第33話 茹だる仲夏
ジメジメとした停滞前線が明け、日本の四季は夏へと突入しようとしている。この蒸し暑い陽射しの中、紗希と望は日傘を差して街を練り歩いていた。
「あづ~い……! アンタこの時期にそんな恰好して暑くないの?」
「平気です。心頭滅却すれば火もまた涼し、という事ですよ」
全身真っ黒長袖長ズボンの燕尾服を身に纏いながら汗一つ掻いていない望を、額から湧き出る汗をハンカチで拭いながら紗希は何も言わずに怪訝そうに見つめていた。
「はぁ~早く用事済ませてアウトレット行こ……」
最早突っ込む気も無い位に火照っていたのか、紗希は紙袋を提げて目的のビルへと向かう。茹だる様な炎天下の中をわざわざ外出しているのには理由が二つあった。その内の一つを果たす為に今向かっているのである。
「あぁ……? って紗希社長!? お疲れ様です!」
駅前のオフィスビルの一室の扉を開ける。全員パリッとしたスーツを身に纏っているものの見るからに堅気ではない風貌の男達が紗希達の姿を見るなり即座に立ち上がり深々と頭を下げた。
「社長は辞めてよ……。それより組長さん居る?」
「ウス! 社長室にいらっしゃいます! おいボケっとしてんじゃねぇ早くお茶用意しやがれ!!」
さっきまで暇そうにサボっていたとは思えない機敏な動きを見せる一同。此処のフロア全員が元衣川組の組員であり、こうして紗希達が来ない時は社員のフリをしてくれているのである。
「これはこれは紗希社長。本日も大変お美しく――」
「だから私は社長じゃないって言ってるでしょうが組長さん」
「はっはっは、それを言うなら私ももう組長ではありませんよ」
絢爛たる社長室で待ち構えていたのは元衣川組の組長である衣川吉政だ。以前に見受けられた時代に取り残された暴力団に相応しい落伍者の様な姿はなく、今は全身を高そうなモノだけでコーディネートしている成金親父の姿がそこにあった。
「また随分と焼けてるわね……今度は何処に行ってたの?」
「房総半島でコレですな。この時期になると甘鯛が良く釣れるンですわ。どうです? 今度一緒に船釣りにでも――」
日焼けしている男はセラミックで矯正された白い歯を剥き出しにして笑いながら釣竿を振るジェスチャーを取る。こんな遊び呆けてばかりいるのが此処の会社の社長なのだから奇妙なものである。
「悪いけど遠慮しとく。……それよりもアンタ、どうせ暇でしょ? ちょっとお使い行ってきてくれない?」
「どちらまで行けばよろしいので?」
「名古屋にあるところの企業。今回は挨拶して手土産だけ渡せばいいだけだから」
そう言って紗希は提げていた紙袋を吉政に渡す。中身は有名ブランドが手掛ける結構な値を張る銘菓のセットだ。
このように紗希はお使いと称して自分の代わりに名目状は社長の吉政に挨拶回りに行かせるのである。
「名古屋と言えば愛知、愛知と言えば知多半島ですな。確かあそこは黒鯛や太刀魚が良く釣れるらしいですね」
「アンタほんっと釣りの事しか頭に無いわね……」
大丈夫なのか、と紗希が不安を口に出そうとした瞬間、それを遮る様に吉政は緩めていたネクタイと表情を締め直した。
「まぁまぁこの老いぼれにお任せ下さい。ハッタリなら誰にも負けやしませんよ」
腐っても長いこと組の長をやっているだけあって決めるところは決め、時には老獪さも兼ね備えている。衣川吉政と度々会うがそんな印象を受ける。望としては強かで中々侮れない老人だと評価している。
「……まぁいいわ。じゃあ後は宜しく頼むわね」
「承知。……所で、石川は何処に行ったか知りませんか? あの野郎、ちょっとシメてやろうと思うのですが如何せん姿を晦ましやがって――」
石川の名前を聞いた紗希は首を傾げる。この様子だとそもそも存在すら忘れているみたいだったので望が代わりに応える。
「確かひとまず南の方へ逃げるとか言っていましたね」
「ったく、しょうがねぇ野郎だな……。戻ってきたら伝えてくれませんか? 取り敢えずこっちに来い、とだけ」
望は承ったが、きっとその言伝が届く事は無いだろうと鼻で嗤った。何せ今頃は達成不可能な使いを馬鹿正直に遂行しているのだから。
はてさて
※
今日のタスクを終えた紗希は仕事で溜まった鬱憤を晴らすべく海岸沿いにあるアウトレットモールへと望を連れて赴いた。彼女が真っ先に店に入ったのは水着売り場だった。
「うーん、どれにしよっかなぁ」
吊るされている水着を手に取りながら紗希は物色していく。その近くで望が控えているのだが、どうにも居辛いと感じていた。
望には服の良し悪しや詳しい事は全く分からないし、興味も湧かない。だがこの場で確かに言える事が一つあった。
「……紗希。それは何でしょうか?」
「見て分からない? 水着よ」
「紗希がそれを着るのですか?」
「今度海に行く時に着ていくわね」
紗希が手に持っているそれは、普段着ている私服とは比べ物にならない程に布面積が少なく、大事な箇所を辛うじて守れるだけの着衣するには心許ないものであった。それを着ると宣っているのである。
「……紗希は痴女か何かなのですか?」
「はぁっ!?」
「このような下着同然のものを着て公衆の面前に晒そうなどと……痴女以外に何があると言うのですか?」
「ヘンな事言わないでくれる!? それにランジェリーとは全然違うから!!」
茹蛸の様に酷く赤面しながら紗希が反論する。何がどう違うのか、望にはさっぱり分からなかった。
「水着は泳ぎに行くのに相応しい格好だからいいの!! 寧ろそんな事考えるアンタがヘンなのよ!!」
「ふぅむ……良く分かりませんが、その恰好になっても別に恥ずかしいものではない、と?」
「そうだけどアンタが余計な事言うから恥ずかしくなっちゃったじゃない!! 全くもう!!」
臍を曲げた紗希はそう言って一通り籠に入れた水着と共に試着室へと入っていったので望は前で待機する。彼女が持ち込んだ服を試着し終えた時、いつも感想を聞いて来るからである。だが今回は違うらしい。
「……いつまでも其処に立ってないでアンタも水着見てきたら?」
「俺は別に水着なんて必要ありませんよ?」
「だーかーら!! アンタが近くに立ってたら恥ずかしくて着替えられないの!!」
「……? 水着は恥ずかしい恰好ではないのでは? それに紗希はいつも服の感想を俺に求めてきますので――」
「いいから早く何処かへ行きなさいってば!!」
今日の紗希はいつもと様子がおかしい。きっと今日の猛暑に脳をやられているんだ。そう思いながら望は主命に従い、少し離れたポジションで彼女の護衛に付いたのだった。
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