第8話
寄り道もせず、まっすぐにアパートへ戻ったサチは車から出る前にミラーで顔を確認する。そういえばろくに化粧もしていなかったことを思い出したが今更だろう。大丈夫だ。すっぴんであること以外、変な顔はしていない。運転しているうちに気分も落ち着いてきた。
大丈夫。
自分は大人だから。
彼女の前ではちゃんと大人で、そして先生でいなくてはいけないから。
「――よし」
口の中で呟き、運転席のドアを開ける。
「おかえり、先生」
ふいに聞こえた声にサチは軽く悲鳴を上げて動きを止めた。
「え、なにその反応。ウケるんだけど」
アパートの裏からこちらへ歩いてきながら美桜は口元に手の甲を当てて笑っていた。
「いきなり声かけるから。びっくりした……」
「ああ、ごめんなさい。てっきり気づいてるもんだと――」
サチの前で立ち止まった美桜はそこで言葉を切り、サチの顔を見つめながら僅かに首を傾げた。サチは思わず視線を逸らして「なに?」と訊ねる。
「ううん。頑張ったね、先生」
ニコっと彼女は微笑んだ。その笑みを見て安堵してしまう自分に気づき、そんな自分に対して動揺してしまう。
「な、何が?」
「さあ、何でしょうね」
美桜はいたずらっ子のようにフフッと笑うと、アパートへ向かう。そして歩きながら顔だけ振り返った。
「ご褒美にお昼ご飯作ってあげますよ。食べてないでしょ?」
「いや、まあ、食べてないけど……」
「ほら、帰りますよ」
サチは美桜の背中を見ながらため息を吐いた。
何なんだろう、この子は。まるでサチのことをすべて見透かしているかのような……。しかし、それが嫌ではないのは何故だろう。干渉されるのは嫌いなはずなのに。
どうして彼女のあの笑顔を見て安心してしまうのだろう。どうしてあまり話したこともない生徒相手に、こんなに自然体で接することができるのだろう。
「先生、早く!」
「あ、はーい」
サチは慌てて彼女の後に続いた。
「あの、お昼はわたし作るよ?」
玄関を上がってキッチンに向かう美桜の後ろに立ってサチは言う。しかし美桜は疑わしそうな表情を浮かべて振り返った。
「料理、できるんですか?」
「失礼ね。わたしだって料理くらい……」
「ふうん。たとえばどんなの作れます?」
「ハ、ハンバーグとか、ピーマンの肉詰めとか。あ! あと野菜炒めとか、ホットケーキ、とか。あと卵焼き?」
しかし、言えば言うほど美桜はニヤニヤと笑う。そして「あのね、先生」と片手鍋を棚から出しながら言った。
「どんなの作れるかって聞かれて具体的に答えちゃうあたり、料理できない人確定だからね」
「え……」
「ほんと、先生ってポンコツだなぁ」
呆れたように言いながら彼女は冷蔵庫を開けた。
「な! ポンコツって……」
「さっきのメッセージのやりとりだってそうですよ」
意味がわからず、サチは眉を寄せる。
「わたしが勝手にスマホを開けてアカウント登録したのも怒らないし。それに他には何もされてないって、なんで信じちゃうかな」
「え、だって御影さんが」
してないって言ったから信じたのに。そう言おうとして、サチは言葉を飲み込んだ。たしかに彼女の言うとおりだ。なぜ素直に信じてしまったのだろう。もし何か個人情報など見られていたら。
「……何か、見た? 御影さん」
「見てませんよ、ポンコツ先生。でも、そういうとこは気をつけた方がいいんじゃないですか?」
「気をつけてます。普段は」
そもそも普段なら絶対に酔いつぶれたりしないのだ。酔いつぶれたりもしなければ他人にスマホを触らせることだってしない。なのに、どうして彼女の前でだけ、こんな失態ばかり……。
「ま、それならいいですけど」
頭を抱えたサチを見やりながら美桜は鍋に水を入れてコンロにかけた。
「料理できるできないって話をしておきながらアレですけど、お昼ご飯はラーメンです。微妙に時間ないし。それに先生、その恰好でいいんです? 生徒の親に会うのに」
「え……?」
言われて自分の恰好を改めて見る。
昨日と同じ仕事用のパンツ。美桜に借りたスウェットトレーナー。たしかに仕事として会うのならばラフかもしれないが、今日はプライベートだ。休日ならこんなものではないだろうか。首を傾げていると美桜がフフッと笑った。
「生徒の服とか着ちゃって、やーらしー」
「え! あっ! いや、やらしいとかそういうことじゃなくて! でもそうね。そうだ。うん。たしかに着替えなくちゃ。あとメイクも。あー、荷物まだ車だった!」
慌てて玄関で靴を履き、車に置きっぱなしにしているキャリーバックを取りに行く。ドアを開けたサチの背中に面白そうに笑う美桜の声が響いた。
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