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静かな病室で一人、本を読んで彼を待っていた。今日は美術部があり、彼は午後三時くらいに訪ねに来る予定なので、お母さん達は午前に来てくれた。お母さんは町内会の集まり、お姉ちゃんはサークルがあるため大学へ向かった。つまり、今は暇なのだ。
お母さんに新しい本を持ってきてもらう旨を伝え忘れてしまい、今手元に残っている未読の本は「銀河鉄道の夜」の絵本だけだった。机に立てかけてある本を読み返すこともやぶさかではないが、記憶が新しいため感動が少しばかり薄れてしまうのだ。
どうしたものかと思案するも、頁は最後の一枚となってしまった。
本を閉じ横の机を見ると、鮮やかな赤と青の朝顔が小さな鉢に植えられて、優しげな眼差しでこちらを見ていた。今朝、お姉ちゃんが花屋さんから買ってきてくれたものだ。
瑞々しい朝顔は、窓から射しかかる太陽の光を浴びて輝いている。
床頭台の二段目をそっと開き、原稿用紙と万年筆を取り出す。
書きかけの原稿用紙の上を、お父さんが誕生日にくれた深い海色をした万年筆が踊る。
それは、大きな世界の片隅で起こる、小さな小さな恋物語。
小さな
軽やかなステップで風を捉えて大空を飛ぶ語り人は、そのまま様々な世界へと旅をする。お腹がいっぱいになるグルメの旅……かと思ったら、いきなり貧乏になってしまったり、隣人達のいる世界では特別な力を使って事件を起こしたり巻き込まれたり。ちょっと不思議な日常に飛び込んだり、甘く切ない恋をしたり……、
ふと時計を見ると、長い針は四十五分を指しており、彼が来る前に急いで小説を隠す。
十分後、彼は汗を滝のように流しながら、赤くなった顔に手で風を送り、ふらふらと病室へ入ってきた。
「あち~、外の気温高すぎだろ~」
「今日は真夏日だからね」
「なー」
彼はクーラーの風を浴びながら、炭酸が抜けたラムネのような返事をする。
「美術部では何を描いたの?」
「んー……皆は夏のコンテストの絵を描いてたんだけど、俺はまだ一切描けてないんだよ。おかげで後輩にいじられた」
不機嫌なポメラニアンを思わせる顔で、ぶつぶつとお調子者の後輩への文句を垂れる。
「描きたいものが見つからないなんて珍しいね」
「モチーフはいろいろあるんだけど、これだというものが無いし……」
「でも、夏休み明けにあるからあと、半月もないんじゃ……」
「そーなんだよ〜〜」
彼は来客用の椅子に座り、眉間に皺を寄せて腕組みをする姿は、頑固なラーメン職人を思わせた。
「なんかよく分かんないだよ~」
「どうしようもないね、それは」
私の言葉が心に刺さったようで、彼は暗い雰囲気を出してしまった。
どうにか元気を取り戻そうと話題を探していると、彼は心底驚いたような顔をして問いかけてきた。
「あれ? 今日は本読んでないんだな」
「ん? ああ、そうだよ。お母さんに本を持ってきてもらうのを忘れちゃって」
「ふーん、つまり暇な状態なのか」
「そう」
「じゃあさ、小説でも書けばいいんじゃないのか? 書きかけの小説とかさ」
それを聞いた途端、私の心臓がドキリと鳴った。さっき書いていた小説の存在を知っているのではないか……そんなことはないと思いつつも、どう返せばいいのか分からなくなってしまった。
「……別に、今は何も書いてないから」
「そっか。新しい話とか書かないのか?」
「うん……特には。えっと…………だからさ、今日は暇だから、その……絵の相談に乗ろうかなと思ってて……まあ、ね」
妙にぎこちない口調で話してしまい、嘘を見抜かれるのではないかという恐れに心が支配される。
「お! まじで!? じゃあ、遠慮なく相談に乗ってもらうな!」
彼は嬉しそうに笑って言った。この人を疑わない性格にどれほど救われたのか、言葉では言い表せないほどの安堵に身を包まれた。
しかし、絵の話を聞くか相談に乗ろうと思っていたので嘘ではないけれど……なんだか妙に申し訳ない気分になったのは隠しておこう。
「普通に思い浮かぶモチーフだとピンとこないんだよね?」
「うん」
「どうしようか……」
自分がよく知る夏のものを挙げてみるが、どれもありふれたものばかりで、なかなか一筋縄ではいかない。
絵と小説は似ているようで違う。小説は言葉だけで相手に世界を伝え、絵は色彩と形などの目に見えるもので世界を描く。アイデア出しという時点ではほぼ同じ工程なのだが、二人の得意分野が真反対の為、絵に沿った奇抜なアイデアには苦労してしまう。
あれでもないこれでもないと頭を悩ましていると、眉間に皺を寄せて考え込んでいた彼が、弾けるような声で突拍子もないことを言い出した。
「あ! そうだ! 雪を描いてみていいか?」
「…………えぇっ!? な、何で!?」
あまりにも突然のことに、廊下に響くほど大きな声が出てしまった。
「な! いいだろ?」
彼は椅子を近づけ輝かしい笑顔で迫り来る。彼の顔があまりに近くに迫り、私は咄嗟に顔を背けてしまった。
「そ、そんなこと言われても……恥ずかしいし」
「頼むよ! な、な、お願い! 描いてみたいんだ!」
彼は一歩も引く気が無いようで、これでもかというほど勢いよく頼み込む。
「絶対ヤダ!!」
「頼む~!」
「イヤ!!」
「頼むって、雪~!」
私が両腕で大きなバッテンを作っても、彼は一歩もに引かなかった。
互いに息が切れ体温が上がるまで、断っては頼んでを繰り返し、早十分が過ぎた。
「一生のお願いだから描かせてくれよ~!」
あれほど言い争ったというのにまだ諦めておらず、両手を合わせて必死に懇願してくる。
「こんな事で一生のお願いを使うな!」
「え~!」
やっと諦めたのか、彼をしぶしぶ引き下がった。正直言えば、描いてもらうのに悪い気はしないが、七:三で恥ずかしさが勝ってしまったのだ。横目に彼を見ると、ものすごく悲しそうに、丸い椅子の上で膝を抱えて落ち込んでいた。
彼が悲しむ顔は見たくないけれど、やっぱり恥ずかしいのだ。上半身を捻らせるほど最も頭を悩ませ続け五分…………私は覚悟を決めた。
「……いいよ、描いても」
ぽつりと小さな声で呟くと、先程まで落ち込んでいた彼は、向日葵のような笑顔をこちらに向けた。
「た、ただし! できたら一番に見せること!」
照れながら言ったせいで格好が付かないも、彼は首が取れそうなほど頷く。
「じゃあ、どうゆう感じに描こうかなー」
満面の笑みを浮かべ、指で四角い枠を作ってアングルを決めている間、私の床頭台に戻していた絵本を再び手に取る。
「それ、絵本か?」
「うん。銀河鉄道の夜」
「イラスト凄い綺麗だな! ちょっと見せて」
言われるままに絵本を手渡すと、彼は純粋そうな笑顔で絵本を捲っていく。
「へー、イラストかと思ったら写真だったんだ。イラストにビーズとか刺繍を加えて作ってるのか〜。すっげえ綺麗! この絵本、新品か?」
「うん。お姉ちゃんが今日くれたの」
「俺も欲しくなるなー」
そう言いながら絵を見るその顔は、子供のようでありながらも絵を愛する画家の顔をしていた。
「返すよ、ありがとう。そういえば、雪って銀河鉄道の夜が好きだよな」
「うん。とてもきらきらしていて、私もあの列車に乗って、見たことのないような色々なものを見たいって思うからかな」
「へぇ……そうなんだ」
彼はどこか大人びた優しい笑顔で言った。
私は笑顔で頷き、この物語の内容を思い出す。主人公のジョバンニとカムパネルラが二人で、不思議な列車に乗って小さな旅をして……そしてお別れするお話。
私の心へ何とも言えない感情が広がり、細い糸でキュッと締めつけられる感覚が襲う。
きっと、大丈夫……大丈夫…………、
「なあ、銀河鉄道の夜、読んでくれよ」
「どうして?」
「ほら、本をあまり読まない俺によく読み聞かせてくれたじゃんか」
「ああ、確かに。……いいよ、読んであげる」
私は表紙を捲り、銀河鉄道の夜を語り出す。
「銀河鉄道の夜 宮沢賢治
一、午后の授業
「ではみなさんは、そうゆうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊るした大きな黒い星座の図の、上から下から白くけぶった銀河帯のようなところを……」
煌びやかなイラストの絵本を、ゆっくり捲りながら物語る。島と十字架、白鳥の停留所の学者、鳥捕りの赤髭、鷺の停留所で出会った一人の青年と二人の子供、さそり座と天の川、北十字、そしてカムパネルラとの別れ。全てを語り終えると、彼は小さく拍手をする。
「銀河鉄道の夜は久しぶりに聞いたけど、めっちゃ綺麗な世界だな!」
「ふふ、そうでしょ。どこが好きだった?」
「うーん、北十字もいいけど、俺は鷺を食べてみたいなって思った!」
その言葉に、私はつい噴き出してしまった。彼は「何が悪い!」と言って、頬を膨らまして拗ね出す。
「ごめんごめん。でも、食い意地はってるところが相変わらずだなぁって思ったんだよ」
「それって貶してんのか?」
「褒めてるけど」
「嘘つけ!」
「あはは!」
「笑うな!」
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