染み
「うぅー……! 重っ!」
返却ポストに入っていた本は全部で四冊。一冊大きい本があるが、それ以外は文庫本だ。夏凛さんは重量に悶絶しながらカウンターまで運んできた。オーバーリアクション癖があるのか、本当に重いと感じているのか。おそらく両方だ。
夏凛さんは手早く裏表紙のバーコードを読み取って、パソコン画面に表示された『返却』という項目をクリックしていった。その勢いのまま本を抱えて本棚へ向かおうとしたので、僕は引き止める。
「本の状態確認はしないんですか? 斬鴉さんは、貸し出すときと返却されたとき、本が汚れてないか、折り目がないかを毎回チェックしていますけど」
理由はもちろん、利用者が本を丁寧に扱っているかを確認するためだ。
夏凛さんは憮然とした表情を浮かべる。
「光太郎くんがキリちゃんに似ちゃったら、流石に嫌だよ? 図書室の規律が良くなりすぎちゃう」
「別にいいじゃないですか。どうせ僕たちは今年だけの付き合いですから」
「寂しすぎること言うね、君……。記憶は本、思い出は栞なんだから。ちゃんと私を栞にしといてよ?」
「何ですか、それ……?」
僕が首を傾げると、夏凛さんははっとなった。頬を羞恥に赤らめる。
「私が考えた言葉じゃないからね? 知り合いが言ってたことだから」
「今、このことを栞にしておきました。夏凛さんはときにポエミー」
「私が考えた言葉じゃないから」
これまで見たことない形相で睨んできた。これもまた……栞になったかもしれない。
夏凛さんは抱えた本を再びカウンターに乗せると、文庫本三冊をざっと観察する。大丈夫そうだった。
そして、残った一冊。ハードカバーで、サイズが四六判よりも大きい。カラーリングは茶色で重厚感がある。ヨーロッパかどこかの豪華な城が描かれた装丁も印象的だ。タイトルは日本語でも英語でもないので読めない。右開きではなく左開きなので、小説ではなさそうだ。この図書室に洋書はないし。
「うーん……ギリシャ神話の歴史研究って感じの本かな。タイトルは日本語で『ギリシャ神話大全』って言うらしいよ」
ページを開いた夏凛さんが教えてくれた。
「渋い高校生がいたものですね。ただのギリシャ神話ならまだしも、その研究の本を借りるなんて」
夏凛さんが『ギリシャ神話大全』の状態をチェックし始める。文庫本と違ってサイズが大きく、ページが固く厚いので手早くは行えないようだ。
「斬鴉さんって、入学直後からあんな感じだったんですか?」
夏凛さんと二人きりになるのは稀なので、僕の知らない斬鴉さんについて訊いてみた。
「あんな感じだったね。図書室の規律を破ったり、本を乱雑に扱う人に対しては先輩だろうと教師だろうと八つ裂きにしてた」
うん。予想はできる。
「夏凛さんはそんな斬鴉さんとどうして親しくなったんですか?」
「あー……とね。二人で図書当番してたとき、私が読んでた推理小説を見たキリちゃんが話しかけてきたの。キリちゃんも好きなシリーズだったから。最初は怖い印象があったんだけど、話してみたらそんな悪い子じゃなかったというか、普通に良い子で意気投合……とまでは言わないけど、何度か一緒に当番を重ねていってご覧のようなマブになったの」
二人がマブ達かは議論の余地があるけれど、とりあえず、
「そのシリーズ、今度貸してください」
「おっ。いいよいいよ。光太郎くんにも是非とも読んでほしいね」
うきうきした声を上げる夏凛さんだったが、ページを捲るその手が不意にとまる。
「あっ」
彼女から呆然とした声が漏れた。その理由は僕の目から見ても一目瞭然である。
「染み、ですね」
サイズの大きな『ギリシャ神話大全』であるが、ちょうど真ん中にあたる見開き二ページに染みができていた。透明な液体だったからか、白地の紙が灰色になっているだけなので文字は読める。染みは点々としており、面積こそ大きくないものの目障りなのは確かだ。
染みの形は大小どれも不規則で、水をこぼしたというより水滴をいくつか垂らしたかのようだった。
「なんか、わざとやったとしか思えないね」
夏凛さんの呟きに無言で頷く。意図してやらなければ、こんな染みはできない気がした。
その二ページの前後のページをよく調べてみる。幸い、一ページが厚いため裏に染み渡ってはいなかった。
夏凛さんは先のページを確認していく。最後まで見たが、あの見開き以外には染みはない。
「水を垂らした……のかな?」
染みを観察しながら夏凛さんが首を傾げる。
どうなのだろう。何か違和感がある。……これ、もしかして。
「なんか、この染み、左右対称になってません? 形はそれぞれ違いますけど、大きな染みと小さな染みが、それぞれのページの同じ位置にあるというか……」
双方のページに視線を行き渡らせた夏凛さんは、ゆっくりと本を閉じてページ同士を近づけていく。……やはり、そうだ。このまま本を閉じれば、サイズが近い染み同士がくっつく。
「光太郎くんの言う通りかも。でも、どうしてそんなことを……?」
確かに、そんな染みを狙って作る意味、ないよな。
僕は本に顔を近づけると、染みの臭いを嗅いでみた。軽く仰け反る。
「……青臭い、植物性の臭いがします」
夏凛さんも染みの近くで鼻を鳴らした。
「ほんとだ。何だろこれ。ただの水じゃなさそうだね」
妙な染みを前に難しい顔をしていると、斬鴉さんが帰ってきた。僕たちのいるカウンターをスルーして、先ほど本棚に返した文庫本を取り出した。隣に戻ってきた彼女に問う。
「その本、どうして一度返したんですか?」
「あたしが席を外している間に読みたいという人間が現れないとも限らないからな。借りている本でもないのに、栞を挿んで自分のもののように誇示するのは違うだろ」
これも斬鴉さんなりの美学か。僕にはよくわからない。
「それより、どうかしたのか? 仕事が進んでないようだが」
夏凛さんはすかさず『ギリシャ神話大全』を押し付けた。
「キリちゃん、これ見てよ」
斬鴉さんの顔がさっきぶりに厳しくなる。
「この染み、なんか変なんです。サイズと位置が左右対称みたいになってて、おまけに植物性の臭いがします」
僕の言葉を受けた斬鴉さんは染みに鼻を近づけた。そして、うんざりしたように吐き捨てる。
「どいつもこいつも、図書室の本を何だと思っているんだか。……たぶんこれ、押し花をした痕だ」
お、押し花? ……随分と、久しぶりに聞いた単語だ。しかし納得もできた。染みの正体は花から滲み出た水分で、位置が左右対称なのは同じ位置で花を挟んでいたからか。
「あたしならこんな目立つ本を貸し出した日付は憶えているから、あたしのいない金曜日に貸し出されたんだろうな」
ほぼ毎日図書室の当番を勤める斬鴉さんだが、金曜日の放課後のみバイトで休む。金曜日はいわば、図書室の死角なのである。
「前々から訊きたかったんですけど、斬鴉さんって何のバイトしてるんですか?」
「中学生の家庭教師だ。相手は母親の友達の子供」
「特に理由はないですけど、その子の性別を教えてください」
「女子だ。良い子だぞ」
「特に理由はないですけど、安心しました」
こんなやり取りの間にも、夏凛さんは貸出履歴を調べていた。
「本当だ。先週の金曜日の四時半に貸し出されてる。借りたのは……
「図書室の常連じゃないか」
苦々しい顔で呟く斬鴉さん。本好きの同士だと思っていた者への失望が見て取れる。
確かに、香澄さんは結構頻繁に図書室へ来ていたな。それに、
「僕、彼女と中学から今までずっと同じクラスだから、押し花が趣味なの知ってますよ。押し花を用いたアクセサリーとか自作していました。今も手芸部のはずです」
「確信犯ですな」
厳かに頷く夏凛さんだったが、斬鴉さんの反応は違った。
「いや、だとすると変だぞ。押し花が趣味の人間が、どうして図書室の本なんか使う? アクセサリーを作れるほど凝ったことができるなら、押し花を作るキットくらい持っているはずだろ」
言われてみればそうだ。押し花キットを全て使ってしまっていて、おまけに家中の本でも足りなかったので図書室の本を使った? そんな馬鹿な。
「それに、押し花は普通乾燥させた花を使う。花を直に本に挟んでいたら、流石に色素が付いているだろう。花の上下にティッシュでも挟んでいたはずだ。それでもこの染みの量……。水分の多い花をまったく乾燥させずに押し花にしたとしか思えない」
借りた者は押し花の名手。しかしその仕事ぶりは素人そのもの。事実がチグハグだ。
「これは、あたしたちが思っているより面倒な事案かもな」
斬鴉さんは目を細めて呟くと、『ギリシャ神話大全』をスマホのカメラに収めた。そして、ゆっくりと立ち上がる。
「本人に直接問いただしてくる。部活をやっているなら、まだいるかもしれない。夏凛、留守を頼む」
「りょーかい!」
右手の二本指で敬礼する夏凛さんを尻目に、斬鴉さんは今し方取り出したばかりの文庫本を再び本棚へ戻した。そのまま足早に扉に向かうので僕も付いていこうとしたところ、扉に手をかけた斬鴉さんが思い出したように振り返る。
「手芸部の部室ってどこだ?」
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