第3話 ネットの世界
元々絵を描いていて、絵の中の世界自体がバーチャルなのだ。中学の頃までは、絵を描くことが嫌だった。
「下手だから」
というわけではなく、バーチャルな世界を思い浮かべても、しょせん絵の中は、キャンバスや画用紙の中の世界であり、それ以上ではない。どんなに大きなものでも、目の前の小さなものに変わってしまうことが気持ち悪かった。
写真に関してはそうでもないのに、油絵やデッサンに関しては、バーチャルな世界を意識してしまう。
写真は寸分たがわぬむので、角度や明暗によって、若干見方が違ってくる。それが写真家にとっての醍醐味なのだろうが、バーチャルな世界を思い描くには、ちと役不足であろう。
ネットの世界に嵌ったのは、三十歳代だった。その頃まで、孤独と寂しさに苛まれていたはずなのに、ネットの世界を垣間見ることで、それまで孤独と寂しさに苛まれていた自分が信じられないと思うようになっていた。
最初に嵌ったのはたくさんの人がテーマに沿って集う、
――オープンチャット――
と呼ばれるものだった。
まったく知らない者同士が、文字だけで会話する。もし、大学時代までだったら、自分はチャットなどしたであろうか?
――チャットなんて、友達もいない寂しい連中がするんだ――
と思ったに違いない。
もちろん、そのことを否定しているわけではない。実際に三十歳を過ぎた自分は、寂しさと孤独から逃れるために、チャットをしてみた。それが楽しくなったのだから、嵌ったと言われても仕方がない。
嵌ったことに対して否定はしない。しかし、同じ寂しさや孤独からチャットを始めたとしても、別に逃げる気持ちで始めたわけではなかった。
――興味本位でやってみて楽しかったから――
ただ、それは他の人も同じなのかも知れない。知らない人が表から客観的に見て、
――逃げに走った――
と思っているだけのことだ。
――気にしなければいいだけだ――
学生時代までは、逃げという言葉に敏感で、少しでも逃げていると思われるようなことは避けてきた。しかし、孤独を寂しさは、そんな逃げという言葉を感じさせないほど、自分を強くするものだった。確かに後ろ向きの考え方だが、強くするという思いから考えれば、悪いことではないように思う。
チャットでは、趣味、年代別、友達募集などのような目的別の部屋が設けられていて、好きなところに参加することができる。俊治は、趣味を持っているわけでも、友達募集というわけでもなかったので、年代別を選んだ。同年代であれば、気持ちが分かる人もいるだろうという考えだった。
チャットといえど、やはり話をしたいのは女性だった。元々の孤独を作った理由が女性にあるのに、やっぱり女性を意識する。
――相手のことが分かりすぎるのは窮屈だ――
という思いから、どうにも男性と仲良くなりたいという思いはなかった。自分が変わり者だということは自覚しているつもりだったが、それは人と親密になるのをどこかで嫌っているところがあるからで、相手が女性であっても、あまりべったりとくっつくのは好きではなかった。
だが、それも最初はべったりでも嬉しいと思う。別に嫌な思いもないのに、どこかで糸がプツンと切れると、急に相手をうっとおしく感じてしまう。
そういう意味ではネットというのはありがたかった。相手が男であれ女であれ、見えない相手なので、べったりという感覚がなく、冷静に見ることができる。しかも、文字を書いている自分を客観的に見ることもできて、主観的な自分と客観的な自分を使い分けることができると思うようになってきたのだ。
ただ、そう簡単ではないことが分かっているが、
――二つの自分を使い分けることができたら、爽快だろうな――
と思うようになっていた。
ネットの世界を一度覗いてしまうと、何でもできてしまうような錯覚に陥ってしまうから不思議だった。まるでゲームセンターでゲームをしているような感覚に陥ったりもしていた。寂しさを紛らわすため、加奈と別れてからゲームセンターに立ち寄って、時間を潰していたりした時期もあった。
パチンコやスロットは嵌ってしまうのが怖かったのでやらなかったが、ゲームも数か月間ほどやるとすぐに飽きてしまい、やらなくなった。その間に、以前本を読んでいたことを思い出し、読むようになった。今までゲームをしていた時間、本を読むのに当てたのだが、本を読むことに関しては飽きることはなかった。ある意味、ゲームをしていた時期があったから、読書に飽きることがなかったとも言えるような気がして、
――何が幸いするか分からないな――
と、孤独の中でも意外と楽しみを見つけることができるものだと感じるようになっていた。
子供の頃のことを思い出していた。
子供の頃には、今のように楽しいことがそこら中に転がっているわけではなかった。まだまだ子供は表で遊んでいた時期で、ゲームセンターというものすらなかった時代だ。
せめて、デパートの屋上にゲームが置いてあるくらいで、日曜日になると、家族でデパートに出かけ、子供は屋上のゲームをしたり、家族でファミリー食堂と呼ばれる大衆食堂や、社員食堂のようなスペースのところで食事をするというのが、普通の家庭の定番だった頃のことである。当時はまだ、高度成長時代。今とはまったく違っていた。
――そういえば、ゲームセンターなどが流行るようになったのは、自分が大学に入る頃のことじゃなかったかな?
その頃のゲームというのは単純なものが多く、さらに種類も少なかったので、誰でも同じ種類のゲームをすることで、点数を競い合ったものだった。平均水準の点数があり、それを超えたか超えないかで一喜一憂していた時代があったことを、今さらながらに懐かしく思えていた。
そんな時代を懐かしく思えるのは今になったからであって、ネットに嵌っていた頃というのは、
――どうしてこんな楽しいものを知らなかったんだろう?
と思い、他のものに目もくれなかった。
大学時代、友達は多いと思っていたが、それは挨拶程度の友達が多いだけで、実際に話をする友達が多かったわけではない。友達の数が多ければ多いほどいいと言うわけではないのは分かっているが、友達の数の多さを自慢したいという思いがあったのは事実だったのだ。
挨拶する友達の数が多いだけでもよかった。それだけ自分がたくさんの人と仲がいいのをまわりに見せつけることで、
――それだけ慕われているように見えるのではないか――
ということを、まわりに思わせることができると思っていた。
しかし、冷静になって考えると、それは逆効果だ。それが分からなかったのは、実際に自分の友達に、同じようにたくさんの連中と挨拶を交わしている人がいて、見ているだけで、慕われているようで羨ましかったからだ。
――隣の芝生は青い――
という感覚と同じではないだろうか。
それも、大学のキャンバスという独特の雰囲気の中にいるから感じることだろう。しかも、大学生というと、苦しかった受験勉強から開放され、
――夢にまでみた大学生活――
である。少々、有頂天になっても仕方のないことなのかも知れない。そんなことは卒業して冷静になって、社会人ともなれば、
――夢だった――
ということは分かりそうなものだが、俊治はそれでも、
――また同じ環境になれば、同じことを繰り返すことになるかも知れない――
と感じた。
大学キャンバスの雰囲気は独特で、同じ過ちを何度も繰り返さないとも限らない、麻薬のような効果があることを、今でも分からないのだ。
大学時代は夢物語を絵に描いたような時期だった。
楽しいこともあり、楽しかったという思いは残っているのに、思い出しても、気持ちがときめいたりしない。だから、考えが甘かったと分かっていても、同じ過ちを犯してしまうと分かっていても、
――もう一度ときめきたい。そして、今度こそ忘れたくない――
という思いから、
――同じ環境になったら、また同じことを繰り返すに違いない――
と、思うのも仕方がないことだとして片づけていいのだろうか?
大学時代には、パソコンというものは、まだまだ普及していなかった。理学系の学部に、電算科というのがあり、コンピュータ室というのがあるくらいで、普及されているという話はどこからも聞こえてこなかった。一般企業でも、事務所に数台ある程度で、社員一人に一台などというのは、夢のような話だった。
俊治がちょうど三十歳になったくらいに、会社でも一人に一台くらいの割り合いで普及していった。会社では社内ネットワーク、そしてインターネットなどという言葉が言われ出したのもその頃だった。
「これ、おもちゃみたいだよな」
と、誰もが言っていたのが、マウスである。今では欠かすことのできないものだが、最初は何となく扱いづらかったような気がする。ただ、人によって扱い勝手はまちまちであるように、最初は皆初めてなので、もの珍しさからいろいろなことを感じていたに違いない。
「パソコンと携帯電話がなくてはならないものになるなんて、最初は思わなかった」
と、言っていた人が、俊治もまさしく同じ気持ちだった。
ネットカフェというものが普及し始めた頃、俊治はまだ自分のパソコンを持っていなかった。最初の頃は今よりも高価で、インターネットをするだけなら、ネットカフェで十分だと思っていた。二十四時間営業で、一泊となれば、カプセルホテルよりも割安だった。ネットカフェに泊まったことも何度かあり、ネットをしていると寝不足になるのも分かっていながら、それでもやめられないのは、新鮮な気持ちになれるからだった。
ネットカフェで始めたチャットだったが、最初はネットカフェ内のチャットだった。
少なくとも同じフロアにいる、誰だか分からない人と話ができるというのは新鮮だった。その時は、ジャンル別のチャットではなかったので、若い子もいたりして、ドキドキしたりもしたものだ。
だが、そのうちにネットカフェ内のチャットが閉鎖された。ハッキリとは分からないが、あまりにも近くにいるということが分かると、何かの犯罪になりかねないということがあったのかも知れない。いつの間にかなくなってしまったチャットに一抹の寂しさを感じながら、本当のネット上のチャットを楽しむようになったのだ。
同じ年代の人とチャットしていると、いろいろな話が聞けたりする。
特に三十歳代というのは、いろいろな人がいる。俊治のように独身男性もいれば、結婚していたが別れた人、また結婚生活に疲れかけている人、それぞれだった。
ただ、三十歳代のチャットと言いながら、別に年齢認証しているわけではないので、別の年代の人もやってくる。学生から、中には五十歳になったという人もいたりして、結構三十歳代は、盛り上がっていた。
俊治はチャットをしていて一つ気が付いたことがある。
――ここでは、違う自分を演じることもできるけど、俺の場合は、本当の自分を出しているような気がする――
と感じたことだ。
そして、自分がそう感じるのだから、他の人も同じなのかも知れない。実社会での自分が仮面をかぶっていて、バーチャルな世界の自分が本当の自分だなどというのもおかしなものだが、
――相手を見ることができないし、相手からもこちらを見ることはできない――
という観点から、思いきったことができるのだろう。
それが、本当の自分を表に出すことであって、今までの自分に一番欠けていた部分なのではないかと思うと、自分がなぜチャットの世界に嵌ったのかということが、分かってくるような気がしたのだ。
俊治が最初に気になったのは、一人の女性だった。
俊治も彼女もどちらかというと地方の人間で、彼女とは距離はあるが、同じ県人仲間であった。さらに、俊治がチャットに入ってくる時に、ちょうど彼女がいたり、逆の時もあったが、必ずと言っていいほど、二人は一緒になることが多かった。
一日の中でチャットに入る人数の少ないこともあり、三、四人しかいない中の二人が、俊治と彼女だったりもした。そうなってくると、お互いに意識しない方がおかしいというものだ。
そのうちに彼女が、メッセンジャーという機能を教えてくれた。
「チャットだと、たくさんの人がいたり、表から見ている人がいるので、あまり込み入った話はできないけど、メッセンジャーを使うと、ツーショットで話ができるので、便利でいいですよ」
と言って、使い方を教えてくれた。
なるほど、表ではチャットに加わっていても、裏ではツーショットで話をしている。それはそれで楽しかった。
実は、メッセンジャーには、もう一つの効果があった。
チャットというのは、文字だけなので、誰か分からない。そのため、なりすましということもありうる。つまりは、誰かの名前を語って、その人になりすまし、その人の名前で場を荒らすこともできるわけである。しかし、メッセンジャーで繋がっていれば、本人と話している人が、表に出ている人が本物か偽物かを公開することで、場の平和を保つことができる。
ただ、それも限界があり、荒れ果てた場がそのまま閉鎖されたこともあった。やはりネットは難しいものである。
地域別のチャットではそんなことはないのだが、年齢別だったり、ジャンル別のチャットだと、全国から集まってくる。そうすると、どうしても関東や関西に集中してしまうのは仕方がないこと、これが、チャット仲間の信頼を崩して行くことに繋がることもあるのだ。
関東の人たちは、どうしても人が多い。しかもメッセンジャーで繋がっていたりすると、次第に、
――皆で会おう――
という空気になっても仕方のないことだ。
俊治も自分が関東に住んでいたら、その話に乗ったかも知れない。いわゆる、
――オフ会――
というものだ。
――週に一度は関東のどこかでオフ会をしている――
などという噂が流れてくるくらい、同じ地区の人は馴染んでしまってくる。そうなるとチャットでの会話も知らず知らずにオフ会や地域性の話題になったりする。地方の人間にとって、これは辛いことだった。
「遠くの人とでも、ネットに乗せて話ができる」
というのが、チャットの「ウリ」のはずなのに、これでは地方の人間には溜まったものではない。
「そんなことはメッセンジャーでやればいいんだ」
と、地方と中央との間で、亀裂が生まれてくる。
ただ、中央の連中皆が一枚岩かというと、実はそうではない。人数が増えれば増えるほど、
――派閥が生まれる――
ということになっているようだった。
派閥争いになってくると、宙に浮いている人間は板挟みにあってしまうことになる。気が小さな人は、そのままチャットに行かなくなったり、まわりから嫌われていけなくなってしまったりすることだろう。地方の人間から見れば、
――ざまあみろ――
と言いたいところだが、ここまで来ると、チャットどころではない。閉鎖にならないまでも、チャットの存在は有名無実にしかならないのだ。
――せっかく仲良くなったのに――
と悲しい気持ちにさせられる。
俊治は、チャットに行かなくなってからも、彼女とだけは、メッセンジャーで会話を続けていた。ただ、彼女は主婦で子供もいたので、なかなか恋愛感情に持っていくことはできなかった。だからこそ続いたのかも知れないが、彼女はハッキリとは口にしないまでも、離婚したいと心の中で思っていたようだ。さすがに結婚したことのない俊治はそのあたりの気持ちに気付くのが遅れたが、話し始めて数か月で、彼女のことはある程度分かるようになっていた。
彼女の名前は亜季と言った。ただ、チャットでの名前なので本名かどうか分からない。
そういう俊治も本名を使っているわけではない。チャットの中では、克也と名乗っていた。
亜季は主婦であることを理由に、俊治と会おうとはしなかった。俊治は最初こそ、会いたいということを口にはしなかったが、チャットデビューから一年が経った頃、そして亜季を気にし始めて九か月が経っていた。
実はその頃になってくると、チャットに行くことはほとんどなくなった。どうしても、派閥争いがバカバカしく感じられるようになり、数人とメッセンジャーで話をする程度になっていた。
亜季もメッセ仲間は数人はいるようだった。亜季が、俊治からの誘いを他の人に相談しているかどうか分からない。相談しているなら、それはそれで構わないと思っている。相談してくれた方が、頑なに拒否する亜季の心をこじ開けてくれるのではないかと思ったからだ。
なぜそう感じたかというと、亜季がチャットをしていた理由は、
――家庭を持ちながらでも、その家庭の中で自分だけが孤立している――
と思ったからのようだった。
実際にどうなのか分からないが、そんな亜季だから、一線を超えるにも勇気がいるだろう。
しかし、自分一人では越えられない一線も、誰かが背中を押してくれれば、意外と簡単に越えられるものではないかと思っている。
なぜなら、亜季は心の中でそのことを望んでいるからだ。
得てして自分一人で頑なに拒否していると、後ろから誰かが近づいてきても分からないだろう。その人から背中を押されて前に出たとしても、背中を押されたという意識すらなかったのではないだろうか。
最初は本当に硬くなだった亜季だったが、ある日急に、
「克也さん、会ってください」
と言ってきた。
その頃にはすでに、電話で話をするくらいにはなっていた。
「旦那に携帯見られたりしないのかい?」
と聞くと、
「もう、そんなこともしなくなったわ」
と言っていた。
最初はそれがなぜなのか分からなかったが、どうやら、亜季の旦那の方も不倫をしていたようだ。
「私もあなたと不倫することで、ダブル不倫だわ」
と言って、ほとんど諦めの境地なのか、
「私は不良主婦です」
と言わんばかりに、想像していた亜季とは違い、
――根性の座った女性――
というイメージを抱かせた。
――こんな女だったんだ――
と、少し失望したのは事実だったが、却ってこんな女だと思った方が俊治も気が楽だった。
「会おうよ」
と誘った手前ではあったが、さすがに後ろめたさがなかったわけではない。しかし、旦那が不倫しているからということで、今まで頑なだった女が豹変したのだから、背徳感も薄れていった。
ただ、彼女が会おうと決心したのは、旦那の不倫だけが原因ではなかった。彼女にはメッセで話をしている女性がいた。もちろん、チャットでは話をしたことがある女性だったが、どうやら彼女が背中を押したようだった。
「こんな私でもいいの?」
会ってからずっと
――不良主婦――
を演じてきた亜季が、流れに任せるかのように、ホテルの部屋に入ると、急に大人しくなって、借りてきたネコのようになってしまった。それまでの不良ぶりが板についていたことから、完全にペースに飲まれてしまっていた俊治は、ホテルの部屋にいつの間にか、連れ込まれたような気分になっていた。だが、ホテルに入ってからの亜季は、チャットやメッセで話をしている、
――気が弱い主婦――
になっていた。急に背徳感がよみがえってきたが、ここまで来ると、すでに自分を抑えることはできなくなっていた。それは、亜季も同じことのようだった。
亜季にとって、俊治はちょっとした火遊びだったのかも知れない。俊治としても、最初は相手が主婦だからと思って、女性として意識していなかった。元々がネットで相手の顔が見えない仲、恋愛感情になるなどありえないと思っていた。
しかし、気が付けば、会いたいと思うようになり、会ってから、どんなデートをしようかなどと、勝手な妄想をしていた。相手は主婦なので。デートと言っても、お忍びでしかできないのが分かっていながら、妄想を繰り返していた。
後から思うと、かなり早い段階から、亜季に対して恋愛感情を抱いていたような気がする。
ネットだからこそ、相手が見えないからこそ、想像は妄想に変わってくる。お互いにいい印象だけしか持っていないので、もし会った時に、
――ガッカリしないようにしよう――
と思っていたが、そう思っていたからこそ、会った時に感じたときめきは、ひと際大きかったように思う。
「本当、文字や声ではいつも一緒だと思っていたけど、実際に会うのは初めてなのに、初めて会うような気がしないのよ」
と、亜季は言ってくれた。
「俺だって」
自分の気持ちをそのまま表現してくれた亜季に対し、余計な言葉は必要なかった。自分の言いたいことを、亜季がすべて言ってくれるような気がしたからだ。
二人が会いたいと思ったのはチャット仲間との決別という意味でも大事なことだった。
二人が急接近したのも、元はと言えば、チャット仲間で作っている、
――派閥のようなもの――
が影響していた。
俊治にとって亜季は、派閥に対してウンザリしている自分の気持ちを一番分かってくれる相手であり、話をしているうちに、自分のことを慕ってくれているのが分かってくると、亜季が主婦であるという意識が次第に薄れてくる存在になっていた。
しかし、それでも、
――彼女は主婦なんだ――
と、自分に言い聞かせていたが、次第に彼女が家庭のことを話してくれるようになると、複雑な気分になってきた。
家庭のことを話さないのが、チャットのルールのように思っていたが、それはあくまでもオープンチャットでの話であって、全体の雰囲気を壊しかねないことから、あまり家庭のことを話さないのが暗黙のルールのようになっていた。
しかし、俊治と亜季はメッセンジャーで繋がることで、他の人から隔離された二人だけの世界を作ることができた。
それでも、亜季がどう思っていたのか分からないが、俊治としてみれば、
――自分は自由だが、亜季には家庭がある。壊してはいけない――
という思いがあった。
それは、あくまでも亜季が自分の家庭を後ろに背負っているという感覚がある間だけのことである。いくら仲が良くなったと言っても、ネットの世界で知り合った相手、会うまではバーチャルでしかないのだ。
しかし、本当に会ってしまうと、今度は、そこから引き返すことはできなくなる。ある程度お互いを知った上で会うのだから、それなりの覚悟が必要であろう。
それは、亜季にとってもちろんのことだが、俊治にとっても同じこと、会う以上、
――責任がまったくない――
などということはできないのである。
ホテルでの亜季は、何かを忘れてしまいたいという気持ちが強く、しがみついてきた。そんな亜季を愛おしく思うようになった俊治は、亜季と会ったことを後悔しなくなっていた。
「あなたには迷惑を掛けない」
という言葉を聞いて、ずっとそれを信じていた。
亜季は、俊治に対して、確かに迷惑を掛けることはなかった。俊治も自分から連絡を取ることはなく、いつも連絡は亜季の方からだった。
――相手の旦那も不倫しているんだから、自分は堂々としていればいいんだ――
という思いから、亜季に迷惑を掛けられるという思いは正直なかったのだ。
亜季と一緒にいるようになってから、俊治は少し変わってきた気がした。
お互いに好きになっているのは間違いないが、亜季が何を考えているのか分からない。
最初は、
――近い将来、離婚するんだ――
と思っていた。ただ、亜季が離婚したからと言って、堂々と付き合うことができるようにはなるが、だからといって、亜季と結婚しようというような気持ちは薄かった。
――俺の方が立場的には強いんだよな――
独身で、バツもついていない男である。相手は、今は主婦だが、離婚すればバツが付くことになる。そういう意味での立場を計算に入れている自分が、時々虚しく感じることもあった。
ただ、亜季を見ていて、時々自分が孤独であることに気付かされることがあった。確かに亜季は、家庭に嫌気が差していて、俊治を心の拠り所として頼ってきてくれている。
それはとても嬉しくて、男冥利に尽きるのだが、それでも、どんな家庭であっても、帰るところがあるのを羨ましく感じるのだ。
――ひょっとして、俺は運命に踊らされているだけなのかな?
と、感じることもあった。
亜季は今でこそ、家庭に嫌気が差しているが、もし旦那が謝ってきて、それを亜季が許さないとも限らない。そうなれば、俊治は一体どうなるというのだ。
掛けていた梯子で相手を逃がすつもりで昇らせて、その梯子を外されたために、自分だけが敵の矢面に晒されることになるというようなものである。自分を盾代わりに使って、それでのうのうと生きながらえている人がいると思うと、やり切れない気分になってしまう。
だが、その可能性は非常に低い。そんなことを考えていては、不倫などという大胆な行動に付き合ってはいられないだろう。ただ、これも俊治の性格の一つで、
――ついつい余計なことを考えてしまう――
どうして自分が孤独だということを思い知らされたのだという理由にはならない。
俊治は亜季と会っているうちに、
――亜季は離婚しなくてもいい――
と思うようになっていた。
最初は、離婚されても、自分が結婚できるわけではないと思っていたが、途中から、離婚してくれれば、自分が亜季と結婚するという気持ちに変わっていた。
それは、亜季という女性を知ることで、自分の気持ちに正直になってきたのだということを感じたからだ。
せっかく、不倫をしてまで自分を慕ってくれているのだから、お互いに愛し合っている者同士、結婚するのが一番だと思うようになっていた。どうせ、三十歳も後半が近づいてくる一度も結婚したこともない独身男性。それだけで、結婚には大きなハンデがあることを分かっていた。
三十歳を超えたくらいから、
――このまま俺は結婚できないんじゃないか――
と思うようになっていた。
加奈や、幹江との別れをほぼ同時期に経験し、まるで自分が一気に十歳近く年を取ってしまったと思っていた俊治にとって、三十歳を超えた頃というのは、意識としては、四十歳が見えてきたような感覚だった。
だが、三十歳を超えた頃から、俊治は自分が急に年を取っているという感覚がなくなってきていたようだ。深く意識していたわけではないが、それが、
――毎日を無為に過ごしている――
という感覚だった。
それだけに、月日が経つのはあっという間であり、実際に経った時間よりも、自分は年を取っていないような感覚になっていたのである。
何も考えずに、
――その日一日が無事に終わってくれればそれだけでいい――
という思いがあった。
そんな毎日を、俊治は孤独だと思ってはいたが、寂しいとは思わなくなった。
それまでの俊治は、孤独と寂しさを同じものだと思っていた。だが、そのうちに少し考えが変わっていた。
――孤独と寂しさは決して同じものではない。何が違うかというと、レベルが違うということではないか――
と感じるようになった。
寂しい時は、孤独感が募っているが、孤独だと思っている時には、必ずしも、寂しいと思うわけではないと感じるようになっていた。孤独だから寂しい時もあれば、孤独以外で寂しい時もある。孤独以外で感じる寂しさは、
――一晩寝れば、忘れてしまうことができる寂しさ――
のように、一時の感情が引き起こすものではないだろうか。
俊治と亜季との関係は、半年ほど続いた。結構続いたと思ったのは、その間に亜季は離婚する様子もなく、最終的に家庭に戻って行ったからだった。
俊治もそれでいいと思っていたはずなのに、実際に亜季が家庭に戻っていくと、本当に外された梯子を羨ましげに見ている自分を想像し、情けないというよりも、可哀そうに感じられた。
そう思うと、その後に襲ってくるのは、無性に強い孤独感だった。
この孤独感は、寂しさを頂点に頂くことになった。ただ、それも自分を客観的に見ているから感じることのできる感覚だった。
亜季が自分の前から去って、しばらくネットの世界に入ることもなかった。それまで自分がバーチャルの世界に入りこんでしまっていて、抜けられなくなってしまうことを分かっていた。だが、幸か不幸か、亜季は自分の家庭に戻って行った。後に残ったのは孤独感と寂しさだけだったが、
――今の俺なら、バーチャルな世界から抜けられるかも知れないな――
と感じていた。
だが、実際に抜けることはすぐにはできなかった。また最初の時のように、オープンチャットに入ってみた。
そこにいる人たちは、まったく知らない人たちばかりだった。だが、数日入ってみると、以前からいた人もまだ残っていることを知り、少し安心した気分になったが、逆に、残っているのを感じると、余計に寂しさを煽られたような気がして、複雑な気分にさせられたのだ。
その時にいたのは、以前から目立たない人だった。時々一緒になることがあり、その人とも、結構人が少ない時に一緒になったことがあった。
これは後から聞いた話であったが、彼と人が少ない時に会ったというのは、偶然ではなかった。彼は、最初から人の少ない時間を見越して入っていたのだ。
――ひょっとすると、表から見ていて、人が少なくなったと思ったら、入ってきたのかも知れない――
それは、彼があまり人と話すのが上手ではないからだと思ったが、それなら逆に人が多い時に黙って入っている方がいいような気もした。人が少ない時というのは、彼がしていたように、表から見ている人も多いかも知れないと思ったからだ。彼がそのことを分かっているのかどうか、俊治には分からないが、どちらにしても、オープンチャットの実情を知ってしまうと、最初の頃のような楽しさを味わうことはもうできないのだ。
彼は、自分たちがいた頃の常連が去ってしまっても、ずっとここにいたようだった。他の新参者は、彼が以前からいたことを知っていて、長老という表現をしていたが、彼はそう言われることを嫌っているわけではない。
かといって、他の人から長老であることで、部屋の中心人物として君臨したいという意識はない。ただ、その場所に漂っているだけだ。しかも、存在感は昔とちっとも変わっていない。目立つこともなく、ただ、端の方に黙っているだけのことだった。
彼もメッセンジャーを持っていて、以前、メッセンジャーで話をしたことがあったので、聞いてみたが、
「別に他に行くところもないので、たまにここに来ているだけだよ」
「俺はあれからいろいろあったけど、ここは変わっていないようだね?」
「そんなこともないさ。いろいろな人が現れては消え、大体一年の周期で、人が入れ替わるって感じかな?」
「俺たちの頃の常連は、もう誰も来ないのかい?」
「いや、数人はくることもあるけど、すぐに落ちて行ってしまうよ。ほとんど会話をすることもない。ただいるだけって感じだね」
「君と変わらないじゃないか?」
「そうなんだけど、僕とは違っている。僕の場合は、漂っているだけだけど、他の人たちは、最初に入ってきた時と明らかに出る時では心境が違っているように思う。きっと、浦島太郎のような感じなんだろうね」
「実は俺も今、浦島太郎の心境なんだ。他の連中と同じなのかも知れないな」
「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない」
「やけに、投げやりな言い方だな」
「そんなことはないさ。ここにいると、いるだけで、何かその時の悟りのようなものを感じる気がするんだ。ただ、その時だけしか有効期限のない悟りなんだけどね」
「やっぱり、バーチャルなんだな」
「そうさ、どこまでそう思えるか、それが問題さ」
「俺は、いろいろあった中で、ネットから離れようと思ったんだけど、結局戻ってきたんだよな。お前はずっといたんだよな?」
「俺も離れようと思って、実際に離れた時期があった。ただ、それは自分の目標に向かって進んでいる時だったので、それはそれでよかったと思うけど、目標を達成してみたら、気が付けば、またここにいたんだ。でも、その期間、俺が来なくなっていたことに気が付いたやつはほとんどいなかった。おかしなものだよ」
彼の話を聞いているうちに、自分が浦島太郎になったような気がしていた。そして、取り残されたという意識がよみがえってきて、
――今までに、何度自分が取り残されたと感じたのだろう?
と思ったのだった。
だが、今さら、昔いたチャットに戻ってきたからといって、そこに自分の居場所がないことは最初から百も承知のはずだった。それでも、
――昔いた人を一人でも見つけられたら――
と思っていた。
見つけたからと言って、嬉しいわけではない。ただ話が聞きたかったのだ。彼がどんな気持ちだったのか、最初は同じ地点から出発して、同じ時間、違う環境でどのような心境になって行ったかということを知りたかったのだ。
ただ彼がこの場所にいたというだけで、別に同じ出発点からであれば、誰でもよかったのかも知れない。
「ただ、俺が最近感じているのは、『物事には、タイムアップがある』ということなんだ」
「どういうこと?」
「過去から何かを引きづっているとすると、それを解消するには、カウントダウンのようなものがあって、いずれタイムアップするようなイメージを感じるんだ」
「じゃあ、君も何かを引きづっているということ?」
「たいていの人は、一つや二つ、過去から引きづっているものがあるんじゃないかな? その時に解決できないことはすべて、過去から引きづっているものなのさ」
言われてみればその通りだった。
過去から引きづっているものを、どのように考えるかによって、生き方も変わってくる。一気に生活を変えてみようと思うのか、それとも、今のままを貫こうとするのか、その人の性格によっても変わってくるが、それよりも、その時々の心境の違いは、結構大きいに違いない。
「君は、この場所に今もいるということは、何かを貫こうという思いがあったのかい?」
「そこまで大きな感情はないさ。いろいろ考えたり、環境を変えてみようと思ったりしても、結局は同じこと、何かが変わるわけではない。そう思うと、却って環境を変えることを僕は拒んだだけだよ」
「俺は、環境を変えたかったわけじゃない。どちらかというと、環境が変わったのは必然だったというべきなのかも知れないな。不謹慎な言い方かも知れないけど、環境に飽きてきたという言い方が一番ふさわしいのかも知れない。そう思うと、またここに戻ってきたとしても、それは、ぐるっと回って気が付けばここにいたという程度のものなのかも知れない」
「偶然だというのかい?」
「偶然というわけではないが、しいて言えば、『何かの大きな力に導かれた』という感じになるのかな?」
「僕はあまり、そんな風には考えたくないんだ。納得できないことを納得させるための言い訳のようにしか聞こえないのでね」
さすがにズバリと言われれば、言い返す言葉もなかった。本当なら、そこまで言われれば、もっと怒ってもいいのかも知れないが、俊治は不思議と怒りがこみ上げてこない。
――こいつのこの言葉は俺に言っているというよりも、自分に言い聞かせているように感じるからな――
と思うことで、怒りがこみ上げてこないのだ。
彼との会話は、声に出したものではなく、メッセンジャーでの文字によるやり取りだった。
もし、これが声での会話であれば、ひょっとするとここまで続かなかったかも知れない。それだけ二人の考え方は違っていた。同じところを目指しているのかも知れないが、歩み寄れる範囲ではないと思えてきたのだ。
最後のセリフはそれを決定づけた。
その思いが、怒りとして残らなかったからだ。
――彼が言わなければ、俺が挑発していただけのことだ――
と、感じた。
こんな話をしていると、俊治はもうこれ以上、彼に関わりたくないと思うし、チャットにも顔を出すことはないだろうと思うようになっていた。ただ気になっていたのは、彼が言っていた、
「タイムアップ」
という言葉だったのだ。
彼と話をしていると、亜季のことを思い出していた。
――もし、亜季が主婦でなければ、どうなっていただろう?
そもそも、チャットをしていたとして、同じ年代の人との話になるだろうか? 他に趣味を持って、趣味の話ができる部屋に入るのではないだろうか。
いろいろ考えてみたが、
――亜季が主婦でなくても、やっぱり、同じ部屋に来ていただろうな――
と感じた。
俊治と知り合って、メッセンジャーで話をするくらいにまではなっていたかも知れない。しかし、そこで俊治に対して恋愛感情を抱くかどうか、疑問だった。
――亜季は主婦だから、俺を選んだのかも知れない――
独身の目で見ていれば、もっと他に好きになる人がいたかも知れない。ひょっとすると、妻帯者を好きになったりするかも知れないと思うと、不思議な感覚だった。自分に持っていないものを持っている相手に惹かれるというのは、よくあることだ。
そう言えば、亜季がおかしなことを言っていた。
「私、時間ないのよね」
「えっ?」
思わず聞き返したが、すぐに照れ笑いしたかのように、
「いえいえ、何でもありません」
と、否定した。
最初は、何かの病気なのかも知れないと思い、もしそうなら、少し気弱になっているところに自分が入りこんでしまったのかも知れないと思った。そうであるならば、亜季と別れることはない。つまりは、亜季の方から別れるということを言い出すはずもないと思っていた。
しかし、実際には、ハッキリと別れると口にしたわけではないが、明らかに亜季の方から別れを切り出したようなものだった。最終的に家族の元に帰っていく亜季の背中を見なければいけない俊治は、一体、どんな表情をしたらいいのだろう?
亜季は病気ではなかったのだ。ただ、心の病であったことに違いはないが……。
――では何故、時間がないと言ったのだろう?
俊治は、考えていた。
切羽詰ったような言い方ではなく、さりげなくボソッと呟いたのだ。ひょっとすると、口走ったことを、本人も意識していない。
――あの時に、自分の将来が見えたのかも知れない――
とも感じた。
自分の将来というのは、いずれは自分の元の家庭に帰ってしまうということである。そう考えれば、俊治とのことに、
――時間がない――
と言ったことも頷ける。
そして、俊治にそのことを正された時、咄嗟に誤魔化そうとしたのも、分からないわけではない。
亜季が、そんなに勘が鋭い女性だったような気はしなかった。いつも何かに怯えているようで、触れただけで壊れてしまいそうな雰囲気だった。
そんな態度が男心をくすぐるのだが、そうでもないといくら自分が独身だとはいえ、主婦との情事に憧れはしても、実際に嵌ってしまうなど、それまで考えたこともなかった。
亜季は、実に従順な女性だった。俊治のいうことに逆らうことはなく、
――他の女性なら嫌がるだろうな――
と思うようなことも、平気な顔でしてくれる。
「私、あなたのためなら……」
この言葉に俊治は舞い上がってしまった。
「俺だって、君のためなら何だってできるさ」
と、ベッドの中の戯言でしかなかったはずの言葉が、本心になりつつあった時期が存在したのは確かだった。
ただ、それはバーチャルな世界の延長線上だった。明らかに現実の世界だけでは知り合うこともなかったはずの二人である。もし、話をする機会があったとしても、本音を話すなどありえない。お互いに異性と知り合うとすれば現実世界がよかったと思っているくせに、バーチャルで知り合ったことをよかったと思っている。それは現実では味わえない胸のときめきを、妄想という形で表すには、バーチャルな世界ならではでしかありえないだろうと思えたからだ。
亜季が言った
「時間がない」
という言葉、それからずっと忘れられずにいたが、ある日を境に急に頭の中から消えていた。しかし、それを思い出す時が来ると、今度は忘れてしまった時のことをある程度ハッキリと思い出せるようになっていた。それだけ記憶というものは曖昧で、中途半端なものなのだろう。
――亜季は最初から、家庭に帰るつもりだったのだろうか?
そんな後ろ向きの考えが頭を巡る。いや、そんなことはないと自分に言い聞かせるが、それも虚しさを含んでいた。
だが、孤独をいつも正面に見ている俊治は、亜季が家庭の中で浮いてしまい、自分の居場所を求めていて、もがいてもどうしようもなくなってしまったことから、俊治に靡いたのは分かっている。だが、それは俊治が望んだことではなく、相手から歩み寄ってきたことだった。
――言い方は悪いけど、「棚からぼた餅」のようなものだ――
と、他力本願での幸せであったことに目を瞑っていたような気がする。
目を瞑っていたとするならば、亜季が求めていた幸せが、本当は疑似であることを分かっていたはずなのに、そのことを考えようとしなかったことが、一番目を瞑っていたことになるのではないだろうか。
他力本願で手に入れたものなら、自分の意志にそぐわなくても文句を言う資格などないのかも知れない。そう思えば、亜季が家庭に戻っていくことも仕方のないことであろう。それを責めることはできない。責める相手は亜季ではなく、分かっていて目を瞑ってしまっていた自分にある。
俊治はいつも、最後には自分が悪いということで自分を納得させてきた。それが自分に対して、
――後ろ向きな考え方――
であることに気付いていなかった。
「時間がない」
という言葉の意味は、亜季が俊治に対して、
「気付いてよ」
という言葉を投げかけていたと考えるのは、少し飛躍しすぎなのかも知れないが、的を得ていないわけではない。
俊治は、今まで女性と付き合ってきて、自分から相手をフッたことはない。すべて相手から愛想を尽かされたり、嫌われたりしたのだ。
俊治が付き合っている女性のことを、嫌いになる瞬間がなかったわけではない。些細なことでは、相手のことを、
――この人、こんな人なんだ――
と思うことは少なくなかった。
しかし、すぐにそんな思いは忘れてしまう。そうでなければ、喧嘩が絶えなかった加奈と付き合ってこれなかったからだろう。
かといって忍耐強いわけではない。加奈との場合には、何度かこちらから突き放そうと感じたこともあった。
それなのに、ちょうどのところで、
「ごめんなさい」
と言って、加奈は謝ってくるのだ。
それも、ごまかしながらの謝り方ではない。正直に声に出して謝ってくるのだ。そんな相手を許さないわけにはいかない。加奈とは喧嘩しても、最後には謝ってもらえるという気持ちがあったから、最後まで付き合った結果が、最後は呆れられるほどになってしまったということだったのだ。
それは、パターンの違いこそあれ、他の女性との付き合いにも言えることだ。
――何とか、このまま少しでも長く付き合っていこう――
と思っていれば、必然的に別れが訪れるとすれば、こちらかではなく、相手からということになるというものだ。
ただ、それが気持ちを伴わない、
――ただの、時間の引き延ばし――
ということにいつの間にかなってしまっていたことで、相手がシラケてしまうのだろう。
亜季が口にした
「時間がない」
という言葉、本当は亜季のセリフではなく、俊治の中にある本能の声であってしかるべきではないだろうか。
もちろん、俊治はそんなことは分かっていない。ただ、
――もし、リベンジできるとすれば、限られた時間の中でのことになるだろう――
と、時間がないという言葉を自分に当て嵌めて解釈していた。
俊治は、自分と加奈との間にあったことを思い出しながら、亜季を見ていた。
――ひょっとして、亜季は旦那と因りを戻したいと思っていたのではないだろうか?
と感じていた。
俊治の場合は、まだ若かったし、結婚していたわけではないので、結婚生活というものがどういうものなのか想像もつかないが、一度結婚したら、そう簡単に別れるというわけには行かないのかも知れない。
ただ、結婚していようがいまいが、別れの決意をどちらかが固めてしまったら、それは至難の業ではないだろうか? お互いの気持ちがすれ違ってしまい、修復不可能という結論を一度下してしまうと、下した人は、さらに先を見つめているからに違いない。
相手に復縁を迫られれば迫られるほど、後ろ向きにしか感じられなくなる。結論を出すまでに考えが堂々巡りを繰り返していた自分が、
――過去の自分――
にしか見えてこず、
――相手が見ているのは、過去の自分なのだ――
と思うと、自分が開き直ってしまったことに気付くのだ。
――この人も開き直ればいいのに――
と思い始めると、その時点から、お互いがすれ違ったまま、交わることはなくなる。交わるには、一度、別れを伴わないと修復しないものだ。
――別れた男女が、まるで友達のように接しているのを見るけど、俺には信じられないな――
と、俊治は思っていた。
別れるには、かなりの修羅場を通らなければならないことは分かっている。そんな修羅場を演じた相手と、時間が経ったからといって、まるでわだかまりがなかったかのように、友達のように接するなど、考えられることではない。
実際に、加奈や幹江と別れてから一年ほどは、会いたくないと思っていた。道ですれ違っただけでも、どんなに心臓がドキドキしてしまうかという思いがあったからだ。しかし、これは相手を好きだという意識ではないだけに、焦りと戸惑いに満ちたドキドキ感になることは分かっていたが、それがどんなものなのか、想像もつかない。
きっと相手も同じ気持ちなのだろうと思っていた。それだけに気まずさがあるのだと思っていたが、最近は少し違った思いに駆られることがある。
――相手はきっと割り切っていて、自分よりも先に進んでいるんだ――
自分だけが取り残されたようで、それが悔しい。付き合っている時は、男の自分が先に進んでいると思っていただけに、置いてけぼりにされることは、屈辱でもあるのだ。
屈辱が焦りに変わってくるというのは、屈辱がどういうものなのか、自分で分かっていないからだ。分かっているのは、
――その場から一刻も早く逃げ出したいと思うだろうな――
という思いだけだった。
それまで、一番正直に自分を出せる相手だと思っていたのに、急に一番分からない人になってしまったということがどれほどショックなことなのか、俊治はその時身に沁みて分かっていた。しかし、見当違いの感覚に今となって考えれば、悩んでいたことが時間の無駄だったということを思い知らされたのだ。
亜季との間のことは、どうしても、バーチャルから繋がったことなので、幻想的に思えてくる。ある意味、ショックは加奈や幹江と別れた時に比べて、さほどではない。
しかし、今度は俊治の中にそれまでにはなかった「屈辱感」があった。
あれだけ自分を慕っていてくれたはずの加奈が、一番戻るはずのない場所に戻ってしまった。
「ごめんなさい」
などという言葉で片づけられるものではない。相手からすれば、その言葉しかないのだろうが、本人にとっては、これ以上の屈辱はないのだ。
――ごめんなさいって、一体何がごめんなさいなんだ――
屈辱を受けると、自分を納得させることができない。それが屈辱の一番厄介なところなのだろうと思う。この場合の屈辱は、
――置き去りにされたこと――
ではないだろうか?
自分が信じた相手に裏切られた。それが置き去りに繋がり、受け入れることのできない思いを心に刻んでしまうに違いなかった。
――何も信じられない――
そんな気持ちにさせられても仕方のないことだろう。
同じ、
「ごめんなさい」
という言葉でも、加奈に言われた時と、亜季に言われたのとでは、まったくの正反対だった。そう思った時、だいぶ前のことだと思っていた加奈との思い出がまるで昨日のことのように思い出され、亜季とのことが、かなり昔のことのように感じられた。
しかし実際の思い出は亜季との思い出がクッキリと残っている。それは身体に刻み込まれた
――触れ合い――
という感覚が、五感をくすぐるからに違いなかった。
――身体と精神のバランスが崩れている――
そんなことを感じる時がいつかやってくると思っていたが、それがちょうどその時だったようだ。身体と精神のバランスが崩れれば、きっと身体が言うことをきかなくなるのではないかと思っていたが、存外そうでもなかったようだ。
ただ、亜季が自分の前から去ってから、かなりのショックに見舞われた。加奈や幹江と別れた時よりもひどかったような気がする。しかし、立ち直ってみると、亜季と出会う前に比べて、少し気が楽になったような気がする。亜季と出会うまでは、自分が孤独で寂しい人間だと思っていたが、亜季との別れから立ち直ってからは、孤独は感じるが、寂しさに関しては感覚がマヒしているように思えたのだ。
寂しさがマヒして感じられるようになると、
――また、いつでも新しい相手に出会えるさ――
と思うようになった。
別れが伴っていることは分かっているのに、それでも構わない。今度は別れが伴っても、今までのようなショックを受けることはないと思っていた。それは、今まで付き合っていた相手に対して、自分が本当に愛していたと言いきれるのかどうかということに掛かっているようだった。
――今まで本当に愛した相手なんて、いないんじゃないかな?
と俊治は思っている。もし、本当に愛する相手が現れたとすれば、きっと、限りない愛情などという言葉を信じることなどないと思ったからだ。
――本当に愛する相手と一緒にいられる期間というのは、決まっているんだ――
どうしてそんなことを感じたのだというのだろう?
――時間が決まっているからこそ、燃え上がるだけの力を持つことができるというのだろうか?
愛なんて、そんな格好のいい言葉で割り切れるものではない。もし割り切れるのだとすれば、理不尽なことは最初から起こらないに違いないからだ。
「世の中、すべてのことがうまくいくわけはないんだ。それなら戦争や殺人なんて起こらないよ」
と、言っている人をテレビで見たような気がしたが、漠然と見ていたテレビから流れてきた言葉だったので、必要以上に意識はしていなかったが、後になってからの方がしみじみ思い出せるというのはこのことなのか、どこか投げやりな言い方ではあるが、心の奥で響くものがあった。
愛というものが本当に存在するとするのなら、確かに限りがあったとしても不思議ではない。では何に対して限りがあるというのか? 俊治は、時間的なものの限りだと思っている。しかも時間というものが無限だと思っている考え方自体、どこまで信じられるか、考えてしまう。
――時間というものは、雁字搦めになっているくらい制限のあるものだ――
と思っているのは、本当に俊治だけなのだろうか……。
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