは無いのかもしれない。だが希望は捨てたくない。
「……カナメ。お前は――」
「ゼナ、イタチ。オメェには殺しの命が下っている。今度こそ、確実に仕留めろとの命だ。オメェを殺す為の多少の巻添えは一切不問とする、らしいぜェ」
「……!」
「聞けばオメェ、かれこれ一年以上の付き合いがある金持ちのガキが居るらしいじゃねェか。ソイツを利用しちまえばオメェなんざあっという間、だぜ」
指を鳴らしながら安っぽい挑発を繰り広げるカナメ。明らかに敵の罠であるが、望にとっても、カナメにとっても越えてはならない一線を越えた為、男は柄にも無く激昂した。
「貴様……!! 今の言葉、もう一度言ってみろ――!?」
いつの間にか体が宙を舞い、墜落しようとしていた。少しでも受け身を取るのが遅れていたら、床に叩きつけられて脳震盪は確実に起きていただろう。見える筈の技が見えなかった。
「ゼナ!?」
「遅ぇんだよ!!」
攻勢に出ようとしたイタチよりも機先を制したカナメは目にも映らぬ速さで突きを放ち、男を端の方へと吹き飛ばした。大きく咳込んでいるが、外傷は無さそうだ。
「いつまでもオレが下で燻っていると思ってんじゃねェぞ? オメェらがぬくぬくとぬるま湯に浸かっている間にもオレはずっと爪を研いでいた。分かっただろォ? オメェは俺に為す術なく殺されるって、なァ?」
直ぐに望は立ち上がり、戦う意思を見せる。が、興醒めとばかりにカナメは無防備に隙だらけ背を向けて部屋を出ようとしている。だが男達はたじろぐ事しか出来ず、その後ろを眺めるだけだった。
「じゃあな」
そう言ってカナメは闇の中へと消え去って行った。ようやく事の大きさに気付いた望が苦悶の表情を浮かべていると、打たれた箇所を抑えながら誠也が戻ってきた。
「ゼナ、大丈夫か?」
「……問題無い」
「強がるんじゃない。どう見たって問題無いって顔じゃないだろ」
どうやら感情を御せない程に窮地に立たされているらしい。それは自分だけでなく誠也も同じ事だ。
「……すまない。我の、所為だ。本当に、すまない」
「別にいいって。ほんのちょっと寿命が延びていたってだけの話だ。遅かれ早かれこうなる運命だったんだよ」
「……心配無い。ケジメは俺一人でつける」
「おい、それはどういう――! 待て! ゼナ!」
そう言って望は何かを決心したかのように部屋を後にする。誠也の制止を振り切り、自室に、行かず、通り過ぎて隣の部屋の鍵を開けてゆっくりと入室していった。
※
宵闇の中、望はゆっくりと部屋を歩き、ベッドルームの方へと赴く。布団の中には、紗希が静かに寝息を立てて眠っていた。
「……」
――カナメは組織の男だ。組織というのは、謂わば殺しを生業としている。組織の存続の為に組織の人間は殺人術を極める。殺人術を極めるという事は殺し方だけではなく死に方も熟知している事と同義だ。
「……」
――まだ使えると判断した場合、組織は生け捕りを支持する場合がある。生きたまま連れてこられた人間は可能な限り痛めつけられる。死ぬ事も出来ずに、とことんにまで苦痛を味あわせられるという事だ。
「……」
――絞れる所まで搾り取り、絞りカスとなった後は、もう人間と呼べる形をしていなかった。組織に捕まると言うのはそういう事だ。
「……」
――この子にそんな目を遭わせるなんて到底出来ない。ならせめて、痛みを知らないまま、安らかに死なせるべきなのだろう。
「……」
望の両手が紗希の首筋へと延びていく。指が彼女の肌に触れる。両親指が喉元に触れる。今、此処で、躊躇う事無く、渾身の力を込めれば、風間紗希の命は潰える。死んだ事も気付かないままに。
――さぁ、早く殺せ。殺すんだ。
『……あぁもう!! 一生賭けてでも償ってよね!!』
――どうした? 何を迷う事がある? 早く殺すんだ。
『ちょっと! 生きてるんでしょ!! 早く起きなさいってば!!』
『言っとくけど、あんまり調子に乗らないでよね! 役に立たないと感じたら問答無用で棄ててやるんだから! 死ぬ気で私に恩を返しなさい!!』
――紗希がどうなってもいいのか? 苦しませたいのか? そうじゃないだろう? 分かったなら早く殺せ。
『わだっ、私っ!! パパが死んだがど思っで!! 私も死ぬかど思っで!! 怖ぐで!! 辛ぐで!! ごんな事ずる奴許ぜなぐてっ!! でもっ!! やっぱり!! 殺ずのは駄目だっで!! 何でか!! 分がんないけどっ!!』
――殺す、のか?
『……ずっと私の傍に居てくれる? ……約束、破ったら殺すけどいいの?』
――俺が、紗希を?
『過去に何かあっても関係無いわ。アンタの命は私が握ってるんだから。……何の問題も無いでしょ?』
『……それでも! 私はあの子を助けたい!! 何とかしてあげたいって気持ちが普通じゃないってのなら! 私は普通じゃなくていい!!』
『私の執事ともあろう人間が今更怖気付いたとでも?』
『――とびっきりのお寿司、お腹一杯になるまで食べさせてあげる』
『私、望と出会えて本当に良かったって思ってる。だから、望も私と出会えて良かったって、思ってくれるように頑張らないとね』
――平常心を保てない。この女の放ってきた言葉の群が終始頭をよぎり、悉く感情を搔き乱す。けたたましい位にだ。
いつの間にか望の腕は力無く下がっていた。そして足は力を失い、立っていられなくなり思わず膝を着いた。
「殺せない……! 殺せるわけ、ないだろう……!」
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