第十集 忠を全うせん

 目の前にいるのが李克用りこくようではないと気付いた楊彦洪ようげんこうは、本心としてはすぐにでも本物の李克用を追いたいと願っていた。例え目の前の男を倒しても、李克用に逃げられれば何の意味もなさない。

 李克用が本陣に到着した時点で、朱全忠しゅぜんちゅうとその軍団が再び賊軍に落ちるという事がほとんど確定してしまうのだ。

 しかし目の前の男、すなわち李克用の頭巾と外套を纏った史敬思しけいしは、李克用を逃がす事こそを目的として囮となっており、その正体に気づいた楊彦洪を黙って見逃すわけにはいかない。

 楊彦洪とて、それを理解しているがゆえに背中を向けるわけにはいかなかった。

 この場を終わらせる方法は双方とも、少しでも早く目の前の敵を倒す事であった。


 そうして始まった両者の決闘は、一丈(約三メートル)にも及ぶ長さのさくを自在に振る史敬思が圧倒していた。

 しかし楊彦洪も武官出身である。相手の動きを的確に見切り、刀で受け流し、間合いを詰められる隙を探していた。

 間合いの広い長柄武器が相手ならば、その懐に飛び込む事で勝機を見出すしかないのだ。無論ながらそれは史敬思とて百も承知である。ゆえに槍術の使い手は、いかに有利な間合いを維持するかを常に意識しているのである。

 事実、史敬思の懐に飛び込んで斬りかかるという事を、楊彦洪は幾度か挑んでいた。しかしその度に史敬思は冷静に後ろへと飛びのいて再び間合いを調整するという動きで対応していたのだ。


 そうして両者の攻防は、もう何十手にも至り、先に体力の尽きた方が負けとなる事は目に見えていた。

 しかし戦略的に俯瞰してみれば、楊彦洪の方が圧倒的に不利である。


 史敬思からすれば、こうして楊彦洪を釘づけにしているだけで、囮として敵の目を引き付けている状況に何ら変わりはないのだ。むしろ李克用が逃げる時を稼がれている事で、楊彦洪はどんどん窮地に追い込まれている。

 そうした心理的な余裕の差が、両者の動きに見え始めていた。


 いつしか豪雨は通り過ぎ、天を覆っていた黒雲が散り始めていた。その隙間からは、夜空ではなく群青色の空。

 もうすぐ夜明けが近いのである……。




 豪雨が止み、空が白んできた事もあり、丘の上に待機していた汴州べんしゅう軍本隊の兵士が、上源からほど近い林付近で戦闘する二人の姿を発見。すぐさま朱全忠に報告がなされた。

 その片方は、黒い毛皮の外套をなびかせている事が遠目でも確認でき、李克用であると判断。孤立した李克用がその場所で汴州兵の誰かと戦っているものと推定された。

 その者が李克用を討ち取れれば話は早い。しかし敗れるような事になれば、目の前でみすみす取り逃がしてしまう事となるのだ。

 これは朱全忠個人だけではなく汴州軍閥の存続がかかっている。

 笑面虎と呼ばれた男に、躊躇など無かった。


「弓兵、構え」


 朱全忠が静かにそう命じた。本隊の弓兵を指揮していた部隊長が、その命令を聞くなり抱拳ほうけんしながら意見する。


「お言葉ですが、この暗さと距離では、あのように動き回る敵を狙撃するなど……」

「誰がと言うた……?」


 そう言いながらゆっくりと振り向いた朱全忠は、顔こそ笑っていたが、その瞳は氷のように冷たく、部隊長は全身に鳥肌が立った。


「全軍や……」


 いつになく低く、鋭く発せられた朱全忠のその言葉に、もはやそれ以上の意見は不可能だった。そして弓兵部隊への斉射命令が行き渡ったのである。




 そんな本隊の動きを知らぬまま、目の前の敵に全力で当たっている楊彦洪は、次の一手で再び相手に仕掛けるつもりでいた。

 向かい合う史敬思と楊彦洪を照らすように、東の地平から輝く朝日が顔を覗かせた。


 どちらからともなく、ほとんど同時に踏み出した両者。

 今度もまた史敬思の槊を受け流し、相手の懐に飛び込みを仕掛ける楊彦洪。幾度も試しながらその度に相手にかわされ続けた手であったが、この時は状況が違った。

 それまで楊彦洪の目を正面から睨みつけていた史敬思の視線が、突如として上に反れたのだ。その意味を考える余裕もなく、ただ絶好の隙と見て渾身の踏み込みをした楊彦洪。

 楊彦洪の振るった刃が、史敬思の胴を正確に捉えた。黒衣の槍使いの脇腹が切り裂かれ、朝日の輝きの中で真っ赤な返り血が飛び散っていく。

 遂に相手に刃が届いた手応えに歓喜した楊彦洪だったが、それも一瞬の事であった。

 彼の背中、うなじ、腰から膝裏にかけ、無数の激痛が襲ってきた。ふと見れば、いつの間にか周囲の地面から大量のあしが生えていた。


 いや違う、これは矢である。

 戦場で斉射が行われた証であった。


 楊彦洪は理解した。

 自分たちの戦いを発見した朱全忠が、この斉射を命じたのだと。恐らくは目の前の敵が李克用であると思って……。


 史敬思もまた全身に矢を受け、楊彦洪のすぐそばで血を流して倒れていた。その視線は、同じく倒れ込んでいる楊彦洪に向けられている。血を流した口元を緩ませながら。まるで、俺たちの勝ちだと言っているが如く。


 せめて目の前の敵が、地獄への道連れが、李克用本人であったならば、楊彦洪とてこの最期にも納得しえたかも知れなかった。だが現実はそうではない。

 史敬思は主君を守り抜いて死ぬ。一方で楊彦洪は、それが果たせずに死ぬのだ。


 そうして主の為に己が命を差し出した二人の男は、朝日の輝く中で、それぞれの想いと共に、静かに意識を失っていった。




 間もなくして、供回りを引き連れた朱全忠が白馬に乗って現れた。

 始めこそ勝ち誇った様子であったが、そこで息絶えているのが独眼龍ではないと知ると、黙ったまま眉をひそませた。

 この様子では、おそらく李克用は、すでに本陣に辿り着いているであろう。

 見れば笑みすら浮かべて息絶えているこの囮に、してやられたのだ。


 そこに来て朱全忠はゆっくりと振り向くと、同じく息絶えている楊彦洪の脇にしゃがみ込んだ。

 今度の失敗の責任が彼にあったのは事実だが、あの雷雨が予測できるものではない事も充分に承知している。また彼がいなければ、黄巣軍から官軍へ鞍替えする事も出来なかったかもしれない。その意味では感謝していた。

 ここで汴州軍閥が賊軍に落ちるような事になっては、楊彦洪の生きた意味すら無くなってしまうのである。


「お前の命は、無駄にせぇへんで……」


 穏やかな笑みを浮かべつつ、そう優しく言葉をかけた朱全忠は、苦悶の表情で一筋の涙を流しながら絶命している楊彦洪の両目を、静かに閉じさせたのであった。




 一方その頃、鴉軍本陣では李克用の無事の帰参に、妻である劉夫人をはじめ、皆が歓喜に包まれた。

 しかし李克用の顔は浮かない。

 彼を逃がすために囮となった史敬思が戻らぬ限り、彼は喜ぶ事など出来なかった。

 自らが囮となると言ってきかない史敬思に、身に着けていた頭巾と外套を渡した際、必ず生きて戻ってこいと言った。これは命令だと。

 それに対して笑顔で頷いた史敬思の顔が、李克用の脳裏に焼き付いて離れなかった。

 しかし、太陽がすっかり昇ってからも、李克用のもとに史敬思が帰ってくる事は、遂に無かった……。







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