第一話




 少女は黒い水の中に沈んでいた。


 水は空のように広く、宇宙のように静かで、彼女の身体を優しく包んでいた。髪がゆらゆらと揺れている。瞼は閉じられている。心臓の音すら、今は聞こえない。ただ、花弁のようなものが一枚、また一枚と彼女のまわりを漂っていた。


 その水底へ、もう一人の少女が降りてきた。


 漆黒のドレスに身を包み、まるで何かの儀式に向かうような、あるいは死者を迎えに来たかのような静謐さをまとっている。長い髪を靡かせながら、彼女は黒い水の中をまっすぐに進む。そして、沈んでいた少女の手を取った。


「また会ったな、カーディナル・クレーム・ド・カシス」


 カーディナル。その名前は、水の中で眠っていた少女にわずかな震えをもたらす。


「……その名前、私の?」


 声はかすれていた。自分が誰かもわからない。ただ、目の前の少女が自分を知っているような気がして──その気配に、すがるような問いが漏れる。


「ええ。忘れていて当然だ。でも、名前はまだ、仮のものに過ぎない」


「あなたは誰?」


「私は橘美鈴。あなたの騎士ではないな、ライバルだった者」


 その言葉は、はっきりとは理解できなかった。ただ、美鈴と名乗った少女の目の奥に、確かな感情が灯っていることだけはわかった。懐かしさと、憎しみと、そして別れの記憶のようなもの──。


 カーディナルはふるふると首を振った。


「ここは……どこなの?」


「ラ・フランス第四層都市、第七迷宮の最下層。けれど、夢の中と言ったほうが近いかもしれない。あなたはここで、目覚めの時を待っていた」


「目覚め?」


「お前はまだ、自分が誰かを選べていない。“姫”なのか、“騎士”なのか。“革命”なのか、“服従”なのか。それを知るために、もう一度この世界を歩く」


 水の中で、ふたりの指が触れあう。カーディナルの胸の奥に、何かが点火されたような痛みが走る。


「僕……私……何か、忘れてる気がする。でもそれが何か、わからない」


「わからなくていい。でも、思い出そうとすること。それがすべての始まり」


 水の表面が揺れ、遠くから鐘の音が響いてきた。


「もう時間だ。ここは長くはいられない」


 美鈴が手を引くと、黒い水が裂け、ふたりの身体が急速に浮上していく。光と音の渦に呑まれながら、カーディナルの胸に言葉が刻まれる。


──姫とは誰か?

──騎士とは何か?

──なぜ、この世界は何度も同じ夢を繰り返すのか。


 すべてはまだ謎のまま。でも、名前だけは覚えている。

 カーディナル・クレーム・ド・カシス。自分の仮の名。

 それを呼ばれたとき、胸の奥に灯った微かな熱だけが、現実へ戻る鍵になる。


 ──そして、少女は目を覚ました。


 身体が跳ねた。息が詰まり、涙がひとすじ頬を伝う。


 ベッドの上。天井。薄暗い照明。夢だったのか、それとも……。


「カーディナル……」


 誰もいないはずの部屋で、誰かがそう囁いた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤い実エクスプロージョン 樫木佐帆 ks @ayam

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ