第7話



 やがて娘は廊下の端々まで拭き終わり、又次郎と林之介に会釈をして去っていった。桶を両手で引きずるように持ちながら廊下を渡っていく、その小柄な後姿を眺めながら、又次郎は大きく溜息をついた。


「あの話、本当であろうか」


「わからぬ。分からぬが、お女中頭がそう申していたというのなら、全くの出鱈目というわけでもあるまい」


「やまいとはな……。しかしいかなる病であろうか」


「さて……。しかし忍殿がお勤めを辞めてまで看病せねばならぬのなら、かなり悪いのだろうな」


「心配だな。疱瘡ほうそう麻疹はしかだったら大変だ」


 疱瘡とは天然痘のことで、ポックスウイルス科のDNAウイルスである天然痘ウイルスに感染して発症する。四〇℃を越える高熱と全身に現れる膿疱を主な症状とするが、この膿疱は体表面の皮膚だけでなく、内臓の表面にも発生するものであり、角膜に生じると失明の原因になり、呼吸器に生じると呼吸困難から死に至る可能性が高まる。感染力、致死率ともに高く、かつては世界中で死の病と恐れられていた。


 コロンブス以前は天然痘ウイルスが存在していなかった南北アメリカ大陸では、免疫のなかった原住民での致死率は五十%を越えて一説には九割近くに及び、日本のように頻繁に流行を繰り返していた地域でも二十%以上だった。


 歴史上の有名人もこれに感染して亡くなった人は多く、奈良時代前半に朝廷で力を揮った藤原武智麻呂ら藤原四兄弟が揃って感染して死んだ他、江戸時代には天皇が何人か、天然痘のために崩御している。海外でもフランス国王ルイ十五世やロシア皇帝ピョートル二世、清の第三代皇帝・順治帝他多数がこの病のためにこの世を去っている。また、死には至らなかったものの、伊達政宗は右目を失明し、源実朝や豊臣秀頼、明智光秀の室・煕子、イギリス女王エリザベス一世やアメリカ合衆国初代大統領のジョージ・ワシントン、ソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンなどは、顔に「痘痕あばた」を残している。


 なお、天然痘ウイルスが属するDNAウイルスは、インフルエンザウイルスに代表されるRNAウイルスと違ってほとんど突然変異を起こさないため、同一ワクチンを長期間使用できる。そのため、天然痘ウイルスに近縁の馬痘ウイルスを人に接種する種痘が普及すると一気に患者数が減り、感染者を見つけ次第に隔離するという強権的手法も功を奏して、一九七七年に発生した患者を最後に自然界から駆逐された。


 一方の麻疹もかつては「命定めの病」と言われて恐れられ、ハワイ国王・カメハメハ二世夫妻ほか多数の歴史的有名人が亡くなっている。この病は、今でも撲滅できておらず、全世界では年間の患者は二百万人以上と推計されている。日本でも時折、海外から持ち込まれたウイルスによって小規模な流行が起きている。


 麻疹は、一本鎖マイナス鎖RNAウイルスの一種である麻疹ウイルスによって引き起こされる。一両の鉄道車両に患者が乗車していると、その車両に同乗する人全員が感染する可能性があるという強烈な感染力を有するが、紫外線やアルコール類等に対する耐性は低く、ワクチンの有効性も高いので、現代の先進国では感染をコントロールするのは比較的容易である。


 主たる症状は四日程度続く風邪様症状と、それに続く高熱と全身に現れる細かく赤い発疹である。このウイルスに感染すると免疫が抑制され、胃腸炎、中耳炎、気管支炎や肺炎、さらには脳炎といった合併症が起きやすくなるが、特に間質性肺炎や亜急性硬化性全脳炎などを併発すると予後が悪く、太平洋戦争終戦直後で栄養状態の悪かった時代には、年間一万人近くの人が命を落としていたという。令和の現在は治療法が発達し、先進国では死亡率は〇・一%程度となっている。




「はしかか、流行っているからな。俺の姪っ子も罹って、床に臥せっているというし……。どうした?」


 スッと立ち上がった又次郎を見上げて、林之介は訊いた。


「殿に会ってくる。殿なら詳しいことを知っているだろう」


「そうだな。……よし、俺も行く。おぬしだけでは心もとないからな」


 林之介も立ち上がり、娘が拭き上げたばかりの廊下を歩いて保成の書斎に向かった。


 保成は壁に穿った丸い明かり窓の際に坐り、難しい顔をして何かの書状を読んでいた。


「殿にはますますご健勝のこと、恐悦至極にございます……」


 書斎には明かり窓の際にだけ畳が二枚敷いてあり、他の部分は板敷きのままで、畳はない。その板敷きに直接坐りながら林之介がそう言うと、保成は顔を上げて不快そうな目を林之介に向けた。


「健勝? わしがか?」


「違いますか? それともお体に何か不都合でもおありでございますか?」


「不都合などはない。……で、何か用か?」


「用というほどのことではありませんが、少々小耳に挟みましたゆえ……」


「なんだ、勿体ぶらずに早う言え」


「なんでも殿のお女中衆が二人ほど、足りなくなっているとか」


「誰から聞いた?」


「お女中頭がそう申していたと、先ほど廊下を拭き掃除していた娘が言っておりました」


「……権三郎の娘か? 口の軽い小娘だ」


 保成は眉をひそめて口先を尖らせた。


「権三郎?」


「萩山村の名主おとなの権三郎だ」


「ああ、あの権三郎の娘でございますか、なるほど」


 林之介は小さく頷き、頬に軽い笑みを浮かべた。


「なんだ、その笑みは」


「あ、いえ……。そういえばあの娘、殿のお好きそうな顔立ちだったと、ふと思っただけでございます」


「たわけが、余計なことは思わんでもよい」


「……申し訳ございません。ところでその娘は、殿の給仕をする人手が足りず、賄い方は大層困っている、とも申しておりましたが」


「………」


「給仕をする者が男ばかりでは、せっかくの御膳も不味くなりましょうな」


「フン……」


 保成は書状を畳んで封紙に包みながら、面白くない、とでも言うかのように鼻を鳴らした。


「あるいは、そのお女中は……、はて、花藻と忍と申しましたか、殿のお気に入りでございますゆえ、奥に入られたとも聞きましたが」


「誰がそんなことを言った?」


「ここに参る時に、下人どもがひそひそ話でそう言っているのを聞きました」


「ある事ない事良い加減なことを申すものじゃ。しかし、わしは好いてくれぬ女子にさようなことはせぬ」


「まことでございますか」


 林之介はわざと疑いの眼差しを作り、上目遣いでジロリと保成を見た。


「まことじゃ。今川治部じぶの大輔だいぶ殿や織田弾正だんじょうのじょうなら女子の気持ちなどお構いなしに側女にするであろうがな」


「では、なぜお勤めを辞めたのでございますか」


「辞めてはおらぬ。……花藻は病に臥せっておってな、忍はわしが命じて花藻の看病をさせておる」


 保成が口の端を曲げてそう言うと、又次郎は微かに膝を動かし、身を乗り出すようにして訊いた。


「やまい、でございますか。してその病とは、流行り病か何かでございますか? 近頃城下ではが流行っているようですが」


「いや、流行り病ではないようじゃ。笊庵は気鬱であろうと言っておった」


「気鬱、でございますか?」


 又次郎と林之介は目を見合わせた。


「しかし若い娘が気鬱とは、いかなるものでございましょう。やはり殿が何かなさって、それで気を病み……?」


「いや、いや。それはない」


 保成は苦笑を浮かべ、手を振った。変に慌てたその様子に、林之介も内心で苦笑し、


「ならば、なぜゆえに気鬱などに?」


「分からぬ。笊庵は、気鬱の種は心にある悩みだといい、それが分かれば治しようもあると申しておるが、花藻は悩みが何なのか言わぬようじゃ」


「なるほど……」


「どういう容体なのか、忍も城に出て参らぬゆえ、さっぱり分からぬ。笊庵は数日おきに看に行って薬も飲ませておるようじゃが、少なくとも良くはなっておらぬということじゃ」


「さようでございますか。しかし殿もご心配でございましょう」


「心配は心配じゃが、わしにはあの病はどうにもならぬ。笊庵も、薬だけではどうにもならぬ、治るも治らぬも花藻の気持ち次第じゃ、と言っておるし……。神頼みでもせねばならぬのかな……」




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