第5話 別れよう
井上かおり。
二十五歳。
俺の三つ下で、社内で一番美人だと評判の女性社員だ。
俺が第二営業部の部長代理に昇進したと同時に、俺の部署の課長に任命された。
キレイなロングストレートの黒髪に、ぱっちりした二重の目に、整った鼻梁、艶やかな唇。
非の打ち所のない美人だ。
身に付ける服のセンスもよく、カジュアルダウンさせた無地のTシャツとジャケット姿は清潔感があり、オフィスでは男女問わず人気がある。
仕事もできて、みんなから慕われている。
そんな彼女に俺が好意を寄せるようになったのは、ごく自然な流れだったと思う。
最初は憧れだと思っていた。
表面的なものに魅力を感じているのだと。
けれど、彼女と関わるうちに、彼女の内面にも惹かれていくようになっていった。
彼女も俺のことを憎からず想ってくれているようで、何度かデートを重ね、付き合うことになった。
このまま結婚するのだろうと、漠然と思っていた。
だけど……。
かおりは浮気をしていた。
部長と。
だから俺は別れを切り出すためにこうしてかおりを屋上へと呼び出した。
遅くなったけど、どうしても伝えなければならないことがあったからだ。
俺が黙って待っていると、かおりはゆっくりと近づいてきた。
そして、俺の前に立つと、真っ直ぐ俺の目を見据える。
「凄いね幹久くん。部長代理だなんて。部署が二つにわかれたわけだし、実質上の部長でしょ。おめでとう、私も自分のことののように嬉しいな」
破顔したかおりはいつも通りの明るい口調で、祝福の言葉を口にしてくれた。
だけど、その目はどこか悲しげに見える。
「ねえ、どうして最近私を避けるの? 私たちが付き合ってることみんな知ってるわけだし、堂々としてればいいじゃない」
社内恋愛に怯えてるわけじゃない。
今もこうして俺に嘘を吐き続けるキミに怖さを感じるんだ。
ここで怯んだらダメだ。
しっかりと、言わなければいけないことがある。
俺は意を決して、かおりの目をじっと見つめ返す。
「俺たちは付き合ってるんだよね。ならどうしてかおりは部長とセックスをしてたんだ?」
「…………」
かおりは一瞬だけ目を大きく見開くと、すぐにその表情は作り物の笑みに変わった。
「何のことかわからないな」
「誤魔化さないでくれ。俺はもう全部知っているんだ」
「えっと……なんの話かな?」
「キミがオフィスで部長としているところを見た」
俺ははっきりとそう告げた。
かおりの顔から表情が消える。
俺は構わず話を続けた。
「確かに入り口に鍵はかかっていたよ。エレベーターだってオフィスの階層に止まらないようになっていた。でもビルの鍵と操作盤の鍵を会社から預かってる俺からしたら関係ないんだよ」
俺がそう言うと、かおりは俯いたまま何も喋らない。
その態度を見て確信する。
やっぱり彼女は俺に見られていたことに気づいていなかったらしい。
「俺が何も気づいてないと思ったのか?」
「ううん。ホントは全部知ってた。だって部長が、わざわざ非常階段まで使って、細工したエレベーターがオフィスの階で止まるのおかしいもんね」
俺はその言葉を聞いて驚いた。
「わかっていたのか……?」
「誰かに見られたって確証はあった。だけど幹久くんかどうかはわからなかった。でも誰も私と部長のことを密告しないし、多分幹久くんだろうなって思うようになった……」
かおりは自嘲気味な薄笑いを浮かべて、肩をすくめるような仕草を見せた。
俺はその様子に胸を痛める。
「そこまで考えていながら、どうして俺に本当のことを打ち明けてくれなかった。どうして黙ってたんだ……好きじゃないなら好きじゃないって言ってくれればよかったじゃないか」
「違う……! そうじゃないの……私、幹久くんのことが大好きだよ」
かおりは必死に首を横に振る。
その声は震えていた。
その言葉を信じることは簡単だ。
でも、俺はもう騙されたくない。
だから、俺はかおりに問い詰めるように一歩前へ出る。
「部長がいいって言ってたじゃないか……覗き見してただけじゃない、俺はキミが言ってたことだって聞いてたんだ」
「あれは……部長に言わされてたの。本当はあんなこと、したくなかった」
俺の頭の中で、あの時の光景がフラッシュバックする。
真実と織り交ざりながら。
俺のよりいい……そんな台詞を言わされ、部長に組み敷かれ、嫌々ながらも身体を許すかおりの姿。
そして、泣きじゃくりながら、俺の名前を呼んで助けを乞う姿。
俺は歯を食いしばった。
今すぐ抱きしめてやりたい。
大丈夫だと安心させてあげたい。
そう思ったけれど、俺の手は拳を作るだけで、一向に前に出ない。
「……部長に何か弱みを握られてるのか?」
俺は恐る恐る訊ねる。
しかし、かおりは俺の予想とは違った反応を示した。
静かに首を振る。
「それも違う……私は幹久くんの隣にずっと居たかった。対等に見て欲しかったの。だから、頑張って出世しようと思って、部長と寝たの」
かおりの声はどんどん小さくなっていく。
俺はただ、彼女の話を聞いていた。
聞き逃すまいと、耳を傾け続けた。
かおりは、まるで懺悔でもしているかのように、語り始めた。
かおりを追い込んでしまったのは俺だ……仕事なんて二の次だと言えていたら、もっと大切なものが他にあると伝えられていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
俺は、自分の不甲斐なさに腹が立った。
かおりは涙を滲ませ、それでも俺の目をしっかりと捉えて、口を開いた。
俺は息を呑む。
今度こそ、彼女の本心を聞くために。
「許して……幹久くん、もう絶対に幹久くんを裏切らないから。さっき部長にも関係を終わりにしたいって伝えたの。だからお願い、私を信じて」
かおりはそう言って、俺に抱きついてきた。
……ああ、俺はまだやっぱり、かおりのことが好きなんだと思う。
もし、あの日、七海ちゃんに出会っていなかったら、多分かおりのことを抱き寄せて、許してしまってたんだと思う。
でも、今の俺ならハッキリとわかる。
勿論、かおりだけを責めるつもりはない。
だけど、しこりを残したままでは、多分、お互いにもう前へ進むことはできなくなるから。
ただ許し合う関係ではなく、これから先も一緒に歩いていくために、俺はやらなければならないことがある。
俺はかおりを突き放した。
かおりは呆然とした表情を浮かべる。
俺は彼女の目を見据えたまま、はっきりと告げた。
「別れよう、かおり。俺とキミは馬が合わないわけじゃない。きっといい同僚に戻れるはずだから……」
「いや……そんなのいやあ……!」
俺の言葉を聞いたかおりは、俺の胸の中で涙を流し始める。
なぜか、俺も泣いていた。
やっぱり好きだったんだ。
俺はこの人のことを愛していた。
だからこそ、ここで引き返せない。
俺はかおりの肩に手を置くと、優しく押し返した。
そして、涙を流しながら精一杯の笑顔を作ってみせる。
「かおりのことが好きでした。この先お互いに大切な人ができたら、今度こそお互いにその人を大切にしよう」
俺がそう呟くと、かおりはその場に崩れ落ちた。
「どうして……こんなにもあなたのことが好きなのに……どうして……私はあんな男と……っ」
嗚咽を漏らしながら、床を叩くかおり。
――どうして。
俺も何千回とその言葉を吐き出した。
七海ちゃんに抱き締められながら、嗚咽と鼻水を垂れ流して泣いたことを思い出す。
――これでいいんだ。
――俺たちはこれを機に前へと進めるはずだ。
自分にそう言い聞かせた。
俺は屋上から立ち去ることにする。
最後に振り返ると、かおりは地面に座り込みながら顔を手で覆っていた。
その姿はあまりにも痛々しくて、俺も再び目頭が熱くなるのを感じた。
――ありがとう、かおり。こんな俺を好きになってくれて。
俺は屋上を後にする。
かおりはもう追っては来なかった。
それから、しばらくかおりはオフィスに姿を見せなかった。
俺も新しい部署でブルーな気持ちにさせられっぱなしだったが、それでも仕事は待ってくれない。
部下の企画書に目を通していると、ふいにポケットの中のスマホが震えた。
七海ちゃんからのメッセージだった。
『ヤバい。幹久助けて』
それだけ書かれていた。
七海ちゃん、一体何が……!
俺は慌てて立ち上がると、部下たちに早退する旨を伝えて、会社を出た。
会長と専務に仕事一筋だと息巻いておきながら、情けない。
でも七海ちゃんが俺の助けを呼んでいると思うと、自然と体を動かさずにはいられなかったのだ。
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