12. 練習
そう。それが始まりだった。
それから、なぜか仕事の行き帰りに、先輩と駅で出くわすことが増えた。
いや、正直に言おう。朝は、できるだけ、先輩が出勤してくる時間から逆算して、何時ぐらいに駅に着く電車かを考えて、そのタイミングを見計らって、家を出た。帰りは、先輩の仕事の捗り具合をさりげなく、会話や言葉の端々から推測して、微妙にタイミングを合わせるようにした。
私は、いつのまにか先輩のことが好きになっていた。電話や打ち合わせで、他の人と話している声を聞くのも嬉しくて。特に、電話で話しているときは、相手の人の声がない分、先輩の声に集中できる。落ち着いた穏やかな声で話し始めるのに、段々話が弾んでくると、少し高めの明るい声で笑ったりして、眼福、という言葉があるけど、耳福?な気持ちになるのだ。
残業になると、(ああ、今日は駅まで一緒に帰れない……)と思ってがっかりしそうになるけれど、なぜか、そういうときは、先輩も残業をしていることも多くて、ホッとして嬉しくなったりした。
駅と職場の行き帰りで一緒になっても、別に何か変わった話をするわけでもなくて、
「今日も寒いね」とか、「忙しかった~」とか、そんな何でもない会話だ。
それでも、並んで歩いて、時々笑い合える、そんな時間がとても幸せだった。それで十分だった。自分の気持ちを伝えるとか、そんなことをしようとは思わなかった。ただ、こんな時間が長く続けばいいな、そう思っていた。
そんな中、先輩の海外赴任の話が決まった。この先、昇進していくための大きなチャンスだった。
みんなにお祝いを言われて、きれいな笑顔を見せている先輩に、私は、精一杯、「おめでとうございます」と言った。ちゃんと笑えていたかどうかは、わからない。
その発表があった日から、先輩は、いろんな部署や、仕事先への挨拶回りや引き継ぎなどで、めちゃくちゃ忙しくなり、私が、タイミングを合わせることも難しくなってしまった。
もう、2人だけで話すこともなくなるねんな。そう思った。
もちろん、職場で目が合えば、がんばってほほ笑むし、普通に仕事で必要な会話はする。でも、もう、前と同じ、のんきに『好き』という気持ちではいられなくなっていた。
(先輩は、ますます輝いて、この先もずっと誰からも認められるような、いい仕事をしていくんだろうな。 そして、どんどん出世して、どんどん……遠くなってくよな。 いや、最初から、先輩に近づけた、なんて思ってたのが、まちがいやったんかもしれへん)
だから、私は、もう、毎朝のタイミングを合わせる努力を、やめた。むしろ、合わないように、時間や乗る車両を変えて、駅に着いてから歩く時間を調節したりした。
先輩がいなくなっても、大丈夫なように練習しておかないと。会えなくても、声が聞けなくても、その笑顔が見られなくても、平気になっておかないと。
(勝手に1人で始まって。勝手に1人で終わって。なんだかなぁ。あほやなぁ……)
胸がきゅうっと詰まって、ため息が出た。
「なんか、この頃、俺のこと避けてない?」
先輩が先に出るのを「お疲れ様~」と他の人たちと一緒に見送ってから、少し仕事をして、職場を出て、駅近くまで来たときだった。
急に声がして、目の前に、誰かが立った。
尾野先輩だった。
「あ。え、先輩、帰りはったんじゃ……」
びっくりした私が、もごもご言うと、
「帰りはったよ。それで、ここで待ってはったよ」
先輩が、私を真似て、関西弁で言った。
「どうして……?」
「話があって。ちょっと、歩こうか?」
少し怒っているような、強引な声だった。でも、戸惑っている私に気づいて、
「ごめん。時間大丈夫? このあと、予定とかある?」
あわてて言った。
私もあわてて首を振る。
「じゃあ、ついてきて」
ついていった先は、駐車場だった。先輩はそこにとめてある車に近づいて、ドアを開けて、
「乗って」
そう言った。
「大丈夫。あんまり遅くならないように、ちゃんと送るから」
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