第42話『破邪活殺剣(下)』

 斯波二郎右衛門、四条貞右衛門、ふたりの身体が、骨肉の尺度を変え、すじ肉の密度を変え、頭蓋の傷をも治癒――否、再生。否、増殖。三度否、生まれ出でている。

 特に頭蓋を粉微塵に潰された四条貞右衛門の頭部は水気多き生者のそれに近い。

 ただし、両者とも乳黄色の瞳がぬらりと光る鬼の目となっている。身の丈は八尺と少しだろうか、斯波二郎右衛門の方がもともとの体躯が恵まれているのか、ひとまわり大きく感じるほどだ。


「兄上、四条貞右衛門が首、馬になり申した」

「こちらは牛だな。――」


 ははあ、なるほど、牛頭ごず鬼と馬頭めず鬼か――と宗章は「洒落ておるな」と表情をひとつ、引き締める。

 そしてお互い、太刀をだらり下段にして脱力。

 ここより発揮される総ての力を悪鬼を滅誅せしむための構えである。


「変生が成り果てるまで、あと十と、数呼吸といったところでしょうか。こうして待ってやるのも、なかなか乙なものでございますな。おお、なるほど、鬼と雖も、黄泉返り果たせば再びの生者と成り果てると。なるほど、なるほど。――」


 宗矩は初めて死者が鬼として生者へ返り咲く瞬間を見て、その一変一消をつぶさに観察している。今後の参考のためであろう。

 ゆえに、完全に変わるまで手を出さぬ。

 柳生の意地、武士の情けもあるが、それに加えて興味が色濃く勝ってきたのも窺える。


「鬼となっても、現世に戻らねば、すぐに滅び行く。宗矩、反魂香の煙がある内に斬り果たさねば、奴ら自由ぞ」

「なあに、現世に舞い戻ったところで、悪さできぬうちに斬り捨てればよろしかろ」

「俺もそう思うのだが、逃げられると厄介だ。黄泉返り立ては腹が減っておるだろうし、無辜の民の犠牲は抑えねばならぬ。……それにほれ、月琴が金乗院にて霞と化して逃げたのは申し伝えたろう。逃げに徹っせられたら面倒くさい。煙の結界で逃げられぬうちに斬り果たそうぞ」

「なるほど、そういう理由もありましたか。――」


 宗章は、喘月を霞から右城郭勢に構える。

 宗矩は、大垣正宗を左城郭勢へと構える。


「なれば俺は斯波二郎右衛門を」

「されば拙者は四条貞右衛門を」


 彼らが互いの相手を認め、鬼が変生なりしそのとき、二手に分かれゆく。


「待たせたな柳生新陰流。一撃で果て申してすまなんだ。此度はこちらが砕いて進ぜよう」と、牛頭鬼――斯波二郎右衛門。

「なあに、武術は畢竟一撃必殺に通ずる」と、宗章。


 この瞬間より、宗章の脳裏感覚から宗矩の存在はかく消えゆく。ただただ、状況のみが脳裏に。己を俯瞰するかのように、意識は空へと、空へと。

 自分の背中の上から見下ろすような、感受のヴィジョン。

 五感の脱力が情報量の集積を促し、脳がフル回転してこれに反応をする。どう戦うか、それは人生を掛けて積み重ねし新陰流の術理に尋ねるほかはなし。

 鬼と、仏が、一足一刀の間合いへと。

 牛頭鬼有利の間合いである。太刀、闇喘月は八尺の鬼に合わせ大太刀の様相。宗章の鋒が鬼の命に届くまで、あと二歩は必要。


 ――来い、新陰流。

 ――いざ、牛頭鬼。


 後の先を取り合うような、剣者としての攻防。


 気が動くを討ち取るか。

 剣が動くを討ち取るか。

 体が動くを討ち取るか。


 鬼が見下ろす武士の頭蓋が、辷るように間合いへと入ってくる。誘いである。鬼の闇喘月の刀刃は充分な刀勢を以て届くだろう。しかし、剣が動けば、相手がそれを感受いたさば、後の先を取られ気剣体の総てが刀刃に乗った斬撃で討ち取られる。


(先に動いた方がやられる)


 これはそのの戦いだった。

 叩きつける気迫が、そのまま返ってくる。


 斬るぞ。

 斬るぞ。

 さあ斬ってこい。

 さあ斬ってこい。

 では動かぬ。

 では動かぬ。

 と、思っておろう。

 と、思っておろう。


 まるで彫像のような宗章は、つま先の半分、指の腹の半分、爪の半分、肉の半分、皮の半分、じわりじわりと察知させぬよう接近を果たしていた。

 右城郭勢の鋒が、上段に構える牛頭鬼の腕――その産毛に触れるか、触れないか。

 魔性牛頭鬼の心臓まで、あとは体を進めるだけの間合い。


 斬るか。

 斬るか。

 斬らぬか。

 斬らぬか。


 感受の世界の果てに、剃刀のような喘月の鋒が僅かに――ほんの僅かに震え、鬼の産毛はそれを察知した。


 牛頭は刀刃を諸手で打ち下ろしていた。

 風を切り裂く、キィンという音。遅れて炸裂する裂帛の気合い。鬼の刀刃は躱されていた。


 どこに躱した。

 ここだ。


 柳生宗章の肉体は、入り身正眼で密着していた。牛頭鬼の腕の間に頭が入るような低さで、刀刃を突き入れた形である。

 鬼の背中から、喘月の鋒が生えている。心臓を貫き、望月へと伸びている。


「げぅ」


 遅れて出た苦鳴。抱き潰さんとする鬼の腕からさらに密着し、すばやく刀刃を抉り抜きながら背後に回った宗章は脇腹からもういちど喘月を突き入れる。

 腸と肝臓を存分に抉り斬り、ざっと背後に引きながら残心。

 どす黒い血潮が溢れるように流れ出す。


「ぶわぁッ」


 闇喘月の片手薙ぎ払い。

 鬼の一撃を、小手打って斬り落とす。そのまま喉へ突き。ピウと殯笛のような音は果たして断末魔か。


「えいやあ」


 宗章は裂帛の気合いと共に鬼の頭蓋を喘月で斬割する。

 物打ちは骨盤まで斬り割り、鬼はドウと天を仰いで倒れ伏す。

 相手の動きを活かし殺傷する剣、活人剣。

 破邪活刃、勝負あり――。


 残心、そして宗章はひと息つく。

 さて宗矩の首尾は如何かと離れたふたりを見やると、そこにはとんでもない光景が繰り広げられていた。

 手に余るなら力を貸そうかと考えていたが、杞憂に過ぎた。

 杞憂どころか、悍ましい有様であった。


「ぎゃあああ」悲鳴を上げるのは馬頭鬼である。

「ふむ。――」手にした大垣正宗で地獄の鬼を斬る宗矩は、一刀一刀考えながら、納得を繰り返し、生き試しのように鬼と戦っている。


 馬頭の武器は槍であるが、その悉くが動く前に宗矩に討たれる。小手、足、喉、頭蓋、眉間、こめかみ、腋下、股間、内小手、甲冑の隙間たる急所を的確に鋒で抉られていく。


「さすが真打ち、鬼にも結構効き申す」


 宗章に目を向けずに、そう報告する宗矩。

 左様か、と、やや弟のえげつなさに引く。


「では、こちらは如何かな」


 鉄扇――銀の棍棒である。

 彼は左手でそれを、右手で正宗を、変則二刀流の構えで、鬼のあちこちを打ち据え、斬り込み、打ち据え、打ち据え、打ち据え、更に打ち据え、強かに蹴り、再び打ち据え、目を突き斬り、鼻を叩き潰し、顎を砕き、膝を砕き、鬼が血だるまになってやっと手を止める。


「傷の治りは、やはり遅いようにござる。妖魅を斬るには、やはり妖刀しかござらぬか。いちばん深きは正宗の傷、ついで扇、ふむ、打擲蹴足の類いは治りしか。面白い」


 ひどく冷静な観察眼だが、苛烈極まりなかった。

 宗矩は諸手一刀に正宗を構え、のたうちまわる馬頭鬼の袈裟に斬りつけた。首に大きく斬り込まれた正宗が、血風巻き上げて引き抜かれる。


「ぎゃああ」

「舌は要らぬか」


 左片手の抜き打ち。脇差しの兼定が閃き、馬頭の長い舌が抉り飛ばされる。


「治癒まで、数呼吸か。よい。疾く治して参れ。次はどこを斬ろうか、落とそうか、潰そうか。――江戸城地下にて飼ってもよいぞ。死ぬまでの生き地獄、元忠公への土産話に致そう」

「助けてくれえええ」馬頭の絶叫である。


 舌が治った。

 宗矩は「ふむ」と頷く。


「まあよい。も少し斬って進ぜよう」


 そう言って、じりと近づいた瞬間である。

 馬頭の鬼、四条貞右衛門は這いずるように飛び、地獄の入り口、黄泉平坂まで飛び逃げたではないか。

 逃げおおせれば、殺されずに済む。地獄に落ちるが、それでもこの男の側よりかはである。

 首がなかった四条は、そう信じていた。知らなかったのだ。地獄がどんな場所であるかを。

 だがしかし、ああ、なんということだろうか。


「逃げるでない」

「ぎゃあ」


 その情景を、宗章も御嶽兵衛も、風魔小太郎も、小半蔵も、鬼女ふたりも、決して忘れることはないだろう。


 柳生宗矩は、黄泉平坂に下り、這いつくばり蠢き逃げる馬頭鬼の襟首を掴むや、現世へと引きずり戻したのだ。

 八尺の体が、宗矩の万力のような握力と体捌きによってブンと投げ戻される。宗矩は平然と黄泉平坂から現世へと戻り、正宗片手に、まるで首を落とす介錯人のように鬼の後ろに控え、逃げ場を塞ぐ。


「お主の地獄は、ここにある。遠慮するでない」

「ころしてくれえ」


 泣き叫ぶ四条に、やれやれと宗矩は首を振る。


「では詮方ない。――」


 と、宗矩は兄の宗章へと目を向ける。

 明王もかくやの徹底ぶりであるが、宗矩のそれは、仏のような微笑みにも似た表情アルカイックスマイルである。


「兄上、喘月にてとどめを」

「心得た。……四条貞右衛門、神妙にいたせ」


 びくんと、鬼の身体が震える。

 視界の端には、塵と消えゆく斯波二郎右衛門――牛頭の死体。


「えいやあ」


 宗章の喘月が、鬼の頭蓋を両断する。

 鮮烈な妖気が縦横に肉体を滅ぼしていくのを感じながら、鬼はようやく死ぬ。

 相手の動きを心胆含め殺して殺傷する、宗矩の殺人剣。その苛烈さを、宗章は「えげつない」と、もういちど評する。

 宗矩は塵と化す鬼から離れ、宗章のその評価に「主命なれば」と涼しい顔である。

 生身で死者の領域へ、黄泉平坂へ下りたにしては、平然とした様子であった。

 無念無想、常歩むように、水月の心胆。

 このときから宗矩の、禅にヒントを得た剣聖への道が開けたと言ってもよかった。同時に、決定的に兄との剣質が分かたれたことを、兄弟はお互いに感じていた。


 見れば、反魂香の結界はまだまだ充分な様子であったが、勝負あったことで、御前と藤斬丸が場の終いを執り行い始める。


「見よ、宗矩。――」

「これは」


 喘月の沸が、スウ……と湾れまじりの直刃へと。

 刀刃の殆どが、美しく華美な、落ち着いた仏の美へと戻りつつあった。

 宗矩は妖刀を見上げつつ、自分の手にある真打ち『大垣正宗』を並べるように立てる。


 まごうことなき兄弟剣である。

 真打ちの方は研ぎ縁摩耗が進んでいる。戦場に生きていく美しさであった。

 喘月は魔性のためか、健全妖美な姿のままである。表の舞台で輝くべき未来を醸し出す可能性に満ちていた。


「地獄の入り口が閉じゆく。――」


 ふたりの兄弟の眼前に開いていた黄泉平坂が、煙の濃度が薄れていくに従い、徐々に口を閉じていく。

 見上げれば、ふたつの望月も消え、ふたつの新月も現実に別れ行こうとしている。


 宗矩は「兄上」と呼び、残された時間は少ないと判断し、現実の地理に戻り往く鶴岡八幡宮の前庭で「柳生下屋敷にてお待ちいたす」と端的に告げる。

 宗章は「応」と短く答える。


 ふっと、あたりに静寂が訪れる。

 そこは、正宗の工房跡である。

 見上げる星空に、月はなく。


「お前、あんなやつに妖気を叩きつけたのだな」と藤斬丸が笑い、へたり込んで呆然としている御嶽の背中をぽんぽんと叩く。


「やめてくれえ、俺小便漏らしてるんだからよぅ」

「無理もあるまい」と小太郎は同意し、「よもや黄泉へ下りて平然と戻ってくるとは。柳生但馬守、まこと恐ろしい御仁よ」と、やっとそこへへたり込む。


「あれには俺もびっくりしたわ」と、宗章。


 干し首を持ってきたと思ったら、あの戦いぶり。

 あんなに怒り心頭な宗矩は、初めて見たかもしれない。怒りはおろか、愛憎怨怒は剣を曇らせる。しかし、彼の剣には微塵も曇りはなかった。

 弟は、一段――いや、数段の高みへと上がったのだろうと確信した。


「あいつを怒らせるのは辞めておこう」


 これには面々も、素直に頷くのであった。


「柳生下屋敷か。よし、明日、帰路につくぞ。ここでした悪戯のことも、報告せんといかんしな」

「あのいたずら、怒られないかな」と藤斬丸。

「宗矩はそんなことじゃ怒らんよ、安心せい」と宗章。


 しかし藤斬丸は懐から山ほど反魂香を取り出し、「いや、御前に……」と、か細く呻く。

「ああ……。――」


 これに答えられず、宗章は諦めたように肩を落とす藤の背中を、優しく叩くのであった。


(ともあれ、仇はあとひと首。――何者ぞ、愛洲一信斎)


 見上げる月が満ちるまで、あと十五夜。

 決戦は、大晦日へと集約する。






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