第35話
真っ暗な天井を見つめながら心桜は小さく息を吐く。ボリュームのある食事でお腹は満たされ、久しぶりに温かなお湯で身体を洗うこともできて気持ちはサッパリしている。フカフカのベッドも身体が痛くなくて快適だ。何日も歩き通しの野営続きで身体だって疲れているはず。事実、眠気もある。それなのに……。
――眠れない。
耳を澄ませても何も聞こえない。隣の部屋は空き部屋なのだろうか。それともすでに宿泊客は眠りについているのか、人の気配がない。時間はすでに深夜を越えた頃だろうか。外から人の話し声が聞こえてくることもなかった。
カーテンが閉められた窓へ視線を向けるとその周辺だけぼんやりと明るい。街灯の弱い灯りが差し込んでいるのだろう。
心桜はため息を吐くと身体の向きを変える。そのとき「心桜様」と瑠璃の囁くような声がした。
「ごめん。もしかして動く音うるさかった?」
「いえ。眠れないのですか?」
「――別に。ただの寝返り」
しかし隣のベッドで瑠璃が動く気配がした。そしてギシッと心桜のベッドが軋んだかと思うと柔らかな感触が背中に触れる。
「瑠璃」
「はい」
「何してんの?」
「眠れないようですので添い寝をしようかと」
「なんでそうなるの」
心桜はため息を吐きながら背中に感じる体温に目を閉じた。
不思議と気持ちが落ち着いてくる。微かに感じる瑠璃の息遣いに安堵してしまうのはなぜだろう。少し考えてからそうかと思う。ここへ来るまでの野営では瑠璃がこうして近くにいてくれたのだ。寝袋越しに彼女の存在を感じることができる距離で。
「……何かあったのですか?」
耳元で瑠璃が囁くように言う。
「何かって?」
「食堂を出てからずっと静かでしたから」
「普段からわたしは静かでしょ」
しかし瑠璃は答えない。心桜は小さく息を吐くと「考えてた」と言った。
「何を?」
「もし目の前で人間が殺されそうになってたら、わたしはどうするだろうって」
ベッドがわずかに揺れた。瑠璃が動いたのだろう。
心桜は目を閉じながら「殺されかけてるのが慎なら絶対に助ける。命に変えても助ける。それは絶対。でもそれ以外の人間だったらどうだろうって」と続けた。
「……時と場合によるのでは?」
少しの間を置いて瑠璃が言った。
「時と場合?」
「あとは、相手との関係性でしょうか」
「なにそれ」
「たとえばわたしが心桜様以外の誰かに殺されかけたとして、心桜様はどうします?」
「瑠璃が殺される前に相手を消し炭にする」
「即答ですね」
耳元を瑠璃の温かな吐息がかすめた。心桜は目を開けて「当然じゃん」と微笑む。
「瑠璃はわたしのものなんだから」
「――では、殺されかけているのが子供だったら?」
「子供……」
「あるいは話したことのある相手だったら? わたしたちに攻撃をしてきた相手だったら?」
心桜が考えていると「助けられる状況かどうかにもよります」と瑠璃は続けた。
「その人間が重傷を負っていて助かるかどうかもわからない場合、あるいは――」
瑠璃はそこで言葉を切った。少しだけ顔を振り向かせてみるが瑠璃の顔は見えない。
「あるいは?」
「人間が自ら死を望んでいる場合」
「死を……」
たしかにその場合もあるだろう。殺してくれと言われることもあるかもしれない。そのときはどうするべきなのだろう。助けるか殺すか、どちらの選択を想像してみても感じることは何もない。罪悪感も喜びも、何も……。
人間だった頃の自分なら少なくとも助けるべきという考えが真っ先に浮かんでいたはずなのに。
「……わたし、もう慎や瑠璃以外の人間に興味がないのかも」
心桜が呟くと、そっと瑠璃の手が心桜の腕に触れた。
「そういう状況に遭遇したことがないから現実的に思えないだけかと思います」
「……じゃあ、瑠璃ならどうする? 助けられる状況で人間が殺されかけてたら」
「わたしの判断は参考にはならないと思います」
「なんで?」
「わたしは殺される側ですから、きっと助けられる状況にはなり得ません」
「そういうこと言ってんじゃなくてさ――」
「心桜様なら大丈夫ですよ」
柔らかな瑠璃の声に心桜は言葉を止める。腕に触れた彼女の手がポンポンと子供をあやすように動く。
「心桜様ならそのときになれば……」
「なれば?」
瑠璃は考えるような間を置いてから「殺すときは殺すでしょうし、助けるときは助けるでしょうから」と言った。
「……なにそれ。どういう意味?」
「心桜様は相手を見殺しにはしないという意味です」
その言葉を聞いて心桜は息を吐きながら笑った。
「でも、この世界の人は見殺しにすると思うよ?」
「エレールさんのことも?」
「それは……」
耳元で瑠璃が「不安にならなくても大丈夫です」と囁いた。
「あなたは魔者であっても人間としての道徳は忘れていない」
「別に不安になんかなってないし」
心桜は言いながら腕に触れていた瑠璃の手にもう片方の手を添えた。温かくて柔らかなその手が、まるで安心させるかのように心桜の手を握ってくる。
「あなたの隣にわたしがいる限り、あなたは人間ですよ。魔者であっても」
「……いなくなるかもしれないじゃん。殺される側なんでしょ?」
「心桜様が守ってくださるでしょう?」
「守れなかったら?」
「そのときは息絶える前にわたしを魔者にしてください」
思わぬ言葉に心桜は身体を瑠璃の方に向けた。すぐ近く、触れそうな位置に彼女の唇がある。その唇が薄く笑みを浮かべながら微かに動く。
「お願いしますね?」
そう言った瑠璃はどこか寂しそうに微笑んでいた。暗闇だというのにその笑みがはっきりと見える。
「……あんたまで化け物になるんだよ?」
「違います。心桜様と同じになるだけです」
「死ねないんだよ?」
「ずっと一緒にいられますね」
「嫌でしょ? わたしなんかと一緒にいるの」
「もし嫌だったら最初から屋敷を出たりしてません」
瑠璃の言葉に心桜は眉を寄せる。
「本気?」
「あなたがわたしを守れなかったらの話ですよ」
心桜は瑠璃の目を見つめる。瑠璃もまっすぐに心桜を見つめてくる。この近さだ。瑠璃にも心桜の顔はぼんやりとでも見えているのだろう。
「……どうすれば人間を魔者にするのか分からないのに」
「たしか、魔力で相手に自分の一部を移植する感じとシャドラ様が仰ってましたよ」
「はあ? なにそれ。意味わかんない」
「まずは魔力をちゃんと操れるようになるところからじゃないでしょうか」
瑠璃は笑う。そして腕を伸ばして心桜の頭をそっと自分の胸元に押し当てた。
「瑠璃?」
「もう遅いです。そろそろ眠りましょう」
「この体勢で?」
「嫌でしたらわたしは自分のベッドに戻りますが」
「……嫌とは言ってない」
ふわふわした感触の心地良さに心桜は目を閉じる。耳にはトクントクンと瑠璃の心臓の音が聞こえてくる。彼女の温もりがじんわりと全身に広がるような気がする。
――なんか、久しぶりかも。
こうして人の体温をしっかりと感じたのはいつが最後だろうか。ふと蘇ったのは、あの屋上で繋いだ慎の手だ。冷たくて柔らかな彼女の手。それよりも以前の記憶を探ってみても触れ合った慎の温もりを思い出すことはできなかった。
当然といえば当然かもしれない。この世界に来るまでは当たり前のようにそばにいてくれた彼女。しかしもう何ヶ月も彼女の声を聞けていない。彼女の温もりを感じていない。ただ記憶の中に無機質なデータのように保存されているだけ。このまま彼女に会えなければ、そのうちこの記憶も薄れていってしまうのだろうか。
――そんなの嫌なのに。
心桜は短く息を吐くと無意識に身体を強ばらせていた。
「――大丈夫です。心桜様」
瑠璃はそう囁くと優しく心桜を抱きしめる。心桜は彼女にしがみつくようにしながら、その温もりに意識を預けていく。せめて夢の中でだけでも慎の温もりを感じられますように。そう願いながら。
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