彼女の首輪

マコンデ大佐

🐾

 普段はまず足を踏み入れないケーキ屋という場所で、私は緊張している。


 店内の嗅ぎ慣れない匂いはバニラエッセンスだろうか。甘ったるい匂いが充満して、落ち着かない。


 しかし、今日は私と彼女の記念日だ。


 ケーキのひとつも用意して、それを祝うのが男というもの。そう考えた私は、華やかなケーキが並ぶショーケースの前で硬直している。


 しかし、その選択に後悔はない。


 評判の店ということで、夕方の店内には客が多い。それでも私の周りにだけは、切り取られたように人がいなかった。


 保冷剤が必要とかという問いに首を横に振り、しかしと思い至ってロウソクを二本入れて貰うと、私は足早に店を出た。


 礼を言って送り出す女性店員と、その他の客の顔が引き攣っていたのは、私にとって日常茶飯事だ。


 最近は日も伸びて、退勤の時間帯でも空は明るい。ケーキ屋のビニール袋を隠すように歩道を行き、桜の咲く公園を横切って家路を急いだ。


 この木を見ると、あの時の事を思い出す。


◆◆◆


 二年前のこの日。たまたま帰りの遅かった私は、いつもの帰宅ルートである公園を横切っていた。


 水銀灯に照らされた桜が花弁を落とす静寂の中を、重い足取りで歩く。悲痛な叫びが飛び込んできたのは、その時だった。


 照明も少ない深夜の公園だ。声のする方―――木立の向こうへ足を向けると、そこに倒れていたのが彼女だった。


 そして、地面に伏した彼女を足蹴にする、小太りの男。


「なんだアンタ。も、文句でもあるのか!」


 力なく横たわる彼女をさらに蹴ろうとして、男は私に気がついた。


 苛立ちに逆だった眉と、不機嫌に吊り上がった上唇。弱者への暴力に慣れた、低劣で品のないサディストの顔つき。


 じっと睨んだ。私がしたことはそれだけだ。


 美学なき加虐に対する嫌悪と軽蔑を込めて、睨んだ。


 視線で人を殺す術を、私は心得ている。


 私を上目遣いに見上げる男の顔に恐怖がにじむ。後ろめたさと開き直りの共存した卑屈な顔は、悪事を見咎みとがめられた子供のように哀れだ。


 私が一歩進むと男は二歩下がった。さらに一歩進むと、呆気なくきびすを返した。


「気味がわりぃ! 欲しけりゃくれてやる、そんなもん!」


 つまずくように走り去る男には目もくれず、捨て台詞は聞き流して、地面にうずくまった彼女に手の差し伸べる。


 春の湿った土に汚れてなお美しい、その白い躰が震えているのは、恐らく春の夜気のせいだけではない。涙を溜めたつぶらな瞳で私を見て、彼女はおびえていた。


 着ていた黒のコートで包み込むと、小さな躰を強張らせた。逃げようともせず、抵抗もせず、ただ私を見詰めて、震えていた。


 そして、私は彼女を手に入れた。彼女は私のものになった。


 彼女との関係は、それでも初めは上手くはいかなかった。


 部屋の隅にうずくまってこちらを見ているだけの彼女は、部屋をあてがうとそこから顔を出さなくなった。


 私の前では食事を摂らず、仕事から戻ると空の食器だけがある。そんな日々がしばらく続いた。


 心の傷は深く、大きい。私は無理強いをせず、辛抱強く彼女の回復を待った。


 夏のある日。


 一人暮らしでも出来合いの食事を好まない私が料理を始めると、部屋から出た彼女がキッチンへ顔を出した。


 その日はよほど空腹だったのだろう。カツオ出汁の匂いに釣られて怖ず怖ずと、こちらを窺いながら、近づいてくる。


 ふたりで囲んた初めての料理はシジミのリゾット。今ではそれが得意料理だ。


 秋には一緒に風呂に入った。始めは恐れるような素振りを見せた彼女も、今では一緒に入るのが当たり前になった。


 同じベッドで眠るようになるのに時間は掛からなかった。寒い冬には互いの温もりを交して夜を過ごした。


◆◆◆


 公園を抜けて住宅街に入る。


 建売住宅が整然と並ぶ新興住宅地で、私と彼女の暮らす家もその内の一軒だ。


 結婚を機に購入したものの、数年も経ずに妻が出ていった後は一人暮らし。子供ができることを考えて選んだ4LDKを持て余していた。


 ローンを支払うのも馬鹿馬鹿しいと売却を考えもしたが、今の彼女との生活を考えれば、早まらずに良かったと思う。


 それまでは足を引き摺るように帰宅していた私が、今では彼女の待つ家まであと僅かと思うと、心持ち足が早くなるのが自分でもおかしい。


 人間、変われば変わるものだと思うと、つい口元が緩んだ。


 そして、通りの傍に花屋を見つけたのも、きっとその変化のせいなのだろう。何年も暮らした街にこのような店がある事を、私は知らなかった。


 家路を急ぐ足を止めた私が少し考え、そちらへ足を向けたのは、ケーキだけでは物足りないと思ったからだ。


 だから、私が花屋を見つけたのは、きっと偶然ではないのだろう。


 化粧品とはまた異なる、花と緑の匂い。温度を保たれたガラスケースの中には、色とりどりの花が並んでいる。


 入店した私を見た若い女の店員は挨拶の声を詰まらせ、その後は一切こちらを見ようとしない。仕事をする振りをして顔を背けているのは明白だ。


 空気の硬さはいつもの事なので気にはならない。客は私ひとりだが、店に入った事に後悔はない。


 広くはない店内を悠々と物色すると、幾つかの花をつけた桜が一枝、透明なアクリルの一輪挿しに挿してあった。


 桜は、彼女の名前でもある。


◆◆◆


 彼女と出逢って一年が経った、桜の季節。


 すっかり元気になった彼女は、それでもまだ他人に恐怖を感じているようで、外出の誘いに応じようとはしなかった。


 しかし、一生を家の中で過ごすわけにはいかない。


 だから私は、頑なに人前を嫌う彼女を、誰もいないであろう深夜の散歩に誘う事にした。


 怖がる彼女をなだめ、抱えるようにして家を出る。春とはいえ深夜の空気は冷えていて、震える彼女を私は抱きしめる。


 水銀灯と月に照らされて、公園の桜は満開だった。


 ひゅうと風が吹くと花弁が舞い散る。私の腕から離れた彼女はその中で、子供のようにはしゃいだ。


 彼女と出逢ったあの夜から一年。元気になったと思っていた彼女の、これが本当の笑顔なのだと私は思った。


 花弁を追ってくるくると回る彼女を見て、私は誰にとも無く誓う。


 もう二度と、彼女を辛い目には合わせない。私の一生を懸けて、彼女を守ろうと。


◆◆◆


 桜の枝を買い求めて店を出た。


 先程よりも一層軽くなった足取りで彼女の待つ家へと帰る途中、道の脇に大きな人集りがあった。


 そこで何があったのか、人垣の向こうは見渡せない。野次馬たちに混じる気にはなれず、そのまま通り過ぎようとすると、ヒソヒソと話す声が聴こえてきた。


 交通事故だ。乗用車が誰かを跳ねたらしい。


 彼女との記念日に浮ついていた私の心が、鉛でも飲んだかのように重くなる。


 自分に起きた変化に戸惑うほど、焦燥感が湧き上がる。居ても立っても居られなくなる。


 目眩めまいを感じた気がして傍にあった石塀に片手をつくと、ケーキの紙箱を入れたビニール袋がガサリと音を立てた。


 一年前、ふたりきりの花見の後で、彼女は少しづつでも外へ出るようになった。


 人の視線を釘付けにする彼女の白い躰。その美を独占したい私は、決まって深夜に彼女を連れ出す。


 私以外の者を信じない彼女も、それを喜んだ。


 深夜の公園やモデルハウスの展示場、取り壊しを待つ廃工場。人の目のない場所を求めて秘密の散歩を愉しむ。


 回を重ねるごとに大胆さを増し、本来の奔放さを取り戻していく彼女。それを見るのは私にとっても愉悦だった。


 しかし、それも今日までだ。


 誰の手からも、私は彼女を守らねばならない。そこに後悔があってはならない。


 私の手に反応して白い躰をよじり、息を弾ませる彼女を。構って欲しいと甘咬みをしてくる彼女を。つぶらな瞳を潤ませ、切なげに鳴く彼女を。


 そして、ようやく笑顔を取り戻した彼女を、何があっても守らねばならない。


 想いに駆られた私は、半ば走るようにしてホームセンターへ向かった。専門店はあるが場所が遠く、今からでは間に合わない。


 目の前にあるのは多数の首輪だ。サイズも色も素材も豊富な品揃えを眺める私の呼吸は乱れていて、周囲の客は潮が引くようにいなくなった。


 それは良いとして、やはり彼女には革が相応しい。


 色は深みのある赤バーガンディ。私の好む色だし、きっと彼女も気に入る。


 しかしハーネスも捨てがたい。彼女の白い躰を飾り、より引き立たせるのはこちらという気もする。


 迷った私はどちらも買った。そうすれば後悔する事はない。


 スチール製の頑丈なケージは最も大きなサイズの物を選び、翌日の配送にした。


 すっかり遅くなった。彼女はふたりきりのパーティを楽しみに待っているに違いない。今夜は素晴らしい夜になるだろう。


 玄関の前で慌ただしくポケットを探り、取り出した鍵束で四つのロックを次々に解除する。その音を聞きつけたのか、彼女が出迎えに来る気配がした。


 扉を開くと、そこに感じるのは彼女の匂いだ。私がこの世で最も愛する匂いに、この4LDKは満たされている。


 フローリングに軽やかな足音を鳴らして、彼女がやってくる。


「ヒャンヒャン! ヒャンッ! ハッハッハッ……ヒャン!」

「ぃょ〜し、よしよし! 遅くなってごめんねェ〜♪」


 私の腕の中に飛び込んで来た最愛の。サクラは純白のポメラニアンだ。チャームポイントはよく動く尻尾……否、のすべてが愛おしい。


「すこし不自由かも知れないけど、お外は危ないですからね。はいこれ、プレゼント♪」


 濃赤紫バーガンディの首輪をつけてやると、目を細めて満更でもない様子の彼女。気に入ってくれて良かった。


 しかし寄り道を繰り返した結果、ケーキ店で飼った私の苺ショートと、彼女の犬用ケーキはぬるくなり、形が少し崩れている。


 保冷剤を入れて貰うべきだったと、私は後悔した。

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