第40話

 平民街との境界門まで戻ってくるとラースは「じゃあ、またな」と手を挙げて仕事に戻っていった。何かを聞きだそうともしなければそれ以上お節介を焼くわけでもない。本当に善意でついてきてくれただけのようだ。


「変な人もいるんだね」


 宿へと戻りながら心桜は門を振り返る。すでにラースはこちらを見ておらず、通りがかりの住民たちと談笑をしていた。


「ラースさんは良い人ですよ」

「良い人っていうか、お人好しって感じ」


 心桜の言葉に瑠璃は薄く微笑むと「それにしても」と心桜に視線を向けた。


「え、なに」

「いえ。先ほどはよく我慢されたなと思いまして」

「なにが?」

「あの貴族の警ら隊の方です」

「ああ、あれ」


 心桜は眉を寄せると「マジで何言ってんのかわかんなかっただけ」と肩をすくめた。


「言葉は理解できるのに話してる意味が理解できないって本当にあるんだね」

「そうですか」


 瑠璃は苦笑する。おそらくまた心桜が苛立って相手を殺してしまうのではないかと思ったのだろう。


「まあ、平民を下に見てるってことだけはわかったけど、別にわたしは平民とか貴族とかどうでもいいしさ。瑠璃のことを侮辱されたらソッコーで殺してたと思うけど」

「またそんなことを……」


 瑠璃は困ったように笑みを浮かべると「エレールさんから渡されたものはどうされますか?」と続けた。

 心桜は「あー、これね」とポケットに入れていた紙を出す。それは一枚の質の悪い紙だ。中を開くと文字が書かれてあったが、当然のことながら心桜にはそれが読めない。


「あとで読んでよ」

「宿に戻ってからが良いでしょうか」

「だね。あの様子だと外では口にしない方が良い感じがする」

「承知しました。では、このまま宿に――」


 ふいに瑠璃が言葉を止めて路地の方に視線を向ける。つられてそちらに目を向けると、そこにはフードを目深に被った何者かがうずくまっているようだ。


「……あれってたしか」


 そのボロボロのローブのようなものには見覚えがある。たしか昨日、役所に行く前に瑠璃が財布代わりにしていた布袋を盗んだ少女だ。


「――心桜様」


 瑠璃が何かを訴えるような表情で心桜を見てくる。そういえばあのとき瑠璃は言っていた。彼女は怪我をしている、と。それが悪化したのだろうか。


「いいよ。瑠璃がしたいことをすれば」


 心桜が言うと彼女は小さく頷いて少女に駆け寄った。そして動きを止める。


「なに。動かせないくらいヤバい?」

「……いえ。宿に連れていっても?」


 固い声で瑠璃が言う。


「いいって。したいようにしなよ」

「ありがとうございます」


 瑠璃はそう言うと少女を抱え上げた。少女は何も抵抗する素振りがない。もしかするともう意識がないのかもしれない。


「行きましょう」


 瑠璃はなぜか少女のフードをさらに目深に被せ、頭を胸元に押し当てるように強く抱きかかえると急いで歩き出した。


 宿に戻ると瑠璃はベッドの上に野営時に使用していた敷物を敷き、その上に少女を寝かせた。そうしながらも彼女の表情はひどく暗い。


「怪我、そんなにひどい感じ?」


 訊ねた心桜に瑠璃はその暗い表情を向けた。


「え、なに。もしかして死んでる?」

「いえ。まだ息はあります。怪我はかなりひどいようなのですぐに手当が必要です」

「医者探す?」

「ムリです」

「は? なんで。あ、お金が足りないとか?」


 しかし瑠璃は首を横に振った。そして悲しそうな表情で少女に視線を向けると、そのフードに手を伸ばす。


「彼女は医者に見せられません」


 言いながら瑠璃はフードを少女の頭からとった。

 現れた少女の顔は青白く、頬が痩けてやせ細っている。その顔立ちはひどく幼い。まだ十代前半くらいだろう。いや、それよりも……。


「黒いね、髪」


 心桜は少女を見つめながら呟く。瑠璃は頷いた。


「奴隷?」

「いえ。奴隷紋がありません」

「日本人?」

「どうでしょう。この年齢の子供がこの世界で訳も分からず生き延びることは不可能かと思います」

「じゃあ――」


 そのときラースの顔が頭をよぎった。心桜は眉を寄せながら「逃げた奴隷の子供――?」と呟く。


「おそらく……」

「あれからどれくらい経ったっけ?」

「二ヶ月ほどです」

「――二ヶ月」


 それを一人で生き抜いてきたのか。こんな小さな子が。

 この怪我はいつ負ったものなのだろう。どうして街に入ったのだろう。見つかればすぐに殺されるような、こんな地獄のような場所に。


「どうする?」

「ひとまず見てみます。心桜様、申し訳ありませんが桶に水をもらってきてくれませんか」


 瑠璃は言いながら少女のローブを脱がし始めた。


「他にいるものは?」

「彼女の傷の状態を見ないことには何とも」


 心桜は頷くと桶を持って部屋を出た。

 この時間、他の宿泊客は出掛けているようで静かだ。階段を降りて受付へ向かうと宿の主人がなにやら事務作業のようなことをしている姿があった。


「ねえ、悪いんだけど水をもらってもいい?」


 彼にそう声をかけると「ええ、庭に井戸がありますのでご自由にどうぞ」とにこやかに承諾してくれた。しかしすぐに思い出したように「あ、それと」と申し訳なさそうな表情で続ける。


「もし宿泊者がもう一人増える場合は追加料金を頂くようになっておりまして」

「ああ、まあそりゃそうだよね。わかった。あとで払うから」

「ありがとうございます。先ほど抱きかかえられていた方、具合が悪いんですか?」

「みたいだね。今、介抱してるとこ」

「そうですか。何か必要なものがあれば言ってください」

「……そのときはよろしく」


 悪意など微塵も感じられない表情の彼を見つめながら心桜は答えると、井戸で水を汲んで部屋へ戻った。

 部屋ではちょうど瑠璃が少女の服を脱がせ終わったところだった。いや、脱がせたというよりは切ったという方がいいだろう。少女の身体を動かすことが難しかったらしい。


「何か手伝う?」

「いえ、大丈夫です。まず傷口がどうなっているのか確かめないと」


 瑠璃の声は固い。少女の腹部は血にまみれており、それが乾いているのか濡れているのかすらもわからないほど黒く汚れている。化膿しているのか、それとも血とはそういうものなのか独特な匂いが鼻を突いた。

 少女は瑠璃が水に濡らした布で身体を拭いている間も苦しそうに表情を歪めるだけで目を開くことはない。呼吸も浅いように見える。


「……これは」


 ふいにポツリと瑠璃が呟いた。心桜も綺麗になった少女の身体を見て言葉を失う。少女の腹部には獣に引っかかれたような傷がいくつも刻まれていた。そのうちのいくつかが化膿し、今もまだ血液がにじみ出ているようだった。


「どうする?」

「この傷の数では――」

「死ぬ?」

「このままでは、そうですね」


 瑠璃は表情を歪ませ、それでも化膿した傷口に傷薬を塗っていく。


「この程度の薬では効果は期待できませんが……」

「ふうん」


 心桜は呟きながら少女を見つめた。苦しそうに顔を歪めながらも決して声を出さない。泣きもしない。意識がないのだから当然か。逃げた森の中で獣に襲われでもしたのだろう。よく一人で生き延びたものだ。

 思いながらテーブルに視線を向ける。そこには見慣れない一本のナイフが置かれてあった。


「これなに?」

「彼女が持っていました。これを頼りに生き延びていたのでしょう」


 ――死んだ方が楽なのに。


 こんな世界で生きようなんてどうかしている。獣に襲われたときに諦めてしまえば良かったのだ。そうすればこんなに苦しい想いをしなくてもすんだ。楽になれた。


「――どこ」


 ふいに少女の口が動いた。よく見るとうっすら瞼も開いているようだ。


「ここ、どこ」


 か細い声で少女は言いながら眉を寄せる。瑠璃は彼女の額に濡れた布を当ててやりながら「宿屋ですよ」と落ち着いた口調で答えた。


「……だれ」

「あんたが昨日、お金を盗んだ相手」


 心桜が答えると少女の視線が動いたのが分かった。しかし何も言わない。視線が合っているのかすらわからない。


「水は飲めますか?」


 瑠璃は少女の頭を支えてそっと起こすと口元に水の入ったコップを添えた。少女は一口、二口飲み干すと深く息を吐く。


「もう、平気」

「いや平気じゃないでしょ。死ぬよ? あんた」

「死なない」

「死ぬって、その怪我じゃ」

「――わたしは死なない」


 少女はそう言うと「もう行かなくちゃ」と身体を起こした。そして息が詰まったような声を上げると身体を折り曲げて動かなくなる。


「ほら、ムリでしょ」

「心桜様」


 瑠璃に睨まれ、心桜は口を閉じる。瑠璃は少女を再びベッドに寝かせると「どこに行くんですか?」と優しい口調で訊ねた。


「迎えに行く」

「誰を?」

「妹」

「妹さんですか。この街に?」

「いる。絶対に、いる」

「どうしてそう思うんですか?」

「塀の向こうの人、わたしを見て変な顔したけど殺そうとはしなかった」


 心桜は眉を寄せる。


「だから?」

「――妹はわたしと同じだから」


 何とも要領を得ない。心桜はじっと少女を見つめながら「なんでそんなになってまで行こうとするの」と訊ねた。


「約束」

「約束?」

「あの子は待ってる。約束は、絶対……」


 そこで少女の言葉が途絶えた。瑠璃は少女の額に手を当てながら「眠ったようです」と言った。


「気絶でしょ」


 心桜はため息を吐くと椅子に腰を下ろした。


「今の話の感じだと、この街にこの子の妹が奴隷としているってこと?」


 瑠璃は少女の手当を再開しながら頷く。


「塀の向こうの人というのは、おそらく富裕層街の人でしょうか。顔を見られても殺されなかったというのなら、よほど顔立ちが似ているのでしょうね」

「双子とか?」

「そうかもしれません」

「にしても奴隷になった妹を迎えに行くって普通にムリじゃない? 行って見つかって殺されるのがオチ」

「心桜様だって慎様が奴隷になっていても迎えに行くのでは?」

「そりゃそうでしょ。慎は特別だもん。もし慎を買った奴がいたらわたしはそいつを絶対に殺して慎を助ける」


 瑠璃は心桜を見て薄く微笑むとその笑みを少女に向けた。


「心桜様にとっての慎様は、この子にとっての妹さんなのかもしれません。双子であるのなら、きっとずっと一緒に育ったはず。互いの存在が特別でないはずがありませんよ」


 瑠璃は少女の傷口にそっと包帯を巻きながら優しい口調で言った。


 ――わたしにとっての慎が、この子にとっての妹。


 それならば彼女の行動も納得がいく。大切な人を助けるために死んでなんていられない。そんな想いでここまで生き延びてきたのかもしれない。こんなに幼い少女が自分のことよりも相手のことを想って……。


「……この子、どこで育ったんだろう」

「わかりません。奴隷商が商品として育てたのかもしれませんね……。どこで育ったにせよ、良い環境ではなかったでしょう」

「――そうだね」


 この世界で人間が良い環境で育つはずもない。彼女の容姿は日本人とよく似ている。一級というやつだろうか。それとも日本人の血が濃く出た二級だろうか。どちらにしても彼女がこの世界で生きるには無力すぎる。


「……わたしにできることはここまでです」


 瑠璃は少女に布団をかけてやりながら言った。


「助かるの?」


 しかし瑠璃は答えない。それが答えなのだろう。心桜は少女へ視線を向ける。血の気のない痩せこけた顔は、変わらず苦しそうに表情を歪めている。


「可哀想だね」

「……そうですね」


 瑠璃は血で汚れた布や包帯を片付けて心桜に背を向けた。


「瑠璃?」

「宿の主人に厨房をお借りできないか聞いてきます」

「なんで?」

「おかゆを作れたら、と」

「そう……」


 瑠璃は小さく会釈すると部屋を出て行く。その背中が悲しそうに見えたのはきっと気のせいではないのだろう。

 心桜は椅子から立ち上がるとベッドの隣に立って少女の頬に手を当てる。その肌は焼けるように熱い。薄く開いた唇からは苦しそうに短く息が吐き出されている。


「――ねえ、あんたはどうしたい?」


 聞いたところで答えが返ってくるわけもない。そう思ったのだが、少女はまるでその質問に答えるかのように掠れた声を漏らした。


「……やく、そく」

「――ふうん。そう」


 心桜は少女の熱い頬を左手で撫でると椅子に再び腰を下ろす。そして彼女の肌の感触が残る左手をじっと見つめ続けた。

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