第9話 著書『近未来魔法技術論』

――『魔法』。かつてあったらしいその力は、今では全て『科学』で説明がついている。雷はただの自然現象だし、竜巻や津波だって予測が出来る。流石に地震はまだ出来ていないな。手品の応用で手から炎を出してるように見せる事も出来るし、磁力で浮遊しているように見せる事だって出来る。私の研究は、そういう事が中心だった。

「異動…ですか?」

報せを聞いた時には信じられなかった。確かに、大した成果を出せていなかった。一昔前は大学をそこそこの成績で卒業して、若手のホープとして自然現象を研究していた私は、研究室での日々を16年ほど過ごしていた。

大きな論文は残せなかった。だいたいの事は解明済みだから仕方ない事とはいえ、まだまだ研究したい事は山のようにある…はずだった。

「最近、つまらなさそうにしてたからさー。折角だから稼げる仕事にしてあげようと思って」

言われた事が胸の奥にグサッと刺さった。そうだ。研究テーマをこの16年間、ずっと迷走していた。大学では成績を稼ぐ事ばかりが快感で、卒業した後の事なんてろくに考えてなかったのだ。周りから天才とおだてられ、その時になったら自分は自然と次の手を思いつくと。

思い上がっていた。優しい先生にひたすら付き従うだけの16年は楽しかったが、中身はまるで無かったのだ。私はこれから、自分の中身を作り上げなければならない。

「稼げる…と言われましても…。私はこの研究室で…」

言い訳ばかりが頭を駆け巡る。安定している今から離れたくない。こんな私だが、妻も息子もいるのだ。稼げると一口に言われてもどんな仕事なのか想像もつかない。危険な場所に飛ばされるかも、悪い想像が私の口を動かしたのだ。言い訳がみじめなのは分かっている。それでも、何か言わなければ、と。

「大丈夫だよ。収入については間違いない。新しい研究チームを…向こうの方で立ち上げたんだ」

指差した先はすぐ傍にある別館だった。それだけで少しほっとした自分がいた。いざという時はここに泣きつける、と。情けない男だ。

「ああ…。そういえばそんな話ありましたね。トラックが何台か行き来してて…」

「規模は小さいけど…。君になら気に入って貰えると思うよ!」

小規模の研究チームなのに稼げる…?どうにも怪しい話だ。

「本当に…。本当に大丈夫なんですか…?」

先生は私に向かって笑顔で頷いた。

「あそこで研究するのは『魔法』だよ」


――私は思わず頭を抱えた。


「そこまで露骨に嫌がらなくてもいいじゃないかー。ちゃんと支援金は出てるんだよ?」

「いや、だって!『魔法』って!!そんなの出来る訳ないじゃないですか!!」

私は思わず目の前の机を叩いた。不可能だから『魔法』なのだ。出来ないから『魔法』なのだ。それをどうやって研究しろっていうのだ。

「ははは。まぁそう言うよねぇ…。私だって、本当にやるのか?って思ったよ。でも、案外出資者はやる気でねぇ…。ちゃんとこれだけ出るんだよ」

先生はしわしわの手で電卓を静かに叩くと私にそれを見せてくれた。

…嘘だろう…。質の悪い冗談だ。

「金持ちの道楽、と捉えてくれればいいさ。数年の自由研究期間を設けてくれてるよ。すぐに結果を出せと言ってきてる訳じゃあない。楽しんでやってくれよ」

楽しんで…って…。何も結果が出ない研究をどう楽しめっていうんだ。

先生はそれだけ言うと私に別館へのIDカードを差し出した。

私はそれを、受け取るしかない。

「わ…。わかり…ました…」

金が出ている事は分かった。給料さえ貰えれば、今は何だっていいんだ。息子はもうすぐ16だし、最低でも彼が大学をでて、安定した職業に就くまでは私がなんとかしなければならない。

この数年間は、自分を見つめ直すのに使うべきだ。きっと先生もそういう事を考えて薦めてくれたのだろう。私は『近未来魔法技術研究班』の班長に任命されていた。大した実績を出していない私が、班長。先生が回してくれた苦労は想像もつかない。己を見直し、磨き上げるべきだ。それにすら応えられない人間にはなりたくない。

別館へ向かう、渡り廊下は日差しが強くて暑苦しい。あまりこちらには寄った事がない。書物の保管が主だった役割で、ここに研究室が出来ると聞いた時は可哀想だと思ったものだ。駐車場からも遠いしな。

向こうの部屋がどれだけ広いのかも知らないし、何人集まってるのかも詳しく聞いていない。お気に入りのコーヒーメーカーは置きたいのだが…、置くだけのスペースはあるのだろうか。溢したらシミになるしな…。どう研究するのか、というのは本が中心になるはずだ。実践はどうやっても出来ないからな。それを考えたら別室に…。

「ドンッ」

何かにぶつかった。いや、誰かかも。私は身長だけは無駄にデカいから背の低い人を見逃してぶつかってしまう事がよくある。アスリートを目指していた訳ではないのだが。

「あぁっ。すいません!」

とりあえず謝った。ぶつかった物の大きさからして、恐らく人だ。いつもならちょっとぶつかったくらい気にしないのだが、異動で気が小さくなっていた私は思わず謝ってしまった。

「…………」

そこにいたのは小さい男…の子?だった。明らかに若い、大学生か?ここに入れるという事は最低でもその年齢のはず…。

「怪我はないかい?ちょっと考え事をしていてね…」

黒い髪、黒い眼、若い顔立ち。少なくとも、今まで見たことがなかった。これだけ小さいのも…。150…か140後半…か?いくら何でも小さすぎると思うが。

「いえ、大丈夫です。貴方も別館に用が?」

私は先ほどまで手に持って見つめていたIDカードを目の前につきつけた。

「ああ。『近未来魔法技術研究班』の班長でね。…馬鹿な事を言っていると思われるかもしれないが…」

途中まで出した自分の言葉を思わず誤魔化した。真剣に受け取って貰いたくない。冗談だと笑い飛ばしてほしい。そういう思いが僅かにあった事は否めない。

「…私も、そこに配属される予定です」

なんと、同僚だったか。こんなに若いのに何故こんな所に…。

ちょっと聞いてみようか?

「ははは。まさか?君みたいに未来ある若者がいていい場所じゃないだろう?」

いくら童顔と言ってもここにいるからには20代後半だ。飛び級を経験していたとしても10代で入れるような所ではないし、何よりそんなに優秀な人材ならばここに飛ばされるはずがない。この研究に未来はないのだから。

「私は…自分から志願したんです」

自分から…?どういう…意味だろう。

思わず思考が停止する。そんな筈がないという決めつけが頭から離れない。違う理由を探したいのだが、簡単には思いつきそうもない。

「じ、自分から…?変わり者みたいだね…」

彼は無表情で答えた。

「私は、『魔法』はあると信じているので」

…………………。


――本気か???


…………………。


「あの…。どうしましたか」

いかん、彼と喋っていると調子が狂う。頭に手を当てて二回ほど首を振ると少しだけ冷静になれた気がする。

「こ、これからは共に研究に励む仲だ。よろしく、えーっと…」

「エスト・フォーアス」

彼はこちらに向かって手を差し出した。

「エスト・フォーアスです…。よろしく、シード博士」

「あ、ああ…。よろしく」

こちらは名乗ってなかったが…。いや、IDカードに名前は書いてあるし。きっとそれで知ったのだろう。

固く握手すると、少し冷たい手が印象に残った。

「…時計、いい時計ですね」

「へ?あ、ああ。分かってくれるか?ブランド物でね。結婚した時に妻から贈られたものなんだが…」

「止まってますよ」

「えぇ?!」

思わず右手を目の前に動かす。確かに、秒針は止まっていたのだった。

「困ったなぁ…。もう古いから、修理対応してるかどうか…」

新しい時計を買おうと思えば買えるのだが、たった10年ぽっちで壊したとあれば妻から怒られてしまう。物持ちの良さには自信があったのだが…。この前コーヒーを溢した時の…いや、転んでデスクにぶつかった…もしくは外した時に放り投げたのが…。思い返すと扱いが雑すぎたな。

「仕方ない、自分で直す手段を検索しよう。教えてくれてありがとう、エスト」

近くに時計屋もない。何より、この先は暇な時間ばかりだ。「時と魔法の関係」と称して修理の本でも読んでいようか。流石に部品は予算では買えないだろうが…。

「…博士。一つ聞きたい事が」

少し爽やかな風が吹いた気がした。


「私は…どんな人間に見えますか?」



――すっかり見失ってしまった。確かにこっちの方に逃げて行ったはずなんだけど…。ベクルは私の肩に手を当てて、視線の先を指さした。

「向こうに昇降機らしいものがあるわ。あれで昇ったのかも」

私には機械の類は分からないのだけれど。名前は聞いた事がある。自動で高いところに昇ってくれる機械らしい。私には操作方法は分からないけど。

ベクルが柱のそばにある機械を操作すると、上の方から音がして、しばらくするとゆっくりと扉が開き、中に小さな部屋が見えた。これに乗るのかな…?

「やっぱり…。上にあったって事はこれに乗ったんだ」

「よく操作法分かったね…。ベックも詳しいの?」

明らかな苦笑いを浮かべながらベクルは頭を掻いた。

「いや…。ごめん!適当に操作した!こういうのは勘が大事だと思って…」

こういう時の直観は彼女に分がある。私が操作するよりも任せておいて正解だった。確かえれべーたー…だった気がする。頭の中の地図が正しければ、この先に非常時のコントロールルームというのがあるらしい。入口付近の制御室が動かない時はここまで行くと説明されていた。

えれべーたーの中に入るとまたいっぱいのぼたんが私たちを迎えてくれた。ベクルはちょっと悩みながら、頭に手を当てて考え込むと、一番高い所にあるぼたんを押した。扉が閉まり、上に昇って行く感覚が襲う。どうやらちゃんと動いているみたい。

「レスティ。一応言っておくけど、何か感じたらすぐに教えてね。私はそういうの鈍感だから…」

「そんな事ないよっ!私にはこういうの無理だし…」

私はベクルを鈍感だと感じた事は一度もない。最初に出会った時から、こちらの事を知ろうとしてくれているのだ。私があの兄さんの妹だから、っていうのもあっただろうけど。薬草摘みばかりにかまけて、他の事を知ろうともしていなかった私の方がよっぽど鈍感だ。

「覚えてる地図の通りだとすると…。確か、図書室を抜けてからよね。まだ遠くに行ってないといいけど…」

「…たぶん、だけど。すぐに止める必要はないんじゃないかな」

私はぼそっと呟いた事に、ベクルは呆気にとられた顔をしていた。

「ほら、もし彼女の言うように星を食べる…っていう事が最初から出来たなら、もっと早くにやってるはずだし」

それこそ、私たちの邪魔が入る前に実行しているはずで。動向を悟られたのはきっと向こうの思い通りにいかない事を試行していたから『マギニカ』で異常を察知されたのだ。まだ、完全に星食みを実行できない何かがある。だから今、私たちは彼女を追えているのだ。

「確かにそうね…。でも、ミリアムの力は危険よ。放っておくわけにはいかない人間だってのも分かってるし」

『悪魔の子』。そう聞いていたけれど、詳しく聞く事は出来なかった。でも、彼女にはどこか懐かしさを感じている。『エスト・フォーアス』。その人があの中にいるような気がする。今までの情報から精査すると、悪い人ではないのかもしれない。何より、『シード博士』が信じた人で…。

「…どうしたの?レスティ」

「えっ?私どうかしてた?」

「なんかちょっと笑ってた。思い出し笑いかしら?」

やっぱり、鈍感なんかじゃない。

「実はね。エスト・フォーアスって人は…シードっていう人と一緒に仕事をしてたの」

「シード…。シード!?な、名前は!??」

名前…。どうだったかな。今まで見た記憶の中にはその人の名前は出てなかった気がする。そういう意味では、あの人も『名無しの勇者』…とか。考えすぎかも。

「名前は分かんなかったかな…。でも男の人だったよ。ベックと同じで大きくて優しそうな…」

立ち上がった時の視点は、私よりも遥かに高かった。頭一個…半くらいは高かった気がする。台の上にでも乗らないと見えない視点だったから新鮮だった。

「まさか、ミリルさんの妄想が本当にあった事なんて…。『フォーアス』とシードは昔から一緒で…」

ミリルさんが書き上げた本には、『勇者』の一族である『フォーアス』とそれを陰から支えるシードという一族が常にいたらしい。名前は正確ではないけれど、この位置に存在する人物は実在した…というのがミリルさんの論だ。

私が見たのは『魔法』が無い世界。この星に『魔法』という概念が生まれたのが2万年以上は前というのをミリルさんが言っていた。実際に使ったのもそれくらい…だったかな。だからこれまで『フォーアス』とシードは2万年もの付き合いという訳になる。私とベクルはたった10年ちょっとの付き合いだけどね。

「どうだろうね。たまたま同じ名前ってだけで、流れてる血まで同じとは限らないよ?私のお父さんだってそう言われてたし」

あくまでそれは、書物にそう残っていたというだけで本当に同じかどうかなんて同じ時を過ごしていないと分からない。私の『記憶読み』だって正確なのか疑わしいものだし。『勇気』に至っては血の証明にもならない。何せ、条件が揃った時に起きる現象なのに条件に血は入っていないのだ。ミリルさんは『フォーアス』以外にも『勇気』を起こせると記録にあったって言っていた。それはたぶんだけど、本当の事なのだろうな。

「…血は大事じゃないのよ。大事なのは…『どんな』勇気を持っているかどうか」

…『どんな』…って?私は思った。

「どういう事…?『勇気』は、特定の条件で起こる現象で…」

「それは現象での『勇気』でしょ?私が言いたいのは…。なんていうか、人にはそれぞれ、その人にしか出せない勇気っていうのがあると思うの」

私は初めて聞いた。そんな概念。これまで何度も『勇気』についての説明や凄さを教えられてきたし、お父さんも、兄さんも目指したもので『フォーアス』が代々使ってきた特別な力っていうのが一番にあった。

現象であり力。それを使える人は『勇者』であると過去に定義されたものを、きっとお父さんのお父さんも、その前の人たちもみんなが目指した。だって、特別な条件が必要で、適合しなければ兆しすら起きないから。私は偶然にも兆し…程度なら起こせるくらいの力があるみたいだ。二度も起こせれば偶然ではないだろう。ただ…、それは、言葉でいう勇気と同じものであるのだろうか。

「一歩…。何かを始めようとしたり、何かを為そうとする時の一歩を踏み出す勇気。誰もが同じものを持ってる訳じゃないもの」

「一歩を踏み出す…勇気…」

私にとって、それは『天光斬月』を抜く事だった。お父さんから受け継いだ、私に向けて託された剣。一番最初の抜刀こそ兄さんにやられちゃったけど、ロップを護る為に抜いた時にはあの時よりも、もっと多くの勇気が必要だった。

自分が一番安全な所にいる事は何より自分が分かっていた。だから、危険な所へ飛び込むのには本当の勇気が必要だった。なんであの時、ロップを追いかけたのかは分からないけれど…。たとえ、何かに導かれた結果であろうとも、私が『天光斬月』を抜いた時は生まれて初めての勇気を出したと言っても過言ではなかった。

「人によって、何が出来るのかは決まってるかもしれない。けれど、何をしようとするのかは…勇気によって決まると思うから」

…私はあの時、ロップを護れると思って『天光斬月』を抜いた訳ではない。

護ろう、と思ったから勇気を出して剣を抜いた。

不可能は頭に何重にもよぎった。成功体験なんて滅多にないから。

あの時、あの場所で、私にだけ出せた。勇気。

風の足跡を感じていたのは、私に追ってほしいと思っているから…?

それとも、私に力を貸してくれるつもりで、誰かが駆け寄っているから…?

私が使う『勇気』は、過去の残滓なのか、それとも未来への導きなのか。

『天光斬月』の柄にそっと手を被せてみても、何も感じない。

答えはこれから先、どこかにあるはずだ。その一歩を踏み出す勇気もきっと、必要なんだろうな。

「そろそろ着くと思うけど…」

ベクルの視線の先では光が横に移動している…。一番右が光ると、音を立てて扉が開いた。

どこか薄暗い室内は『シリウス』の中に光はない事を示しているかのように思えた。さっきまであんなに明るかったのに。『カントリーヒル』でも嗅いだことのある本の匂いと、僅かなカビの臭いが混じった…あまり長居したくない空間だ。

ゆっくりと辺りを見回す。どこまでも高くそびえる本棚は私も初めて見るもので物陰から何か飛び出してきやしないか不安になってしまうくらい。

…気配、気配を感じる。

この部屋のどこかに、誰かがいる…。

「気を付けてベック。誰かいるかも…」

もしミリアムがここにいるのなら、『魔王の力』とやらで先制攻撃をしてくるかもしれない。あの攻撃は私にしか感知が出来ない。気を張り巡らせて、間違いがないようにしないと、私もベクルも危ないだろう。

ベクルは『フラムベルク』に手をかけていた。常に抜いていなくとも、彼女の場合は手にかけているだけでいい。速さだけで言うのなら兄さんにだって追いつけるくらいに早いのだ。いざという時はベクルに弾いて貰わないと『大魔法』は防げないだろう。

気配は動いていない。誰かがいる事は確かだ。音は聞こえないけど、どこかにいる…。でも、何をしているのだろう。相手からすれば待ち伏せをする必要なんてない。私は偶然、察知する事が出来たけど向こうはまだ自分の力に自信を持っているはずだ。いつでもこちらを倒せる自信があるからこそ、追いかけてくるのをすぐに迎え撃たなかったのだ。『キャストキャンセル』があれば追う私たちを見ないで倒せるはず。それをしなかったのは、追わせる事を許したからだ。

注意深く歩いていくと、天井から何か光が漏れているのに気が付いた。透明な天井からは傾いた日から光が射している。ロップに付いている時計を見る。昼の19時だ、もう夕暮れ時でそろそろ夜が近い。完全に夜になってしまうと、ここも真っ暗になってしまうかもしれない。早く見つけないと――。

天井からふと、視線を外すと、その先に彼女はいた。ミリアム…、間違いない。

私はそっと、ベクルの肩を叩いて報せた。向こうに彼女がいる。

「……本を読んでる?いったい何を…」

茜色の明かりを頼りに、ミリアムは本を読んでいた。何故か、その本には…私も懐かしさを感じていた。前に、どこかで…見たことがあるような…。

「…来たんだ。『フォーアス』」

ミリアムは本を閉じて、立ち上がった。その表情は余裕がうかがえる。だいたい私の予想通り…みたいだ。向こうは完全に上のつもりでいる。

「『フォーアス』…あなたも、『フォーアス』なんでしょ?」

誰かがいる。彼女の中に、誰か。私はその人に向かって話すつもりで問いかけた。どこか濁った瞳の奥にいるその人に。

ミリアムは何故か、視線を外した。まるで、「そうなのか?」と疑問を抱いてるかのように。

「そうだよ。名前が無かったから貰ったの。『フォーアス』が丁度いいって言われて」

「言われて…?誰に言われたって言うの?」

ベクルの問いかけに、ミリアムはくすくすと笑った。きっと、この中でその人の存在を分かっていないのは、ベクルだけだ。

「知らなーい。名前も知らない誰か。でも、私にぴったりなんだって」

『フォーアス』は『名無しの勇者』、という意味らしい。あくまでミリルさんの持論によるとだけど。『勇者』の部分を無視すれば『名無し』の意味だけでも使えるのだろう。その部分にこだわっているのは私たちだけなのだから。

「へぇー…全然似合ってないね。私の知ってる『フォーアス』は」

「どうでもいいわ。あんたの意見なんて」

ミリアムはさっきまで読んでいた本をこちらに向かって放り投げた。私は慌てて取ろうとしたけれど、一回掴みそこなって高くあがってから落ちてしまった。表紙に何か手書きで書いてある、『近未来魔法技術論』…。『カントリーヒル』には無かった本だ。どういう内容なのか想像もつかない。

「そもそもあんたは誰?セイバが何か言ってたような気がするけど…」

「『心眼の剣聖』ベクル・シード。『救世主』の次に警戒すべきだって言われてるはずよ」

ベクルの名乗りを聞くと、顎に手を当ててちょっと考え込む仕草を見せたあと、両手を振って呆れた表情をした。

「ダメだ、知らない…。だって。私の『記憶』の中にも強く残ってないから本当にどうでもいい名前のようね」

私はベクルの裾を引っ張ってベクルに耳を寄せるよう指示した。

「たぶん、なんだけど…。『魔王の力』を持った時に『記憶』も…」

知らない…はずはない。その中に『エスト・フォーアス』がいるのなら、シードの名前を知っているはずだ。だとしたら、『魔王』と『エスト』はやっぱり関係ないのかもしれない。

「知らないっていうのなら、これから教えてあげてもいいんだけど?」

『フラムベルク』を抜いた。波打つ歪みを持った長剣は、まっすぐにミリアムへ向いていた。

「そっちも知らないなら教えてあげる。図書館で暴れるのは禁止よ?」

ケラケラと笑いながらミリアムは答えた。やはり、相手はこちらを下に見ている。

先手は確実にこちらが打てる。ベクルの速さなら、向こうに対応する前に…、いや、相手には『キャストキャンセル』がある。連続では出来ないっていうけれど、ならばそれは時間の経った今ならすぐにでも出来るっていう事だ。

詰め寄るのと攻撃はベクルならば同時に行える。けれど、一瞬でも認識されたらミリアムに返り討ちにあうだろう。相手は脳内に『魔法』を思い描いただけで好きな座標に攻撃出来る。やっぱり、こっちから仕掛けるのは危険…かも。

私は恐らく、相手の『キャストキャンセル』の発動を事前に知る事が出来る。もちろん、知った所で体が反応しなければ避けようがないけど。この能力が正確なのならば、相手が仕掛けてくるのを待った方が確実…かもしれない。連続では出来ないのならば、使わせる事で主導権を握れる…はずだ。

「…ちょっと、そんな目で睨まないでよ。本でも読んだらどう?」

私の足元にある本を指さした。著者は…かすれて読めない。先ほどまで、ミリアムが読んでいたという事は…何か意味があるはずだ。

「気を付けて、罠かも…。本に何か仕込んでるとか…」

ベクルが囁いた。無論、その可能性は十二分にある。といってもどんな罠があるかなんて私には分からないんだけど…。『魔法』が掛かっている様子はない。自分の感覚を信じるなら、だけど。落ちている本を慎重に手に取った。

表紙を捲る。昔の文字で書いてあるから正直、読むことは出来ない。彼女にも知識はないはず…、ここから何を読もうとしていたのだろう?今の文字はここからいくらか崩れた文字…っていうのは聞いていたから解読に時間はかかるけど予想して当てはめていく事は出来る…かも。使わなくなった文字が出てきたらどうしようもないけれど。

文字に触れる。捲ってすぐの1ページ目、きっと目次…、いや、前置きが書いてあるみたい。頭の中に文字が浮かぶ…。

「これはある『記憶』を元にした体験記録である。原初の『魔王』について残された唯一の『記憶』。欠損が激しく、正確な名前は再現する事に失敗したが彼はかつて『フォーアス』という名前であった。『魔法』の無かった世界に『魔法』をもたらした『魔王』と名も無き『勇者』が組み上げた魔法論について記したものである」

…ここまでは読めた。もしかしたら、『エスト』に関する本…?

「貴女は…貴女は読めたの?この本…」

ミリアムは手を振って、否定した。

「まさか、でも何故か…懐かしい感じがするの。その本…。読んだら名前が思い出せる…そんな気がして」

彼女の中にある『魔王の力』、その『記憶』が『エスト』の名前を求めているのだとしたら…?教えてあげるべき…?彼の本当の名前を…。

「思い出せる?あなたの名前はミリアムでしょ?」

「『シリウス』に来てから…。私の中にもう一人、誰かがいる気がするの」

ミリアムは立ち上がって机のふちをなぞった。違う誰かがそうしている気がする。

「『マギニカ』で生まれた私は、いくつの頃だったかも忘れたけど手足を縛られて海に流されたの。生きている価値が無いって言われてね」

残酷な話だ。お父さんが聞いたら怒るだろう…。やった人にも事情があるのだろうけど。

「どうしようもない…悪癖がある…」

私はこっそりと呟いた。ハッキリ言う事はしなかった。直接ぶつけるのが…何故か怖くなってしまって。

「あら?知ってるの?周りからよく言われたわ…」

「『破壊衝動』の事ね。ペスケもあんたには散々やられたって…」

ミリアムは首を傾げて問い返してきた。

「ペスケ…?誰よそれ」

「ペスケ―ド・ツインランサー。小さい頃一緒だったって聞いたけど?」

「知らないわ。興味ない事は忘れる事にしてるの」

本人がここにいたらさぞ怒るだろうな…。私たちだけで追いかけててよかったかも。

「私は悪いと思ってないし。生きる為に必要なの。他人から何を言われようとも止める訳にはいかなかった…。流されて正解だったのよ」

…生きる為に?

『破壊』する事が?

「生きる為に必要だなんて大袈裟に言って、自分がやってる事を正当化しようって魂胆ね。『魔王』とやらは随分な小悪党だわ」

ミリアムの目は表情が読めない。ベクルの煽りに怒るのかと思ったけど、目の中に激しさは今のところ見えていない。たぶんだけど、散々『マギニカ』で同じような事を言われてきたのだろう。今更そんな、心が読める訳ではないけど、言いたい事が分かるような気がする。

「私が『星食み』を名乗ったのには理由があるの。人のみならず、誰しもが何かを食わなければ生きてはいけない…」

ミリルさんから聞いたことがある。目には見えない「びせいぶつ」、という生き物でも何かを食べて生きている、と。私は特に疑問に思う事はなかった。私だってそうなのだから。

「だから私はこの星を食べるの。私が生きる為に、『みんなが作った』この星を」

……?なにか、今の言葉、変なところに感情が込められている気がした。

「みんなが作った…ね。確かに、この星には何万年もの歴史がある。それよりも前から存在してるって聞いたから厳密には人が作った訳ではないけど…」

星の始まりには人がいなかった、くらいにしか私は知らない。でも、そこに引っかかった訳じゃない。

「『みんなが作った』…?」

ミリアムは、とても嬉しそうな顔をしていた。その顔、見たことがある。ようやく理解者が現れたとでも言いたげな、その顔。

「そう!!そして私は、自分だけの星を作るの…。この『シリウス』でね」

きっと、『みんな』が大事という事じゃない。『作った』も違う…。ミリアムだって作った人間の一人だから。

…『誰かが作った』…?

「他人から奪おうとしないで、自分だけ星になれば迷惑もかからないでしょうに」

「ふん…あなたには絶対に分からないわ。私の事なんて」

ベクルはきっと、絶対に分からない。

あなたは…分かってはいけない。

「そういえば思い出したわ。さっきシードって言ってたわね…。その本にも出てるじゃない」

私が持っている本を指さした。やっぱり、この本には『エスト』が…。

「さっき読めないとか言ってなかった?」

「だって読んでるの私じゃないもの。あんたなら読めるんじゃない?『フォーアス』」

私なら…私なら、読めるかも。

さっきも文字が浮かんできたし、本文にはまだ触れていない。

「…読んで、みる」

僅かに不安はあった。もし、目前にいる『魔王の力』の持ち主が『エスト』だったとするのなら。私はあの人がこんな『破壊衝動』を持った人物だと認めたくない。

あの人は、何故か私と近い…違う、何か同じ血が流れている兄妹のような気さえしている。優秀すぎる兄を持っているから、親近感が湧いているだけかもしれないけど。

ページを捲る。一枚、一枚と捲っていくが読めそうな文字はやはり見当たらない。指で一文字づつなぞっていく。でも、さっきみたいな文字が頭に浮かぶ感覚が出てこない。気のせい…?だったのかな。

「…ねぇベック。一つだけ…聞いていい?」

「…何?急に…」

ちょっとだけ、確認したい事があった。それがあったら、何かを合わせられるかも。

「私は…どんな人間に見える?」

流れている血、風、言葉。

それを合わせる事が出来るのなら。

「レスティ…が?う、うーん…」

ベクルはちょっと悩みながら、私の目を見て答えた。

「…『勇者』…かな。私の期待も含んでるけど」



――「…勇者…かな。私の期待も含んでいるけど」

嘘は吐かなかった。こんな時代に『魔法』の存在を信じている男なんてそう形容するしかないだろう。

何より、この男は、何か大きな事をしでかしそうな気がする。だいたいの天才は変人扱いされるものだ。私のような安定を求める凡人には何も成し遂げる事なんてできやしない。

「そうですか…。私にはそんな言葉、相応しくないと思いますが」

「決めるのは君自身ではない。どう生きようが後から上書きされるものだからな」

自分ではこのつもりで生きていようとも、後世の人によって評価というものは後書きされる。どのように自認しているか、何を目指して生きているか、どう行動したかというのは大きな意味をなさない。もちろん、ある程度はそれに沿った評価をされるのだが。

「ここは暑い…。話すなら部屋にいってからにしないか?私としても、仕事現場を確認しておきたいんだ」

「構いません。歩きながら話しましょう」

私は時計を外して、ポケットの中に入れた。

何か硬いモノが落ちたような気がした。

石…?ポケットの中に入れても仕方ないものだが、時計の部品かもしれない。念のために入れておこう。



「なるほど、これがそうか…」

差し出された鉱石を見て頷く。神秘的な輝きを湛えた不思議な石だ…。名前はまだ付いてないらしい。

「まさしく!『魔法』ですよねー!!光る仕組みも解明できてないとか…!!」

調査していた遺跡に、更に最奥があったらしい。『魔法』に関連した場所ではないのだが、明らかに時代を先取りした…オーバーテクノロジーと言われるものがあった場所だ。もしかしたら、という事で更なる調査を依頼していた。

この鉱石は未知の原子を持っていて、何故光っているのかは説明が付けられない。もちろん、解析装置に不備があった可能性は否めない…。精度の高い機械を使えるほど予算が潤沢にある訳ではないからな。

「この奥が…封印されていたという…」

聞いた話でしかないが、行き止まりを片っ端から掘り進んだらしい。無茶な事をしたものだ。一応、それっぽい事は壁に書いてあったと言っていたがどこまで信じたものか…。まぁ結果が出ているのならばよしとしよう。

「確か君は…以前にここを調査した事があったのだったな?」

エストを指さして問いかけた。彼が『魔法』を信じたのには理由があった。まだ子供の頃にこの遺跡の付近で…これを拾ったらしい。肝心の鉱石はどこかに紛失したと言っていたが、彼の話をどこまで信じたものか…。あれほど気の抜けない性格であれば、紛失などしないように思うのだが。

「はい。観光に来ただけなので奥深くまで立ち入る事はしませんでしたが…」

「観光…ねぇ…」

この鉱石は封印された先にあったものだ。それまで、どの場所からも見つからなかった。まぁ、壊したのは確実につい最近になってからなので疑う必要はないのだが…。埋め直されていた、みたいなのも聞いてないしな。深く考える必要はないのかもしれない。

「確か君の論によると…この奥に『魔法』が眠っているのだな?」

エストの論は我々にとって大きなものだった。『魔法』はかつて存在した。それを前提とすると、『魔法』はどこかに眠っているのだ。喪失した訳ではない。もっとも、喪失していたら我々の研究なんてどうにもならないものだからな。

人々は『魔法』の使い方を忘れた。だが、肝心なのは『魔力』の方だ。方法はこの際重要じゃない。使い方というのは時代を経るごとに変わっていくものだからだ。かつては使われていたエネルギーが今は無いというのが一番の問題なのだ。『魔力』さえあれば人々は使い方を思い出す。

失われた、という根拠は無かった。ある日、突然、情報が無くなるのだ。誰かが隠した、というのが正しいだろうというのが彼の言葉だった。何故隠されたのか、そこまでは言及していなかった。そこまで分かる方が怖いというものだが…。

「不確定です。実際にこの目で見て、確かめるまでは」

その通りだ。埃っぽいうえに酸素も薄いくらいの地下だが、ライトとヘルメットを付けて先へ進む事にした。この奥に、何があるのか…。正直、怖さの方が勝っているのだが、進むしかない。


少し進むと、道が幾重にも分岐していた。明らかにいくつかの道は罠だ。どこまでも落ちていきそうな穴が開いていたり、不自然な空洞が横にあったりする。どこを進めば正解なのか…。

「博士。時計を…」

エストに言われてハッとした。そう言えば、そういう改造をしたな。

以前、時計に仕組んだこの鉱石。『魔力』を含んでいるらしいこの鉱石を時計の中に入れたのだ。あの時は適当に入れたのだが、エストに指摘されてから独自の改造を重ねた。小さな衝撃によって『魔力』が発射されているのではないかという考察から、指向性の『魔力』の弾を撃てるように改造してみたのだ。時計の分解を覚えておいて良かった…と思ったものだ。自分の手で弄れなければ信頼性というものが無かった。

もちろん、『魔力』というものは目に見えないし発射した所を確認した訳ではない。動作確認の為に一発、発射した時に標的の空き缶が僅かに揺れたように見えたくらいだ。たったそれだけのテストで信じ切る訳にはいかないが…この場なら幾らでも試せるかもしれない。

ここにはかつて、『魔法』があった。ならば『魔力』によって罠を動かせるのではないか。ここに潜る前に事前にエストと出した一つの案だ。先に動かす事が出来れば、安全に先へ進む事が出来る。

試しに、横に不自然な空洞のある右の道へ時計を向けた。私の予想では、横から鋸や鎌が飛び出してバッサリか?空洞へ照準を合わせる。時計の横にあるスイッチを押せば、『魔力』が発射される。

「カチッ」

「ブオンッ!!」「わっ!?!」

私の予想通り、空洞から何か光るものが飛び出してきた。早すぎて正確には捉えられなかったが…、危険なものである事には間違いがない。思わず声をあげてしまった…。

「どうやら、改造は成功といって差し支えないようですね」

「あ、…ああ!そうだな!」

エストは冷静そのものだが、何故そこまで冷静でいられるんだ…。とりあえず、この先は慎重に進む事が求められるのがよく分かった。こんな仕掛けや罠は映画でしか見たことがないのだが…。

「で、あるならば…。私はあの道が怪しいと思います」

エストは穴が開いた道を指示した。おいおい…本気か?

「怪しいって…通ったら死ぬみたいな意味でか?」

「いえ、あそこが進むべき道なのではないかと」

見えない道でもあるって言いたいのか?『魔法』がかかっているのならそれもアリだが…。君の言う事を全部鵜呑みにしていたら命がいくつあっても足りないのではないか。

「道なき所に道がある…って事か。それなら念のために…」

「必要ありません」

言うが早く、彼は穴の上へ向かって歩き出した。脇の方にか細い道があるにも関わらず、穴へ向かって一直線だ。

「おい!おいおい!!いくらなんでもそれは…!」

エストは穴の上に足を置くと、二回ほど足で…見えない地面を叩いた。音が反響している、確かにそこに地面がある…らしい。

「…まったく…。普通、『魔力』で道が開くとかは考えなかったのか?」

有り得るとしたら、『魔力』を感知して道が出来る、だった。私の考えでしかないのだが。

「封印したのは正しい使用者が現れると信じていたからです。『魔力』無しで奥へ辿り着けなければ意味がない」

君の持論を語るのはいいが、付き合わされるこっちの身にもなってくれ。言葉に出してやりたかったが、全部言うのはやめにした。

「付き合わされるこっちの身にもなってくれ。君が死んだら彼女に顔向けできないだろ?」

何より、彼女は彼の子を身籠っているのだ。父親を目の前で見殺しにしたなんて後から言いたくはない。

「フォウの事なら心配いりません。一人でも生きていけますよ」

そういう事を言ってるんじゃないんだが…。あまり言い過ぎてもよくないだろう。彼がこういう人物だと分かって結ばれているのだろうしな。文句をつけるのはよくない。よくないが…。

「彼女の優しさにつけいっていると碌な目に合わないぞ?それしか取り柄が無いと本人は言っていたが…」

だから、何とかしたい。彼女はよくそう言っていた。優しすぎるのは美しい所だ。本人が損をする、という所を除けばだが。現に出産も近いのにこうして外国まで飛んできている夫がいるのだが…。彼女がエストに対して文句を言っている所を見たことがない。

「言ったでしょう?お互い、利用しているんですよ。彼女だってそうだ」

私にはよく分からない。改心しているのかと思えば、こういう事を言う。彼の二面性は最後まで剥がれる事がない。彼が言うには、彼女は自分の優しさを振るいたいだけで、自分に真の好意はないのだと言っている。要は優しくしたい相手がいるからそうしているだけの自己満足だと言っているのだ。

だとしたら、君は何の目的で利用しているのだと聞きたかったが…。聞いた所で答えてくれないのだろう。その部分は信頼できるものがあった。

しばらく道なりに歩いていくと、壁が立ちふさがった。道中、罠らしいものは無かったが…。不自然な壁はいくつか見た。起動させたら何が起こるかは簡単には予想がつかないが…あえて無視して進んだ。

「壁画…ですね。描かれているのは…『魔王』…でしょうか」

暗い色を纏った一人の人間に、倒れる多くの人々…。俗に言われる『魔王』の姿に近い。ハッキリと人の姿をしている事は若干の驚きがあった。大抵、こういうのは人の姿を捨てているからだ。二本の手と足、頭。しっかりと五体が揃っている。

「この奥に『魔力』が眠っていると?」

「でしょうね…。博士、ここに時計を」

壁画のある部分を指さした。明るい色を纏った、一人の人間がいる。これが俗に言う『勇者』…であるのだろうか。時計で狙いを定めて、スイッチを押す。

「カチッ」

「ゴゴッ、ゴゴゴゴゴゴッ…」

壁が横にスライドしていく。奥へ行けるようになったようだ。

ここで魔力を使わせるのには理由がある。この力で封印し、これを利用すると理解できる人間…或いは生物でなければいけないからだ。鉱石が入口付近にあったのもそれを示唆している。

「…おかしいな」

順調に行き過ぎている。もっとも警戒すべき時だ。

「ですが、退くのですか?」

エストは真っ直ぐにこちらを見つめている。進むのも退くのも勇気が必要だ。今は退く方に傾いてはいるが。

「…君にそう言われてしまうとな…」

私が行かない訳には…。止めても勝手に行ってしまうだろう。ならば、共に行く事で責任を取らなければいけない。

同行している従者はいない。何故ならそこまで人員を割けないからだ。真面目に研究をしているのはこの二人だけだし、遺跡の調査員たちは私たちとは別の部署の人間だ。勝手に使う事はできない。

進まなければ、二人で。どちらかが生き残っていればいいのだから。

「分かった、進もう」

責任は私が取らなければならない。ここまで行こうと提案したのが彼でも、それが仕事だからだ。万が一の時には、彼を生かさなければ…いけないのだが。いざという時に自分は、命を張れるのだろうか…。不安ばかりが心をよぎっている。


少し奥へ進むと、何本もの松明が掲げられた通路に出た。不思議と、今でも燃え盛っている。誰かがここに入った訳ではないのなら、ここが閉じた時からずっと…燃えている事になるな。

手を近づけると、不思議と熱い感覚はない。科学的な炎をよく知るものとしては、火による熱は馴染みがある。確かに、あの感覚がない。もっと近づけられる気がするのだが、下手な火傷はしたくはない…。

まだ歩いていくと、またしても行き止まりにあたった。壁画がある…。何かを切り裂いている人間の絵だ。この何かは…色が多く使われていて、特定が難しい。ただ、人間の方は先ほど見た気がする。この何かを切り裂いているのは、さっきの『魔王』だ。

「…解読、できるか?」

試しにエストに聞いてみる事にした。彼ならば何でも答えをくれるような気がして。

「……恐らく、ですが。『魔王』は『魔力』を殺す事が出来るのです」

エストの論に、『魔力』は生きている、というものがあった。生き物だから様々なエネルギーに変質する。時にそれは火になり、水になり、風になり、雷になる。動力であり、生物。初めて聞いた時には疑いもしたが、そう捉える事も出来ると考えなおしたものだ。

『魔力』は生まれる場所が特定されていない。逆に言えば、どこでも使えていたのだ。似たような力は各所で認められていて、その力自体が枯れたという認識はどこでもされていない。だいたいの場合において無尽蔵のエネルギーなのだ。それが枯れるのは考えにくい。太陽の光はまだ枯れていない、酸素だってまだ空気中にある。それよりも早く枯渇する事は無い、と考えた時に何処かに集められ、眠っているが正しいとされたのだ。

増殖もせず、減衰もせず、ここで眠っている。誰が、何のためにかは不明だ。だが、ここで眠っているからこそ、人々は『魔法』を使えなくなった。現状、使えないのだからこの説を信じるしかなかったのだが、この先に実物があるのなら、それが正しかった、という事になる。

そして、『魔王』は『魔力』を殺せる…。無尽蔵のエネルギーを一方的に排除できる存在がいたとしたら、それは封印の理由になる。例え、それを使ってでも…。

「だから、ここに眠っているのか」

この先に眠っているのは、『魔力』ではなく、正確には『魔王』だ。『魔力』を殺せるイレギュラーであり、自分だけが『魔力』を扱えたのだとしたら、全ての人類から絶対悪だと認められてもおかしくはない。

エストは静かに頷いた。だが…だとしたら、だ。

「…この封印を解くのは、まずいんじゃないか?」

正直に思った。ここに眠っているのは『魔力』だけではない。もし、封印を解いて『魔王』が現れてしまったら。我々には対抗する手段がない。もちろん、科学兵器が通用しないとは思っていないが、最悪の場合は常に想定しておくべきだ。今も生きている…なんて思わないが、何が起こるのかは想像がつかない。

「ですが、我々の仕事は『魔力』を見つける事です」

…そうだ。『魔法』を使えるようにするのが仕事なのだ。今までは実在しなかった、とされるものを使えるようにするのが仕事だ。見つけたのなら、見逃してはならない。ここはゴールなのだ。あと一歩、踏み込めばゴールテープを切れる。

だが…。本当にいいのか?まだ期限には程遠い。時間だけなら幾らでもあるのだ。見つからなかったと言い訳しても許される、甘い職場に私たちはいる。真面目に職務に励む必要なんてどこにもない。むしろ、ここで見つけてしまったら私たちの仕事はそこでおしまいだ。安定を図るのなら、ここで見て見ぬフリをして、帰った方が遥かにいい。

「エスト…。一度、帰ろう。何だか、嫌な予感がするんだ」

これは…言い訳ではない。むしろ、さっきまでの方が言い訳だ。背筋に何かが走っている。我々は、その先をまたいではならない。直感がそう告げている。霊感だとか、そういったものに優れていない私でも感じるのだ。エストにはもっと強く感じているのではないか、そう思ったが彼は何食わぬ顔で私を見つめていた。

「帰る…?ここまで来たのに、ですか?」

「ああ。だからこそ、だ。君に…、君に…」

口に出そうとした言葉は、「君にもしもの事があったら」、だった。彼女に申し訳がないと言いたかった。

頭に浮かんだ言葉は、「君にこの先を行かせたら」、だった。何が起こるのか、分からない。

「……分かりました。博士がそう言うのなら、指示に従います」

「…悪いな。勇気のない男で。もっと、資料を集めてから…そうしよう」

現存する資料に、この場所の記載は無かった。だから、現地に出向いてこうして調査しているのだ。完全に言い訳だった。これ以上、先に進みたくないから。適当な言葉を当てはめて紡いだのだ。

帰る時、エストは何も文句を言わなかった。いつものポーカーフェイスで、私の後を付いて歩いた。それを見てしまうと、申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、これが正しいのだと思うしかなかった。


遺跡から出ると、エストの携帯が鳴った。私は立ち聞きしないように静かに距離を取った。

「…どうした?……産まれる…?」

どうやら、彼女の予定日が少し早まったようだ。撤退して尚更良かった。

ちらりと彼の顔を見た時、僅かに無表情だった顔の端がほころんだ気がした。

…そうか、彼も少しは変わったのだな。

私も自分の家に電話するか。そう思って自分の携帯を取り出した。

「…もしもし?俺だ。テイル」

「父さん?どうしたの?…まさか!見つかったの!?」

久々に聞く息子の声は、一段と低くなったような気がした。弾んだ声だが、確かに歳を重ねた落ち着きがある。

「ああ。それっぽいの…だけどな。母さんは?」

「大丈夫だよ!すぐ傍にいる!『魔法』見つかったって!!」

「またまた…」

電話越しに小さく聞こえる妻の声に、呆れが多分に入っていたのは仕方のない事だろう。息子にほら自慢をする旦那…あながち嘘でもないが。

「本当に見つけるなんて!すごい!!ちゃんと見せてよ?」

「ああ…使えるようになったら、真っ先に見せるよ…」

私が使える…とは到底思えないが、約束だけはしておこう。反故にしてしまうのを避けたいからな。使えるようになるとしたら、一番最初に…。

「……ちょっと、母さんに変わってくれないか?」

私は頭の中に一瞬、嫌な予感がよぎっていた。一番最初に…、か。

「なに?どうしたの?」

「いや…、大した事では…ない…かも…しれないんだが」

次々に嫌な映像が頭に浮かぶ。避けたい、それだけは、避けたい。

「俺の付き合いのある…ほら、フォーアスくんの嫁さん。彼女はまだ若いからさ」

言い訳を先に口にしてしまう。最悪を想定しているにも関わらず。

「子供がもう産まれる…らしいから、家に行って面倒みてやったり…してくれないか?彼女も彼も、頼れる年長者がいないらしいんだ」

「えぇ?別に…いいけど…。私に頼む事?」

嘘は吐いていない。確か、お互い孤児施設の出で親戚というものがほとんどいないのだ。エストは才能だけで今の場所に行けるくらいに恵まれたが、彼女は目立った才能が無く、辛い生活を過ごしていたらしい。エストが容姿、才能に恵まれているからこそ、比較されるような差別も受けていたらしい。頼れる年長者がいない、というのは間違いなく本当の事なのだ。

「頼れるのは…君しかいない。その、言いにくいんだが…」


――「言いにくいんだが、危険を感じたら…逃げてくれ」


――思わず、本を落とした感覚で目が覚めた。すぐさまベクルが私を抱きかかえて支えてくれた。

「大丈夫!?レスティ!!」

一回、二回。無言で頷いた。最後のは…何だろう?『記憶』を読んだ所で、その人が考えている奥深くまでは察する事が出来ない。思考全部を読み取れる訳ではない…。

博士は、何を考えていたのだろう?途中までは、何か納得できるような気がした。子供が生まれるから、年長者に面倒を見て貰うのは私だってそうだった。お母さんが忙しかった時はたくさんの人にかまってもらった。ただ…危険を感じたら、逃げてくれ…?何を懸念していたのか、読む事は出来なかった。

「…見たの?まさか、あんた…」

ミリアムは私を驚きの目で見ていた。…いや、違う。彼女の目は、違う。

…彼の、目だ。

「…『エスト・フォーアス』。きっと、あなたが…」

『魔王』。あの状況からどう動いたのかは想像がつかないが、博士が『魔王』になる事は考えられない。あれほど恐れていたのだ。その時感じていた不安が今でも私の胸の中に小さくヒリヒリしている。あの先に進む事を、私が『滅竜』に抱いていた恐怖と同じくらい怖がっていた。だとしたら、博士はあの先へは行かなかったのだ。

ミリアムは名前を聞いた後、首を振った。

「…違う!それは…私の名前じゃ…ない…!」

頭に手を当てて、どこか痛がっている。彼は、『エスト・フォーアス』のはずだ。自分の名前を、忘れたとでもいうのだろうか。

「あなたには『破壊衝動』がある…。それは、『エスト』にもあった!」

「だから…惹かれた?もしかして、ミリルさんが言ってたのは…」

『破壊衝動』はきっと、『エスト』から取り出されたものに違いない。ついさっきまで否定したかったものが、何故か今になってすんなり入ってくる。それはきっと、博士が感じたものが無意識に私にも入っているから。

あの時、博士は疑っていた。『エスト』を途中まで信じていたのに、ある一瞬から疑いを強めた。上手く行き過ぎている事象と、彼の性格を鑑みて判断したのだろう。

一番大事な部分が読み取れなかった。一番最初に、と思った時に…何かを恐れていたのは感じたんだ。まるで、それを壊されてしまう事を…予想していたかのような…。

「あはははっ!!あんたたちも適当な事言ってるわ!私のは、ただ壊したいだけじゃない!!」

ただ…壊したいだけじゃない…?

そうだ、ミリルさんは言っていた。他人が積み上げた積み木、修復中の遺物、それらは…彼女が作ったものじゃない。

「どいつもこいつも!分かったような口を聞いて!!私を否定する!!私を…!勝手に何かに当てはめる!!」

「知らなければそうなるでしょう!?」

「言ったわ!!何度も!!その度に理解されなかった!!」

分かる…私には…理解ができてしまう。

血が流れてるから…?同じ血が…。

違う、ついさっき、博士の『記憶』を読んだから…。

そうに、違いない。

「他人の…」


――「『他人の作ったものを破壊しないと…自分が証明できない…』」


ミリアムは驚いた顔で私を見ていた。分かる訳がない、そう思いきっていた顔だ。

自分が作ったものではダメ。自然に出来たものでもダメ。誰かが、『他人が作ったもの』でないと『破壊』する意味が、彼女の中では無いのだ。

究極の善は『自己犠牲』だ。それならば、究極の悪は『他者破壊』になる。正義はいくらでも独りよがりになれる。最悪、一人だけになっても正義というのは信じられるのだ。自分を犠牲にする事で正義は守る事が出来る。

だが、悪は誰かに依存している。誰かがいなければそれは悪にならない。どんな殺戮であっても、略奪であっても、破壊であっても。誰かが悪と認めなければそれは悪ではない。そして、それは。誰かがいないと成立しない。

「違う誰かを…いや、誰かから壊さないと…。自分が存在している気になれない…」

ただの積み木を蹴散らしても意味は無い。誰かが積み上げた積み木だからこそ意味がある。それを壊せるのは、その場にいた、その人しかいない。そこには誰かと自分がいて、自分が壊す事で自分の存在が証明できるのだ。誰かから奪う事で、安心できる。

積み上げる事は証明にはならない。誰かが後から積む事も出来るから。

『破壊』は自分にしか出来ない。積み上げた人は壊さないから。

壊す事で安心する。自分はここにいたのだと。名前がここに残る。

後から何度積み上げようとも、その度に壊す事で、ずっと名前を残せる。

だから、積み木を…壊したい…。

「あなた…。本当に…『フォーアス』?」

自分でも、何を言っているのか分からない。でも、感覚が。頭の中で騒いで五月蠅いのだ。まるで、遥か昔には自分がそうだったかのように。

「おかしい…!今までの『フォーアス』に、理解できる人物なんて一人もいなかった!!どういう事だ…!?」

「…私にも分からない…けど。レスティが言う事なら、私は信じるよ」

ベクルは私の震える手を握ってくれた。信じてくれる、私を…こんな私を。

「違う…!!違うちがう!!お前は…『フォーアス』じゃない!!」

――一瞬、殺意を感じた。


「ベック!!右!!」

私の言葉が終わるよりも早く、ベクルの『フラムベルク』は私の右へ向かって突き出された。

小さく、何かが弾ける。思わず後ろに後ずさったけど、衝撃はそれくらいで済んだみたい。

「…っ?!位置が分かるのか!?そんなはずはない…!!」

原理は恐らく、発動しようとしている『魔法』の位置に無理矢理に剣を差し込んだ事による不発だ。私は位置が分かってもその位置に剣を差す事はどう頑張っても出来ない。ベクルなら、合図を送った瞬間に反応してくれる。如何に発動が早く、位置が不特定でも私と彼女なら絶対に防げる自信がある。

「連続は出来ないって話だったよね!?」

ベクルは『魔法』が不発に終わったのを確認すると、素早くミリアムの前まで踏み込んだ。『魔導式』を書こうとしているが、書き終わるよりも、ベクルの剣が届く方が圧倒的に早い。

「っ…!!」

「…殺しは許可されてない。言葉が通じるならお話してもいいけど…?」

そう、私たちは彼女たちを殺しに来た訳ではない。ただ、止めにきただけだ。

首のすぐ前に突き出された『フラムベルク』は少し前に動かすだけで喉を貫ける距離にあった。ミリアムの手は否が応でも止まった。気づかれずに書き続けるか、突かれるよりも早く書ければ反撃が出来る。直感でそのどちらも不可能だと分かっているから手を止めたのだ。

「許可…?許可が無いと何もできないの?」

「…言葉を変えるわ。個人的に、やりたくないの」

それこそ、許可が無いと。人殺しなんてやりたい人の方がいない。

「お話…ね。話す事なんて何も無いわ」

「その減らず口を喋れないようにするだけならやってもいいけど?」

ベクルは僅かに剣を前に出した。喉元に切っ先が触れる。彼女の腕なら喉を一瞬の内に正確に裂く事は難しい事じゃない。そんな事をしたら死にはしないかと不安にもなるけれど、確実に出来る、と相手に思わせるのは悪い事ではないはずだ。

「そもそも、なんで『シリウス』を蘇らせるの?ここじゃなくったっていいじゃない」

暮らすだけなら、他にも新天地の候補はいくらでもある。『シリウス』に固執する理由が見つからない。もちろん、今はここでしか生きられないというのは分かるが『マギニカ』を追い出されただけで『カントリーヒル』で大人しくしていればあそこでだって受け入れられる土壌はある。

異常な癖を無くせれば、の話ではあるけれど。

「…分かるのよ。私はどこでも受け容れられる事なんてない。誰かを『壊さないと』自分が生きている気がしないのだから」

「自分の悪癖を理解しているのは良い事だわ。我慢すればいい、とだけ言うつもりもない。ただ、違う事に活かそうとは思わないの?」

ミリアムは笑った。滑稽な話だと思ったのだろう。

「活かす…?他人の為に?私は他人の為に動けないの!!だって…!誰かが作ったものじゃないとダメなんだもの!!壊していいものを壊してもダメ!!自然に生まれたものを壊してもダメ!!誰かが作って…『壊されない』と思ってるものを『壊さないと』…!!」

自分の中では当たり前だと思ってるからこそ叫んでいるのだろう。理解してはいけないが、理解しようと思わなければならない。

彼女にはここで止まって貰わなければならない。それ以上、先に行かれてしまったら止めようがないからだ。命のやり取りだけは絶対に避けたい。そうなったら、兄さんがやらなければいけなくなってしまうから。

「それをやりたいのは貴女じゃない…。貴女の中にいる…」

『エスト・フォーアス』だ。そう言いたい。でも、どこかで言いきりたくない。

「…レスティ。一つ、提案があるわ」

ベクルはこちらを見ずに言葉を発した。絶対にミリアムから視線を外さない、という考えが顔を見なくとも伝わるくらい。

「『勇気』は確か、対象の全ての生命活動を停止させる…だったよね?もしかして、中にいる『魔王』っぽい何かを殺せるんじゃないの?」

「勇気…?」

『勇気』は原因不明の『現象』だ。発動すると、どう相手へ向かい相手を認識するのかは分からないが、ベクルの言う通り、対象になった相手の全ての生命活動が一瞬だけ停止する…らしい。使われた方は気迫に押されたのだと理解するしかないので『勇者の気迫』という事で『勇気』…だと聞いた。

理屈だけ聞けば、ミリアムの中にいるであろう『魔王』にも有効なはずである。例外はないと伝え聞いてはいるけれど、やってみなければ分からない。何より、私には起こせる才能がある。

「そんなもので、私に勝てるとでも…?」

ミリアムは自信たっぷりの表情で笑みを浮かべた。この自信は…。

「もしかして…知らない?」

さっきから、ちょっとだけ疑問に思っていた事。この人は、『勇気』がどういう『現象』なのか知らないんじゃないか…?

『魔王』の『記憶』を持っているのなら、『勇気』について知っていないとおかしい。それによって何度も敗北してきた歴史が確かに残っているのだから。『フォーアス』について過剰に怖がらないのも不思議だった。負けてきたはずだ、何度も、何度も。歴史が間違っていたのなら、説明はつくけれど、他の事でも説明できる気がした。

この人は、『魔王』は本当に『勇気』について知らないんだ。何で自分が負けたのか、何であの時、体が動かなかったのか、ずっと分からないまま今も生きているんじゃないか。『勇者』と対峙して、振り上げた剣が煌めいて、光の眩しさに目を取られて負けたと…本気で思っているんじゃないだろうか。

何故なら、そういう『現象』だから。実際に見た…起こした私が言える。やられた相手は光を浴びた後、次の行動を起こそうとしなかった。事前に何かをやろうと考えていたのなら、次にそれをしようとするものだけど。例えば「噛みつこう」とした魔物は「自分が今まで口を開けていた事」を疑問に思うかのようにゆっくりと口を閉じようとしていた。光を浴びた瞬間、それまでの『記憶』、身体に保存されていた実行しようとしている『行動』、流れている全てが一瞬停止するだけで完全な無力化を起こせるのだ。

「勇気だけで何とかなると思ったら大間違いよ…?私を止めたいのなら、さっさと殺してみなさい!!」

『魔王』は『勇気』を知らない。これはこの上ない絶好の機会だ。

でも…。今まで起こせたのは…。

「自由に起こせる…訳じゃないよ…?」

私は思わず、不安を漏らした。やろうと思って成功した事は無いのだ。『現象』はあくまで『現象』。条件が完全に揃えば成立するのであろうが、完全に成功する条件は今に至っても不明なままなのだ。

高品質な武器、光の『魔力』、起こせる才能を持つ人。この三つが最低条件らしい事までは分かっているが、それがそれぞれどの程度までなのかは不明のままだ。

武器はどれくらい強ければいいのか、『魔力』はどれくらいあればいいのか、才能とは…本当にあるものなのか。ミリルさんの話では複数回起こせる人は限られているから才能以外に片づけられる言葉が無いと言っていた。一回だけ、起こせた人はいくらでも記録にあるが何度も起こした人は数えられるほどしかいないと。

奇しくも、私は二回は起こした事がある。その点に関しては他人から言わせたら疑ってはいけないのだろうけど…。状況証拠からして私は間違いなく、出来る側の人間だ。

「へぇ…?何か秘策があるワケ?」

ミリアムは相変わらず強気だ。

…強気…過ぎる気がする。


「……っ!!」


ベクルは何かに気づいたように後ずさって私の傍に駆け寄った。

「…連続で使えないって言っても、こいつがいつ、再使用できるのか…私たちには分からない…!」

『キャストキャンセル』は連続では使えない。ミリルさんの言葉でもあるし、実際に使わなかったからそれは信じられる。ただ、それならどれだけの時間の猶予があれば再使用できるのか、私たちにその情報は一切ない。きっと、記録にすら残っていないだろう。

残っていれば…ミリルさんが教えてくれたはずだから。

「そうそう。『フォーアス』が大事ならそうやって傍にピッタリいた方がいいよ?いつ壊れちゃうか分かんないんだから…」

私が感知できるのはどうしても使った時になってしまう。感知した所で、私に防ぐ手段はない。ベクルほどの剣の腕…速さと正確さが無ければ防げない。

「主導権は最初から私にあるの…!分かったらさっさと何処かへ行くことね」

「待って…っ!!一つだけ教えて…!!」

私には、どうしても聞きたい事がある。一つだけ、一つだけでいい。

あなたには…貴方にどうしても、聞きたい事が。

「貴方は…自分の名前が『フォーアス』だと…思っているの?」

ミリアムは質問の意図が分からないといった顔で私を見つめた。まだ、自分の名前を憶えているのなら。貴方の名前は『フォーアス』でいい。もし、忘れてしまっているのなら。

「さぁ…?なんだかしっくり来るけど。『フォーアス』でいいんじゃない?」

…きっと、憶えてないんだ。

ミリアムは答えた後、ツカツカと奥へ歩を進めた。私はそれを、すぐに追う事は出来なかった。

「どうする?レスティ。ノーエルたちの合流を待つって手もあるけど」

兄さんが傍にいれば、少なくとも私の無事は保証される。何なら、ベクルが私を護って兄さんが戦えば勝利は絶対だ。それが一番安全で…確実だ。

危険な道にわざわざ挑む必要はない…。無理に追いかけて、刺激してしまうのも良くない事だろう。彼女の中には『魔王』がいる。どんな一言が逆鱗に触れてしまうのか分からないのだ。

それを深く知るには…。やはり…『エスト・フォーアス』について知らなければならない…。

私はもう一度、本を手に取って開いた。まだ…ページは残されている。

「その本…。まだ何か読み取れる事でもあるの?」

ベクルには私の感覚、どこまで読み取ったのかは分からない。当然だ、あの『記憶』を見られたのは私しかいない。

だからこそ、言える事がある。

「分からない…。ただ、あの後があるのは…間違いないと思うの…」

終わった部分は、思い返してみれば何でもない部分。友人の妻が出産するから、経験済みの自分の妻に気にかけてやってくれと言っただけの事。その何でもない部分がどうにも気にかかる。

何故、あそこで切れたのか。私は自分で切った覚えがない。ビックリして、落とした感覚がない。あそこで区切られるべきだから私はそこまでしか読めなかったのだ。きっと、この本を書いた人が区切ったのだ。

ここが転換点であると、この電話で…何かが変わると判断したのだろう。あの一言はとても大事な部分だったんだ。

「…分かった。私は見守る事しか出来ないけど…。ノーエルが途中で来たらここで待って貰うようにするわ」

私は本のページを一つ、めくった。相変わらず分からない言語で書かれている事だけしか分からないけれど。目に入る情報を頼りにするのではなく、頭に浮かぶ景色に集中しなければならない。そうすれば、どこまでもこの本の中に入っていけるから。

「…レスティ、大丈夫?」

ベクルは私の顔を覗き込むようにして姿勢を低くした。彼女の方が身長が高いのだから当たり前なのだけれど。

「…?どうしたの?」

私には心配される意味が分からなかった。聞き方がまるで、どこか遠くに行く人へ向けたかのような言い方だったから。

「いや…何でもない」

もう少し、深く。深く入らなければその先へは行けない。

自分の血を、どこまでも遡る為に、この体に流れてる全てに神経を注がなければ。

ページは、めくれない。



――「…?どうしたの?随分物騒な言い方ね…?」

頭の中によぎった『可能性』。私は彼を信じなければいけない立場にあるにも関わらず、信じ切れていない。彼が悪い訳ではない、私が悪いのだ。そう思わなければおかしいくらいなのだけど。

「命の危険を感じたら…逃げてくれって意味で…。いや、おかしいな…」

言葉の終わりにちょっとだけ笑って誤魔化した。そんな事があるワケがないのに。どうしても捨てきれないでいる『可能性』。何も無ければ、何も無いで済むはずなのだが。今は、彼女に会っておきたい。

妻ではなく、彼女に。

「とにかく、何か違和感があったら相談してくれ…。で、いいかな…?」

「貴方が言ったんでしょう?変な人…」

こんな事は本来、許されるべきではない。だが、『可能性』を少しでも潰す為には必要な事なのだ。保険は使われないに限る…が…。

電話を切ったあと、振り返ると彼が歩いてきていた。彼の電話も終わったようだ。

「一度、帰るかい?子供の顔くらい見ておきたいだろう」

調査にこれ以上の時間をかけるのは無意味だ。時間的猶予なら幾らでもある。安全だと分かってからあの奥へは押し入るべきだと暗に示した。

「そうですね…。また写真、撮りたがるでしょうし」

思い出すのは結婚報告のあの写真だ。最初はもう子供が出来たのかと思ったが、どうやら違ったらしい。式を挙げるのを嫌った彼は、ツーショットすら嫌がったのだという。なら子供が産まれてから、という彼女の提案の元に、試しに施設に入ったばかりの捨てられた赤子と一緒のスリーショットなら彼は呑んだのだという。名前はなんだったかな…トラ…なんとか…だった気がする。写真に名前が映ってたはずだが。

私の元に送られた写真は、誰なのかも分からない名も無き赤子が映っていた訳だが…事情に理解のある知り合いも何も、私にしか送られてないのが唯一の救いか。彼ら共通の知り合いは私しかいないし、報告するほど親密なのも私だけだ。

ここまで徹底しているのは、エストが人を嫌っている所にある。他人に対して心を開かないというか…。攻撃的ではないのだが、自分のスペースを絶対に譲らないという頑なな部分がある。彼女は彼に合わせて人付き合いを減らしているのだ。…その結果、下手な部分があるのは仕方ない所だが。

「結婚したのなら、少しくらい相手のわがままも聞いてあげるものさ。喧嘩するくらいが丁度いいとも言うし」

「…喧嘩はした事がないですね」

まったく感情のない答え方で答えてくれた。彼の中で喧嘩と捉えられるものは一切なかったのだろう。だろうな、とは思ったけれど。

「そういえば…先ほどの電話は?奥様へですか?」

探ってきた。一瞬、そう感じた。

「息子へだったんだが、丁度良く妻がいてね。初めての出産だと辛い事や分からない事が多いだろうから…」

男の私が分かった風な口をきくのはよくない事なのだが、彼女は頼れる人が少ない。私からの紹介なら信じてくれるだろうし、妻も頼れる人だと分かっているからこそ託した部分がある。専門の知識がある訳ではないのだが…経験がある人が傍にいるだけでも安心するものはあるだろう。

「お心遣い、ありがとうございます。ですが、負担になるような事は…」

「はははっ…。上司としてではなく、友人として、力になれないか考えただけだよ。実際に力になるのは妻のほうだがね」

私がしたのは紹介だけで、大した役には立っていない。負担になるのは妻の方だからだ。だからこそ、一言付け加えたのだ。逃げてくれ、と。多く語り過ぎるのは逆に、妻に疑いを持たせてしまう。賢いあの人なら、分かってくれる…とは思うのだが。

「調査は一旦…中止にするべきなのでしょうね」

エストが彼らしくない事を言い出した。警戒…する必要なんてないのだが。

「あれ以上、奥深くへ行くのはよくない…。直感だが、良くない予感がするんだ」

私が感じた予感を素直に吐き出した。あの奥へは行ってはいけない気がする。壁を隔ててもなお、自分の心臓を握られているかのような、冷えた感覚を今でも思い出せてしまう。

自分は、死ぬのだ。

圧倒的な力の前に。

絶対に逆らえない、本能が。

「…博士がそこまで怖がるのなら、本物なのでしょう」

…思い出しただけで、それを見られただけで怖がっていると思われてしまうのか。顔に出すほど恐れていたつもりはない。他人の前ではちゃんとした顔でいられるようにキリリとしている…はずだ。ましてや部下の前ではな…。

「怖がった…つもりは、ないが…。そう言われるほど臆病に見えてしまうのなら、何かがある…と思うな」

「第六感…というやつですか?」

言葉で表すのなら、そうとしか言いようがないが…。私は一応、頷いてから歩き出した。早めに、この場所から立ち去りたかったから。

「『魔法』なんてものを研究しているのだから、原始的なセンスに頼るのは悪くない事じゃないか」

昔は使えたものなのだ。センスは昔のものに頼らなくては。

冗談めかして言ったが、半分は本気で言葉にした。

「なるほど…納得できる答えです。私も同じものを感じていたら同じ意見を出すでしょう」

「……待て。君は…感じなかったのか?悪寒というか…」

エストならそういう悪寒も無視して先に進むような危うさがあった。だから進もうとする事に違和感を覚えなかったのだが…。

「寒気のようなものは感じましたが…そこまで怖がるものでしょうか」

元々ポーカーフェイスな所があるせいか、彼の感情は目からでは読み取れない。彼は、あの鉱石を幼い時からずっと持っていたのだという。だとしたら、長い間『魔力』に触れていた貴重な人間なのではないか。『魔力』が発する恐れのようなものを、彼が感じにくいのだとしたら。

「私は…臆病な所があるからな。勇気からは程遠い男だよ」

小さい頃は勇者に憧れたものだ。手頃な木の棒を手に色んな場所を冒険して回った。時には他人を巻き込み、時にはたった一人で危険な場所に足を踏み入れた。非日常を求めるのは子供として正常な機能である。手痛い思いをして、失敗を恐れるようになるのも、子供らしい事だった。

「そんな事はありませんよ。でなければ、私と一緒にいるはずがない」

自分でそれを言ってしまうのか…。確かに、エストと一緒にいるのは勇気のいる事だ。

「ははは…。まぁ、久々の収穫だ。研究室に籠ってるしかしてない同僚たちに向けて凱旋でもしようじゃないか」

私とエストの他に、同僚と呼べる人員は十人ほどいた。だが、私たちにしている事から目を背けて、今支払われている給料が下がらない事を祈るだけの仕事をしている。同僚に対して悪口を言うのも気が引けるが…、せめて今回の調査にはついてきて欲しかったものだ。調査キャンプで待つだけの仕事でも良かったのに、同行する者は一人もいなかった。最初に手を挙げたここにいる二人だけ、本気で魔法を信じているのはこの二人だけなのだ。まぁ…正常な判断だと思うが。

「これを見せた所で、喜んでくれると思いますか?」

エストは鉱石を手でもてあそびながら私に見せた。

私は首を振って、この話を終わりにした。


「やぁ、久々だね。えーっと…今は、フォウ・フォーアスか」

久々に会った彼女はだいぶはつらつとしていた。元気そうな顔をあまり見たことが無かったからかな…。元々はこれくらい明るいのだろう。

「お久しぶりです!シード博士…!」

今度は本当の赤ん坊だ。いや、赤ん坊自体はアレも本物なのだが…。両親の面影は…僅かに父親似かな?性別も聞いてなかったな。

「奥様もお忙しいのに面倒を見てくださって…何と言えばいいのか…」

声色から本当に嬉しそうなのが伝わってくる。本当に欲しかったものを手に入れた人の声だ。子供は愛の結晶とも言うが、彼からそれを引き出すのはさぞ難儀した事だろうな…。愛という言葉からはかけ離れた人格をして…、と。心の中とはいえ、妻の前で夫を侮辱するのは良くないな。

「私からかけあった事とはいえ、礼なら妻の方に…」

「もうしました!!それはもう何度も!!」

げ…元気なのは結構なことだ。産後もこれだけ有り余っているのも妻のケアのお陰なのだろうな。

「大変だったのよー?そりゃあもう!頭下げたまま全然動かなくって…」

そっちに苦労したのか…。つくづく、エストに惹かれたのが不思議になるくらいの人の良さだ。

「…赤ん坊って、こんな感じなんだ…」

テイルがじっくりと距離をとって観察している。もうちょっと近づいてもいいのだが、あえて助言はしないことにした。弟や妹を作らなかったから、彼からしたら初めて生で見る赤ちゃんだ。

「…エストは?」

「ああ、あの人は騒がしいのは嫌いなので…」

だろうな、とは思ったが。家族ぐるみで付き合おうというのに、こんな機会でも無ければテイルと顔を合わせる事もないだろう。

テイルは不思議と、私にも妻にも似なかった。隔世遺伝…とも言うべきか、私の父の面影を宿している。父は早世したから写真でしか見たことが無かったのだが、産まれてからすぐ、顔を合わせた時に何故か父の顔を思い出したのをよく覚えている。だから、もしテイルと街で鉢合わせた時に私の息子と気づかないだろう。そう思ったのだが…。余計なお節介か。

「パンを焼いたんです。奥にあるので好きなだけ取っていってください」

言われてから、嗅覚に香ばしい匂いを感じた。彼女が手を伸ばした場所には文字通りパンの山が築かれていた。傍には彼女の趣味なのか、彼が弾くのか、ピアノが見えた。

妻がテイルを手で何かジェスチャーすると、二人でパンの山へ向かって歩き出した。

「エストの好物か。有難く頂いていくとしよう」

彼がパン以外のものを食べていた所を見たことがない。それくらい、パンが好物なのだ。牛乳と並んで、彼を象徴する食べ物である。

「…えっと…。パンは私の好物…なんです…」

彼女が照れくさそうにしながら言った。…そうか、いつも持っていたパンは君が持たせたものだったのか。

「文句言わないからって…色々持たせちゃって…。ダメなのは分かってるんですけど…」

彼が文句を言わずに持って行く姿も想像できる。大方、面倒だからか食料を貰えるのならで必要を感じなかったのだろう。無償の好意というのを無碍にする…ような男ではないと思いたい。嫌々ではなかったはずだから…。

「嫌がってました…?きっと…そうですよね…」

「あ、いや…。いつも美味しそうに…」

自分で言ってて矛盾に気づく。彼が美味しそうに物を食べるものか。

「…買い食い…というか…。私の奢り以外でパン以外の物を食べてる姿は見てない…はずだな。うん…」

少し言葉が変になってしまったが、取り繕う事は出来た。はずだ。

テイルと妻はパンの方に夢中だ。時折、妻がこちらの様子をうかがっている気がするが、気にしない事にした。

「本当ですか?どこかで捨てられてるんじゃないかって思うと…ちょっと怖くて」

彼女が不安に思うのも仕方がない。彼の悪癖について理解があるからこそ、不安になるものだろう。

「…他人が作ったものを、壊さずにはいられない…か…」

最初に聞いた時は驚いたものだ。彼自身は見た目も相まって好青年だと思っていた。ちょっと気難しさは感じていたが、そんなのは若人には付き物だ。一つや二つ、他人とは違う、理解が難しいものを心に抱きながら生きていくのが若者だ。私がそうだったから、ではなく。全ての人がそうだったから、と言い切ってもいい。全てにおいて平均、中庸の人間などいない。常識というものは誰かが作った平均点であり、整数では割り切れない数であり、小数点の点数を取る学生はいない。ちょうど、ぴったり真ん中にハマる人格は作り上げられた幻想でなければならない。私の中の哲学でもある。

だからこそ、彼の悪癖には理解に苦しんだ。彼女の…見てきた話によると、エストは小さい頃から他人が積み上げた積み木を壊す癖のようなものがあった。壊す度に施設の先生方は「自分で積み上げたものならいくらでも壊していいから」と説得を試みたが、彼はそれに対して無言で首を振り続けた。本来なら、「壊していいから」に疑問を抱くべきである。積み木とは積み上げる事に意味があるのに、壊す事を容認したのだ。彼はその上で、自分がやる、という事に無意味だと反応したのだ。先生たちはさぞ苦労した事だろう。逆説的に言えば、彼は一人で遊べないのだ。自分一人で積み木を積み上げる事に楽しさを見出せない。なのに、他人が積み上げた積み木は壊さなければならない。施設側も流石に問題だと判断し、カウンセリングを試みたが結果は「正常」の診断が下されるだけだった。心が壊れてるから壊したくなっている訳ではない。正常なのに壊したくなっているのだ。

そんな彼に歩み寄ったのが彼女だ。誰も遊びたがらない彼は必然的に一人になるが、目の前で積み木を積み上げて壊させたのだという。何回も、いや、何年も同じやり取りをさせている内に彼女は傍にいてもいい、という判定が下されたらしい。施設側もぴったりの遊び相手が見つかった事に安堵して何も言わなくなり、いつしか彼がそんな悪癖を持っている、という事があやふやになって忘れ去られた…というのが彼女の持論だ。実際、今も破壊衝動を見せた所は一回もない。私はその話を聞くまでは…いや、聞いても尚、彼女の方を疑ったくらいだ。そんな素振りはまったくといっていいほどなかった。

「もう大丈夫だって分かってるんですけど…。信じられるのは私しかいないって…分かっているんですけど…」

先ほどまでの元気さがあっさりと萎れてしまった。エストの問題ではあるが、同僚であり上司でもある自分から、励ましの言葉の一つや二つはかけるべきだろう。

「エストなら大丈夫さ。私の言う事もよく聞くし、有能な…私の相棒さ」

思っている事をそのまま伝えた。奥深くに抱いているものは、しっかりと隠して。

「そうですよね…!あっ!私!パン届けに行ってきます!!」

彼女は赤ん坊をベッドに寝かせると、小走り気味にパンの山へ向かった。

「それくらいなら私たちでも…」

「い、いえっ…。部屋に鍵をかけてて…たぶん、私じゃないと入れてくれないと思います」

だろうな、とは思ったが声には出さず車のキーを取り出す事で「帰ろう」のジェスチャーにした。

「そうね…。そろそろ時間も時間だし、帰りましょう!」

「えっ!もう?まだこの子の名前も聞いてないのに…」

「後で教えてやるさ。帰ったら自分の産まれた時の写真でも見るといい。結構似てるぞ?」

半分は冗談で言ったが、口にしてから似ているかもしれない、とは思った。確かに別人なのだが、何かが同じ様な…。言葉で上手く言い表せないが、感じた事を口にしたのは確かだ。

「そうかな?だとしたら、俺がアニキか…へへ」

「なぁに?兄弟が欲しかった?お父さんがもう少し頼りがいがあればねぇ…」

そういう事情で作らなかった訳ではないのだが…。金銭面で考えてたら時期を逃した、が正しいような…。ともかく、テイル一人を育てるので手一杯だったのは間違いがない。私にもっと余裕があれば良かった…のだろうな。

「悪かったよ」

顔を伏せながら扉を開く。車ならすぐ目の前に停めてある。駐車スペースが近い家というのは良いものだ。運転するのは彼女の仕事らしいが。

車に乗り込んだ後、シートベルトを締める前にバックミラーを覗く。窓からこぼれる光が見える…。というか、光くらいしか見えないな。私はなんとなく後ろを向いた。

…彼女がパンを持って行こうとした時、僅かに上を向いたのを覚えている。という事は二階に彼の部屋があるのだろう。当然、彼がいるのなら光が漏れている…はずなのだが。

暗い。夜だから、というのもあるが暗すぎる。作業する時にわざわざ闇夜を好むような人ではない。もしかして、いないのではないか?私が来た時には彼女一人だった。だが、彼女はまるで彼がいるかのように取り繕っていたが…。

「なぁ…。明日…明日は…」

言葉が上手く出なかった。予想していた最悪があるのではないかと頭によぎって。

「何?明日?明日も暇だからフォウさんのお手伝いしてもいいけど…」

「いや…違うんだ。明日は…大丈夫かもしれないな…って」

自分でかけようとした保険だろう。なのに今更、そうは思うが。

「…車、出していいよ」

シートベルトを締めてから、テイルが乗っているのを確認して発進した。

ヘッドライトが明るく照らしてくれるが、だからこそ、夜の闇が際立って見える。私は、正しい事をしようとしていたのだろうか…。

「もしかして…あれの事?」

テイルの方を僅かに伺いながら、話しかけてきた。きっと、あれとは「危険を感じたら逃げてくれ」という私の一言の事だろう。

「ああ…。その…、真剣に考えないでくれ。冗談のつもりで言ったんだ」

深く考えないでほしい。それ以上、察しないでいて欲しいと思った。

「冗談にしては穏やかじゃないよね。何か考えがあるのなら言って欲しいな」

…それもそうだ。あの発想に至った時点で、自分は狂気に片足を入れていたのだ。

「…例えば、例えばの話になる。彼女、ちょっとエストを信じすぎてやいないかって思う時があるんだ」

二人は愛を育み、子を設けた。信頼関係について他人がとやかく言うべき事ではない。お互い、信じすぎるくらいが丁度いい距離感という夫婦だっているだろう。特にエストに関しては問題のある人間…だった。心配になる気持ちも分かってくれ、と他人に言っても仕方ないし救われるような事もない。

ただ、彼女は既に危険に陥っているのではないかと思ってしまったのだ。

「自分の部下にそこまで言う?」

「共に仕事をしたからこそ、思う事だってあるさ。気の抜けない男だって、少し過ごせばわかる」

今の今まで、妻はエストを見た事が無いのだと言っていた。職場に来る事もないし、私から家に招いた…事はあったが彼が誘いに乗る事も無かった。自分という存在を極力隠そうとする人間なのだ。

「…なるほどね」

何か得心したように頷いた。彼女は聡い。私が考えている先を読んでいる事だってあり得てしまう。

「私はあなたの事、他人の長所を見抜ける眼力を持つタイプだと思ってた」

…そうだ。図書館で君と出会った時も、そういう会話をした気がするな。…ちゃんと思い出すのは恥ずかしいからやめにしよう。

「彼の長所はそういう所…って訳ね」

赤信号で止まった。テイルは私たちの話にあまり耳を傾けていないようだ。バックミラーに映る彼は窓の外に思いを馳せている。聞こえているからかどうかは小さな鏡越しではとても分からない。

「ああ。だから…、それ以外にもあるんだが…」

君に頼んだのは、本当に、そういう事ではないんだ。

頼むから、伝わらないでくれ。

「…分かった。貴方がそこまで言うのなら、明日はやめにしておくわ」

…まったく、分かってないな。

信号が青になる。僅かに遅れてアクセルペダルを踏む。少しだけ、強く。

「もし…気が変わって行く事になるのだとしたら、テイルも連れていくといい」

バックミラーを確認した。テイルがこちらを見たような気がした。

「もう一度見たいだろ?あの子の顔」

バックミラーを見なくとも、頷いているような気がした。

「俺は…朝一番に出かけなきゃいけないから」

予定が出来てしまった。チケットならすぐに取れる。信号待ち中に取れるくらいだ。混む事は無いからすぐに行けるだろう。

「えっ!?もしかして、遺跡に行くの!?なら俺も…」

「ダメだ。流石に身内だからって危ない場所に行かせるのはな…」

行先を見抜かれたのは少し動揺したが、何とか平静を保てた…と思う。

「…どうしても、というのなら。別のチケットを用意してある」

これは本当だ。使う事にならなければいい、そう思うが。

「別の…?別のって、どういう事?」

「空港に着いてのお楽しみだ。ちゃんと一人で行けたらの話だがな」

今は祈ろう。テイルが一人で行けるように。

ちゃんと、二人を、逃がしてくれるように。


朝一の便に乗ったが、現場に着いたのは夕暮れになってからだった。遅れを取った以上、そうなるだろうと思っていた。不思議なくらいに静かだった。まるで、誰もいないかのような静けさは夕焼けのせいではないのだろう。気候としては暑い場所にいるはずなのに、どこか、肌寒さが無くならなかった。体が震える。この先に進むべきか。頭の奥深くが制止している。ここまで来たのなら、行くべきだろう。

キャンプの方から音がする。どうやらテレビがつけっぱなしになっているようだ。電波は確かに届く距離にあるが、消さずにいるのは理由があるのだろう。何せ、キャンプには人っ子一人いないからだ。ご丁寧にライトとヘルメットのセットが一人分だけ置いてある。ライトを手に取り、点灯するのを確認すると私は遺跡内部へ向かった。

ヘルメットは取らなかった。私には不要だからだ。

最後に一つだけ、確認した。ポケットの中に、確かに薬瓶が入っている。取り出して確認する度胸は、私には無かった。

遺跡内部に入る。嗅ぎなれない、臭いがする。以前に入った時にはしなかった臭いだ。わざとらしい痕跡の残し方だ。不安を感じさせるのは、らしくない。

もしかしたら、が確信に変わる。ライトを左右に振る。異常は見当たらない。もっと奥、奥の方に何かがあるのだろう。

じめじめする、湿気が不快だ。以前来た時にはこんな事は無かった。私が緊張しているだけなのかもしれないが。汗を拭うタオルすら、持ってこなかった。

以前に来た、分かれ道まで辿り着いた。罠の内容は憶えている。変更されているはずがないので穴の上を進む。想定通り、見えない床の上を歩く事が出来た。

響く足音は一人分だ、当然、一人で来ているのだから。先へ進むのに勇気がいる。誰かがいれば、縋る事が出来る。だが、今は一人だ。一人で進まなければならない。

壁画の前まで来た。当然、動かされているので見る事は出来ない。脇にライトを動かす。赤い。以前には無かった赤い塗料か何かが端に塗られていた。

塗られている、と表現すべきだ。血だとしたら、血しぶきにしては不自然で、流血で注いだにしては薄すぎる。誰かの手によって、塗られたと表現するのが正しいだろう。

奥へライトを動かす。地面が赤い。

赤い。気のせいか匂いが強くなったようだ。

ペンキ缶を溢したかのように地面が真っ赤に染まっている。

私には、勇気が必要だ。この奥へ進む、勇気が。

君にはあったのだろう?なら、私にだってあるはずだ。

一歩、踏み出した。地面は乾いている。まるで綿のように。

足音が響く、ライトを奥へ向ける。その先に、彼がいる。絶対に。

調査隊の人々の、亡骸が見える。気絶しているだけかもしれない。決めつけはよくないな。

確かめる勇気は、湧かなかった。今は前へ、前へ。

歩くだけが、今は。


――「博士。やっぱり、来たんですか」

…この声は。ライトをゆっくりと向ける。驚くほど身綺麗なエストがいた。

服装は以前、別れた時と変わっていない。表情もだ。笑っている気がしない。

だけど何故だろう。その奥に、笑顔があるような気がするのは。

「…正直、信じたくはなかった。疑いのままで、いてほしかった」

私はもう一歩、歩む。ライトがハッキリとエストを照らす。

いつものポーカーフェイスに小さい背。真っ黒な髪。私の知る、■■■・フォーアスだ。

「博士は本当に、信じていたんですか?私が、普通の家庭を持ち、普通に幸せな生活を送る事を」

疑っていた、そう言ったはずだろう。

なのに君は、そうやって心の奥を抉ろうとする。

「少なくとも、彼女の前では信じていたさ…。君の前では何故か、信じられなかった…」

ライトを奥へ向ける。その先は何もない。

何も、ない。

…何もない…。

何も…ないのか…。

「報告だけします。この先へは、ちょっと強引な手を使いました。血が必要だったもので」

「…血?」

そうか。だからこんなにする必要があったのだな。合点がいく。

「人間の体、『魔力』が通るには何が必要だと思います?電気で言えば、電線の役割を果たす…」

「…そうか、だから、血が必要だった訳か…」

血は全身に行き渡る。末端にさえ。身体強化なり、指先から炎を出す然り、回路として最も役割を果たせそうなのは血しかない。

調査隊、全員の血を使う事が出来れば、壁画の更に奥、そこまで染み込ませる事が出来るのなら、外からちょっと流せば通電する。そうして封印を解いたのだろう。

「大変でした…。私はこの通り、上背もなくて非力なものですから。毒を用意したんです。あとは血抜きをするだけ、それだけで用は済みました」

「…遅効性のものを、使ったな?」

これはただ単に予想である。彼がキャンプで毒を盛ったとして、その場で倒れるような物を使うとは思えない、もっと効率的にするはずだ。

「はい。盛った後はここまでついてくるよう誘導するだけでいい…。弱った人からトドメを差せばいいだけの作業でした」

ライトを持つ、手が震える。

私が、今、目の前にしている人物は。

「どうしました…?震えてますよ?念願の『魔法』を見つけられたじゃないですか。ほら」

彼が手を伸ばすと、不気味な炎が掌から浮かび上がる。そこには種も仕掛けもない。一旦、手を閉じ、再び開くと今度は氷が生えてくる。

「『魔法』…か…」

「まだ感覚に慣れないんです…でも、不思議と適合しました。きっと幼い頃から『魔力』に曝されていたせいでしょうね」

言っているのは恐らく鉱石の事だろう。小さい頃から持っていたという…あの。

「…適合?」

「奥に残っていたのは死体だったんです。過去に暴威を振るっていた…『魔王』の。顔も分からないほど腐敗してましたが、幸いにも血が残っていましてね」

血…またしても血か…。君はそれを…。

「自分の身体に…入れたのか…?」

「ええ。拒絶反応も起きないし…。きっとここまで導かれたのも運命…なんでしょうね」

『魔王』の血と適合した。そうすると彼はどうなる?

■■■・フォーアスではない。今の、彼は。

「『魔力』の封印は解き放たれました。これからこの星は、『魔力』を生むようになるでしょう。そして、その王は…」


――「…君じゃ、ない」


言葉が勝手に出た。私を突き動かすのは、ほんのちょっとの■■だ。

「…何故?私はどこからどう見ても『魔王』だ!信じたくないんですか!?」

彼が言葉を荒げる。珍しい、鼻で笑ってやりたいくらいの豹変ぶりだ。

「ああ…信じたく…ないね…」

汗はだらだらだ。

目の前の殺気に重心が後ろへ向く。

今すぐにでも家に帰りたい。

でも、今は、君の前にいなくては。

「もしかして…貴方はまだ、私が普通の青年だと」

彼は自分の胸元にあるポケットから、一枚の写真を取り出した。

「そう、思っているのなら」

写真はこの距離でも分かる。彼と、彼女と、子供の写真だ。間違いなく本物の。家族の幸せそうな写真だ。


――頼む。彼女の為にも、やめてくれ――。


「 大 間 違 い だ っ !!」

彼は写真を放り投げると、壁に向かって握りしめた拳で叩きつけた。

拳が燃えている。間違いなく、『魔法』の炎で。

写真が燃えている。目の前で、燃えていく。

幸せは間違いなく、ここに、壊された。

「あははははははっ!!ほんっとうにっ!!最高だっ!!!博士!!」

彼が笑っている。この上なく幸せそうに。今まで聞いた事のない声で。

「この時を待ってたんだ!!貴方が勝手に作った!「不器用かもしれないが幸せを掴んだ青年」を!!早く壊したくてたまらなかった!!」

壊せるものは何でもよかったのだろう。モノじゃなくったって良かった。

だって、今目の前にいる彼は子供のように純粋な笑い声をあげて喜んでいるから。

「君は…っ!!彼女があれほど…っ!!!」

喉からなんとか絞り出して声にした。彼女だけは、不幸にしてほしくなかった。

「フォウの事ですか?!あいつが一番だいっきらいなんです!!壊しても壊しても!!ずっとニコニコしてて!!」

「彼女はそれでも、君と結ばれる事を選んだのに…っ!!」

「あいつはそれを選ぶしか能がないんですよ…。分かりませんか?優しいだけの人間は損をするってよく言うじゃないですか!」

「損得で彼女は動いた訳じゃない!」

「言ったでしょう!?お互い利用してるって!!あいつは優しい自分に酔ってるだけで、裏切られた後の事も考えられないんですよ!!」

君とはもう、これ以上会話する必要性がない。

「どこへ行こうとしてるんですか…?」

「…外だ。君と会話する、意味がない」

背を向けても、殺気というものは感じられた。

「もっと、壊せると思うんですよ…。失望した顔を見せてください…!」

私は咄嗟に体を捻り、飛び退いた。

さっきまでいた地点に彼が拳を叩き込む。

「ガコォン!!」「ガシャァン!!!」

地面にへこみが出来るのと同時に、脇に掲げられていた松明が地面に転がっていく。炎は何故か、みるみるうちに広がっていく。そうか、地面は血でいっぱいだから、『魔力』で出来た炎は燃え移っているのか。

身体能力の違いは顕著だ。どう足掻いても勝てる相手ではない。私の武器は…武器と呼べるものは時計一つしかない。

「まだ信じていませんか?どこかで分かりあえたはずだとか!?」

走るしかない。図体だけはデカいから、若い頃は運動をよくさせられたものだ。そのころの身体能力が衰えていなければ、逃げ切れる、かもしれない。

足を一歩、強く踏み出した。自分でも驚くほど速く走り出せたと思う。フォームはどうすればいいのか忘れた。がむしゃらに走っているが、追いつかれない内はこれでいいのだろう。

「待ってくださいよ!!博士ぇ!!!」

あっという間に彼が距離を詰める。『魔法』による身体強化か?身長からくる一歩の距離の差からして、これ程まで彼が早いはずはない。足の回転が本当に人かと疑いたくなるほどに早いのか、それとも一歩が強く、弾くように走っているのかのどちらかだ。どちらでも、どうでもいい。今は、追いつかれないように逃げなければ。

武器はこれしかない。信じるしか…ない。時計を壁の方へ向けてスイッチを押した。

「カチッ」「ガコォォン!!」

「なっ…!?」

自分の足の速さを信じて、罠の発動前に駆け抜ける事が出来た。だがこれで、彼を振り切れたとは思っていない。

「ドゴォン!」

瓦礫が吹き飛ばされるような音がする。そうだろう、無事だろうな。

「まさか、そんな手を使ってくるとは…。流石は博士だ」

彼の表情は、気にする必要はない。必要はないが、きっと笑っているのだろうな。

「はぁっ…!はぁ…っ!!」

息が荒くなる。ちょっと走っただけなのにもうこれだ。だが今は、逃げ切らなければ。

「カチッ」「ガコォォン!!」

「カチッ」「ガコォォン!!」

憶えてる限りの罠を起動させて進路を塞いだ。音の質からして、横から壁がせり出す罠なのだろう。確認している暇も無い、さっきの反応からして、そうだと予想するしかない。僅かでも、時間を稼げればいい。

穴の所まで来た。私は念のため、ここにも時計を使う事にした。

「カチッ」

普通の人の跳躍力では飛び越せない穴の大きさだ。一応、足を伸ばしてみた。

足が着かない。やはり、これはオンオフできる足場だった。本来の使用用途とは違うのだろうが、今は利用させてもらおう。彼は間違いなく、ここに落ちる。

遺跡の外へ、なんとか出る事が出来た。息が荒い。肺が苦しい。本当になんとか、逃げられたようだ。

テレビの音がする。今はニュースをやっているようだ。聞き覚えのあるキャスターの声が私に僅かな安堵をもたらしてくれた。

「そろそろ…時間ですよ?博士」

私は思わず振り向いた。そこに彼はいた。

「…っ!?!まさか…!?」

「あの罠に最初に気づいたのは私ですよ?お忘れですか?」

…そうだった。そうだったな。だからこんなにも早いのか。

それにしても、時間…?時間とは…なんだ…?

まさか…。まさか…。

まさか…。

「――ただいま、臨時ニュースが入りました!!えー…例の予告があった家で毒殺事件が発生しました!!」

「…予告…?毒…さつ…??」

「ほら、見てくださいよ。これ、私の家ですよ?」

ニュースの映像に流れている家は、まさについ先日に訪れた彼の家だ。そうか、そうだったのか。

「警察によると、万が一の可能性を考えて家へ訪問した際に死体を発見したとのことで…」

死体…そうか…。


すまなかった…。本当に…。


「あはははははっ!!いい表情ですよ!!博士!!全部壊されたようなその顔!!それだけが見たかった!!!」

「居間で死亡していた女性一人の遺体はこれから解剖に回されるという事で…」

「…………女性、一人………?」

彼がテレビの前にかじりつく。そうだろう。君が、予想していなかった事だろう。

「そんな…っ!!おかしい!!子供がもう一人見つからないと…!!」

「■■■…。私の…勝ちになったな」

私は携帯の電源を入れて留守電を確認する。一件、入っていた。メールも一件、画像付きだ。

「ばかなっ!!赤子が犠牲になったらニュースになるはず!!それなのに女性一人…だけ…??どうなって…!!」

キャンプの隅、大き目のクーラーボックスに背を預けて、電話に耳を傾けた。

「もしも…ゲホッ!!ゲホ!!ちゃんと…保険の役目は、果たしたよ…」

咳の音の後に、液体の流れる音がした。その正体を、私は知っている。

「彼女…。彼が用意した、ゲホッ!水を飲まなきゃって…っゲホッ!」「■■■さん!!」

彼女の声が聞こえる。ここまでしたのなら、大丈夫だろう。

「私が先に飲んで、時間になっても、大丈夫なら、飲むって言い聞かせて…やった…はは…」

そうするのだろうな、そう思っていた。君は賢いから、そうすれば彼女は飲まなくてすむから。

「行きな!テイル!!」「で、でも…」「いいから!!ゲホッ!!」「■■■さん!!」

「こうすればよくなるって…そう、思ったんだよね?」

今にも消え入りそうな問いかけに、私は電話越しに頷いた。

「こんな状態になって、なんだけどさ…信じてるから。■■■の事…」

「コトンッ」「プツッ、ツーツーツー」

「警察は予告時間より前にこの家から出た男性一名と赤ん坊を抱いた女性一名が事情を知っているものとして捜査を…」

「…!!まさか…!!まさか…っ!?!」

「…俺の息子には、別行きのチケットを用意して…」

身体が、揺れた。何か風が吹いて揺れたのだろう。

音はしなかった。だから風か何かだ。

身体が涼しい。芯まで冷える、とはこの事を言うのだろう。

まるでぽっかり、穴が開いたみたいな。涼しい風だ。

「…は、ははっ…。残念…だったな…」

■■■の手は真っ赤だ。さっきまであんなに綺麗だったのに。まるで彼の怒りを表しているかのように赤い。

「…ふざけるなぁっ!!ここまで…!!ここまで準備したのに…!!なんで壊されなきゃならない!!」

最後に自分のプランを壊されてお怒りのようだ。絶対に、予想なんてしなかっただろう。特に君みたいな人間には。

「僕は!!自分のモノを壊されるのが!!一番嫌いなんだっ!!!」

「だろうな…。そう、思ったよ」

目がかすむ。もう歳か。思えば長く…と言っても、本当ならもうちょっと、長く生きられたはずだったな。医療が発達して、80まで生きるのが当たり前になって、ならもっと生きられたかな…?ちょっとだけ、悔しい。

「するはずがない…!!自分を犠牲に…?して何になる!!あの子供も!!あの母親も!!生かしておいても何の意味もない!!」

「そうじゃない。そうじゃないんだ…■■■。俺は、託したんだよ」

「託した…?!何を!!」

自分が臆病だと、■■からもっとも遠い人間だと、そう思っていた。

逃げようと思えば逃げられた。こうなる事だって予測の上だ。

私は息子に託したチケットを使って、一緒に逃げればいい。そうすればよかった、なのにそうしなかったのは。

「あの母からじゃないと…学べない事がある。あの子供じゃないと…開かない才がある」

ここで作りたかったからだ。彼に向かって、絶対に壊せないものを。

あの優しさは、『魔力』に曝された血を引いた体は、共になくてはならない。

「君の血を引いたあの子供は、きっと、君を超える■■になる」

「…■■…?なれるはずがない!!」

「俺は…託した。自分の息子と、あの子に…」

「…!!なら今すぐにでも壊して!!」

「壊せないさ…。だって、俺は…」


――「俺は死ぬからさ」


そうだ、君が殺した。手に着いた血は誤魔化せない。そうしなくったって、私は死ぬつもりで来たんだよ。ポケットの中の薬瓶をそっと握りしめた。

「博士が…死ぬ??…死んだら…ダメじゃないか…!?」

「そうだ。俺から希望を奪う事は、出来ないよ…」

今から旅立った息子に追いついて殺した所で、そのころには私は死んでいる。だから時間だってこうして稼いでいるんだ。今から空を飛んで追いかけたって、どこの便のどこ行きか分からないだろう。

この希望は、もう壊せないのだ。持ったまま死ねば、永遠に壊す事は出来ない。彼は死後に介入できないから。私が失望する事もない。

私の一番の希望はあの命だ。それを目の前で奪いたかっただろう。私が勝手に作った、勝手に縋った希望だ。こうして死ぬ事で、君は絶対にあの子たちを殺せない。だって希望は、私が持ったままだから。

「ダメだ…!!持ったまま死ぬなんて!!壊したら一番!いい顔をするはずじゃないか!!」

君が絶対に壊したいものだ。後から壊した所で、想像でする自己満足にすぎない。君はそういうの、嫌いだろう?嫌いだから騒いでるんだもんな?

「ダメだ!駄目だ!!!それじゃ僕が!!僕じゃいられない!!壊さなきゃ!!」

彼が頭を抱え、絶叫する。壊したいだろう、壊せないんだ。絶対に、それだけは。

私が死ぬ事で希望は完成する。なのにそれは壊せない。だから君は、あの子たちを殺せない。君は他人に依存し過ぎた。自分の命を賭けて作った特大の餌を目の前で作られて、そのまま一生お預けさ。

「治療でも…して、みるかい?作るのは、きらい、だった、だろう…?」

「……っ!!!ああぁぁぁぁああああ!!!!」

彼が勢いよく、テーブルを蹴り飛ばす。人が蹴ったとは思えない速度で、木の板は外へ弾け飛んで行った。愉快で仕方ないな。

「そこまでして…!!そこまでして…なんで…!!」

死ぬことを決めたのは、簡単な事じゃない。

ほんの僅かに、君を信じたかった気持ちもあったけど。

「答えろ!!■■■!!答えろぉ!!!」

ここまで何度、心が震えたか分からない。

ほんとは死にたくなんてないさ。自分が死ぬと思うと、泣きそうになるくらいだ。

まだやりたい事はいくらでもある。

全部後回しにして、やらなきゃいけない事だから、そうしなきゃ。

「届いたか…?届いたのだろう…?」

手を伸ばした。かすむ視界の中、何かを掴めるような気がして。

この思いよ、僅かでもいい。ほんの僅かでも、後世に残って欲しい。

誰かが拾い上げ、心の隅にでも置いておいて欲しい。

その程度でいい。だから、届いてくれ。

「これが、俺の『――』――……」

自分の命を賭した、価値の名前。

言葉にする前に、消えていく。

自分の意識、それ自体が。

ぼんやりして

消えて

























――右手で『それ』を拾い上げると、何故か暖かい気がした。

まるでついさっきまで、誰かが着けていたみたいな。錯覚を覚えてもおかしくはないのかもしれない。だって、これは『腕時計』だから。

「………父さん……?」

記憶が微かに蘇る…。これは、父さんが…。■■■・■■■が着けていた腕時計だ。

「ここに…ここに…」

あの日、母から逃げるよう言われたあの日。遠い異国で暮らす手段を何とかして探した。産まれたばかりの赤ちゃんと、産んだ女性を連れて。

幸いにも、世界は大混乱の真っただ中だった。『魔物』と呼ばれる生き物が突然湧きだして、戦えない人々を保護する政策に上手く乗る事が出来たのだ。全てが上手く行っていた、まるでそう計算されていたかのように…。

父さんは…。こうなる事を予測して、二人の命を託したのだろうか。計算できるはずがない、『魔法』のない世界に『魔物』が現れる事なんて。

あの時の子供はもう大きくなった。一人で自分の母を、守れるくらいに強くなった。だから今日、ここに来た。たまたま父さんの同僚が、逃げてきてくれたから。

二人はここを調査していた、という。一人は見つけた、こうやって。この手の中に。

一人、行方不明になっていた、■■■・■■■。

もう一人、同僚で、天才肌の■■■・■■■。

骨なんて無かった。きっとどこかの『魔物』が食い散らかしていったのだろう。大き目の壊れたクーラーボックス前に、『腕時計』は座り込むようにして落ちていた。

何故ここにいたのか、何故ここで死んだのか、何故ここに…誰もいないのか。

『魔物』の影は長らく感じていない。人の姿だって長らくみていない。まるで、ここが切り取られたかのように、時が止まっているかのように動いていない。

壊れたテレビ、携帯電話、泥だらけでビリビリに破けたテント、転がっているヘルメットにライト…。何が入っているのか分からない薬瓶。何十年も経ったから、こうなってもおかしくはない。

ただ…。ある時間から、ここは時が進んでいない気がしてならない。だって、こうして…『腕時計』は止まっているのだから。

…ふたたび、この時を動かさなくてはならない。

ねじを巻くのは、後に残された、

生きている物の運命なのだから。


――。

私は、手に持っていた本を閉じた。その音に呼応するかのように物音が響く。誰かが立ち上がった音、こちらを向き直った音、様々だ。

「…レスティ。読み終わったの…?」

しばらく、顔を動かす事が出来なかった。それくらい、最後のページは自分の中に深く、深く入っていて…。

「…うん。大丈夫」

聞かれてもいないのに大丈夫、と答えてしまった。あの人が最後に残そうとしたもの、私は本当に受け継いでいられるのだろうか。そんな考えが、無意識にあったからだろうな。

「ノーエルたちもこっちまで来てたの…。何か怪我してるのもいるけど」

「大丈夫だって!私ならこの通りピンピンさぁ!!ま、ミリアムと喧嘩する気はないけどな」

「…内容について、聞いてもいいか?」

ノーエルが私に問いかける。私は、思わず、答える事が出来なくって…。

「えっと…。その…。ミリアムの中にいるのは、エストで間違いないみたい…」

エストは無形のモノですら破壊の対象だった。博士が抱いた僅かな幻想…。「もしかしたら、優しいかもしれない青年」を打ち砕いて愉悦に浸っていた。彼にとって、壊せる対象とは存在しないのだろう。壊せた、という概念さえあればそれでいい。それによってもたらされる他人の絶望、失望だけが彼を満たす事の出来る栄養であった。どこまでも他人に依存した、誰かがいないと成立しない『悪』の典型の姿だった。

「ミリルさん…一つ聞いてもいいですか…?最初の…『勇者』…」

「最初の『勇者』かい?本に残ってる歴史では確か…ミコン・フォーアスが最初だったかな」

…博士の名前ではない、当然の事ではあるけれど。

「彼は歴代でも珍しい経歴を持っていて、天涯孤独の身であったという。他の『フォーアス』は出身がハッキリしてる事が多いのだが…」

孤児…。エストと、一緒だ。

「『魔王』に対して明確に一度、敗北した。と書かれているのも特徴だな。仲間を殺され、『魔王』は彼だけを生かして街に返したのだという」

…彼の性格を考えれば、やりかねない。

彼はどこまでも他人に依存した人だから。

それを壊す事によってしか、満たされないから。

「再戦の時には光の剣をかかげ、「俺は確かに一度、敗北した…。だが、俺『たち』はまだ敗けてない!」の口上を挙げて『勇気』を発現した…とあったかな?左利きでパーティのエースで…ノーエルに近い『勇者』だったと思われるよ」

語るミリルさんの口調はどこか楽しげだ。

…俺『たち』…か…。

エストはその言葉に、何を感じたのだろう。

「『たち』って…そりゃ、再戦した時は違う面子を集めたんですよね?」

「分かってないなー!?リオンくん!!この『たち』には以前に散った仲間たちの想いを……っと、レストくんの話を優先すべきだな」

私の…私の?

「エストは…その…確かに『フォーアス』の血の…祖…かも…しれません…」

『記憶』の中では博士の視線で見ていたが、あの楽しそうに笑っていたエストから、何か懐かしさのようなものを感じていた。私には理解できない、したくないものではあるけれど…。

もし、彼女の、フォウの優しさで私たちの血が入れ替えられたのなら。自分の『勇気』を信じる事が出来る。そこには、あの人の分も入っているから。

「…二人目の『勇者』…」

「うん?なんだい?ノーエルくん」

「確か、二人目の『勇者』は…」

ノーエルは顎に手を当てて、考え込んでいるようだった。

「ああ…、ニクス・フォーアスだったかな。先代の…その………」

ミリルさんは急に話のトーンが落ちた。さっきまであんなに楽しそうに話していたのに。

「ミコン・フォーアスが『魔王』になったんだよな?」

「ペスケくん!!その、そういう話は…」

そうか…。やっぱり、そうなんだ…。

「一度敗北した、って言っただろ?その時の背中の傷からヤツの『魔力』が呪いになって入ったのさ。そっから後はぜーんぶ『フォーアス』が『魔王』で…」

「あくまで!!学説だ!!読み解いていくと…現状そうなるというだけで…覆る要素も十二分に…」

そっから…後?

そっか…。最初の『魔王』は名前が残ってないから、誰だか分からないんだ…。

…あれ?博士の名前…なんだっけ…?ぼんやりと、思い出そうとするが霧がかかったかのように見えない。あの人も…名前、残らなかったんだ…。

…名無しの、『勇者』…。

「…最初の『魔王』は『エスト・フォーアス』だよ…。たぶん、間違いない」

自分の右手、静脈をじっくりと眺めてみる。青い血管は確かにまだ、『フォーアス』の血を流しているのだろう。あの人と同じでありながら、違う血を。

「…ヘンだよね?」

「…?ベック?」

ベクルが疑問を口にした。貴女から疑問が出るとは思わなかった。

「だって、『記憶読み』は古代でも出来た技術でしょ?ならなんで、『エスト・フォーアス』の名前が残ってないの?」

「それは…レストくんの感性が天才的だから…」

「んな事言ったってたかがしれてるでしょ?今より遥かに進んだ技術で読み取れなかったのに、今更読めるなんてある?」

「……確かに、一理ある…かもしれない…が…」

ミリルさんは考え込んでしまった。私は何故か、その疑問に答えられる気がした。

「たぶん…本人が覚えてないんだよ」

「…本人が?」

私は感じていた違和感を全て、心の中で精査した。『魔王』は自己について希薄な気がしている。自分の出来る事についてはやたら詳しいが、欲求を満たす事に囚われすぎていて、まるで、自分の名前さえ不要と判断したかのような…。

さっきの話を聞いて確信した。彼は…。エストは…。

「呪いで『魔力』が入ったって言ってたでしょ…?きっと、次代に受け継がれていくにつれて、いらないものを捨てていったんだよ。自分の…名前とか…」

いらない、と判断したんだ。欲求さえ満たされれば、それでいいから。『破壊衝動』だけが次代に受け継がれ、それが『魔王』になった。名前なんて、どうでも良かったから。

思えば段々と彼の名前がぼやけていった。私自身、名前が正しいのか自信を持てないでいる。エスト、彼の名前は…エストのはず…。博士の名前はたまたま残る機会が無かっただけで探そうと思えばどこかにあるはずで…。

「もしかして…博士も…」

いらない…と判断したのかな…。後へ受け継がれるべきは、自分の名前じゃない、って…。

「博士…?誰の事?」

ベクルが顔を傾げながら問いかける。たぶん、貴女のご先祖…とは言い難かった。推理できる要素はシードという同名と、大事にしている時計だけなのだ。今はロップの首にかかっているけれど…。改めて触ってみる。

用途不明の、スイッチのような物が脇にある。でもこれは、『記憶』を読んだことがあればいくらでも複製可能な訳で…。

「…ううん、何でもない」

ベクルと博士を同一視するのはよくない事なのだろう。彼女と彼は違う。受け継ぐべきものも、残すべきものも。同じ血が流れていたとしても、違うもの。この変化こそが、博士が求めていたであろうものだから。

「名前を捨てた…有り得ない話ではない。『魔王』にとって名前は重要な意味をなさなかった」

「七千もの年月の間ずーっと『魔王』で通してたんだもんな?必要だったら名前があるはずさ」

『魔王』は『魔王』でしかなかった。その後に続く名前なんて無かったのだ。後世に残された資料がそれを示している。

だとしたら、彼女は…?ミリアムは、どうなるのだろう。彼女は…ミリアムであるのか…?

「ミリアム…って…誰なんだろう…」

思わず零れた言葉を拾う人はいなかった。

きっと、答えがそこに無かったから。

「地図によれば…この奥にもう一つ昇降機があって、それに乗ると展望デッキに出られるな」

「展望…?何故そんな場所に?」

「潜水した時に唯一外を見られる場所だ。ここからでも僅かには見えるが…景色は段違いに良いだろう」

「ミリルさん。たぶんそういう事じゃなくって…」

リオンは思わず口を挟んだ。聞きたいのは何故作られたかじゃなくって。

「…?………あ!あー…緊急時のコントロールは空気が確保しやすい展望デッキの奥にあるんだ。ここまでは一般が入れるようになっていて、展望デッキが頭の上だとするとコントロールルームは頭の前辺りになるな」

「そこで作業の仕上げに入っていると?」

「そう考えて間違いないだろう…。といっても、セイバたちから聞いた話の限りでは、不可能と断言できるのだが…」

ミリルさんは普段、他人から聞いた話では断言という事はしない。よほど確証があるのだろう。

「あいつのあの強気な様子じゃあ何かやりそうって感じだったけど。本当に断言できるの?」

「共に作業していた二人が口を揃えて言っているのだ。どう足掻いても無理だ、と」

「ここに残っている施設や機械…全部揃えて緊急稼働した所で、ちょっと浮くくらいがやっとさ。私とミリルさんも計算したから間違いないよ」

ミリアム自身の話によると、この『シリウス』を空の向こう…宇宙まで浮かせるのが目的だと言っていた。この星の最高の頭脳である二人が無理…、共に作業していた二人も無理…。きっと、実際に携わった二人の方がどれだけ不可能な事かより理解しているだろう。

「とはいえ、実際にやられてしまうと『魔力』の枯渇…という危険性は孕んでいる。星に害を為す者、という認識だけは持っておかねばならないな」

「『魔力』の枯渇…」

博士はかつて、この星で『魔力』を見つけて解放した。…その後は…?

『魔王』が現れた後の話は聞いた事がある。かつて隆盛を誇っていた科学が緩やかに死んでいき、文明は退化した。『魔力』で生きる物、『魔物』が世界各地にじわじわと生息域を広げ、どこか統率の取れた動きで人類を衰退させたのだという。

正体が分かった今ならなんとなく予想が付く…。『魔王』は文明を破壊したのだ。自分の欲求の為に。それは後から勝手に人が作っていくから。事実、人は再び剣を取る時代になって、新しい文明を築いていった。『魔王』はただ、生きながらえているだけで良かった。作ったものを壊せばいいだけだから。

今はもう、文明と呼べるようなものは無い。過去の人々をなぞり、なんとなく真似をして、そうしたら生きられると思っているから生きている。この世界は、『魔王』からしたら無価値なのではないか。

だとしたら、もう壊せるのは一つしかない。

「…星を壊す…それしか、やりたい事がない…」

私の言葉に皆が視線を向けた。

「『シリウス』を飛ばすとか、たぶんどうでもいいんだよ。ただ…結果的に星が壊せれば…」

ミリアムの中、『魔王』の考えている事は…これで間違いない。もう欲求を満たせるのは星を壊す…『星食み』しか彼の腹を満たせないのだ。

「…止めなければ、ならないな」

ノーエルが呟いた。でも、止められるとは思えない。

「そうは言っても、あの調子じゃこっちの言う事なんて聞いてくれないよ。実力行使?」

「……ああ。そうなるな」

「ダメだよ!…たぶん…彼女は…、いや、彼は…」

死んでも従わないだろう。彼女の中にいるのは狂気だ。『魔王』という狂気。何度も死を経験した、今の自分が満たされないなら、何をしでかすか分からない。

兄さんに人殺しをさせてはいけない。例え、私が…その汚名を被る事になってでも…。

兄さんは私の頭に手を軽く置いた。右手の先から、僅かな体温が伝わってくる。

「俺に任せておけばいい。全部…、俺がやる」

「へぇー…?私は何してればいいの?『救世主』サマ?」

ベクルが口をとがらせて言った。

「あいつは『キャスト・キャンセル』を使える。レストとミリルさんを可能な限り守れ。リオンを頼り過ぎると危険そうだ」

「えぇ!?それは酷いんじゃないか?!ノーエル!!」

「それなら納得…」

「納得じゃなくって!!」

「実力は正直未知数だ。まだ俺にもベクルにも見せてない手がある事も考えろ。二人は必要で、かつ重要だ。レストには『勇気』があるし、ミリルさんには知恵がある。危険ではあるが、現場にいて貰うのが最も力になるのだからな」

私の『勇気』も、ミリルさんの知恵も、その場にいなければ発揮は出来ない。ここで待っている、という選択肢がない訳じゃないんだけど。私は…少しでも力になりたい。

「万が一の時は頼りにしているよ!リオンくん!」

「ほ、本当ですか…?その割には扱いがその…」

「ぐだぐだ言ってないで行くよ!!ほら!!」

ベクルがリオンの尻を叩いて促す。ちょっとだけ笑ってしまった。

「ふふ…」

不安はあるけれど、この場にいる皆なら何でもできる。

今だけは、そんな気がしていた。

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薬草摘みのフォーアスさん ふみんちょう @ssr00514

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