第47話:夜明けの前に
――次に目を開けた景色は、白かった。
白いのは、見知らぬ広い天井。見慣れない円い照明のペンダント、分厚そうだが味気ない単色のカーテン。俺が寝ころぶのは、やけに重い真白の布団。
「あ、起きたね」
枕元に冷蔵庫とテレビ。壁ぎわに揃いで並んだ、布のソファー。十畳くらいの室内に一人、スマホをいじっていたウイさんの顔が上がった。
ちょっと疲れて見えるが微笑んで、もう一度スマホに触れる。それからしっかりとした足取りでこちらへ。
「ここ——?」
「
聞いて、改めて見回す。やはり病室には見えず、一万円ちょっとのホテルかなと思う。唯一、頭の上に俺の名前のプレートがあったし、ウイさんが言うのを疑いもしないけれど。
「命に別状ないいうか、落ちた分の怪我はないみたいよ。かすり傷もね」
ベッド脇の丸椅子を一つ引き寄せて座り、お医者さんが驚いていたと彼女。
「落ちた」
「うん」
ああ、そうだった。寝ぼけていた頭が回り始める。しかしそれなら、怪我のないほうがおかしい。
現に、と右手を引っ張り出す。検査着の袖がスルリ、洗ったばかりのように綺麗な肌だ。首をひねり、左手を見ても同じ。
「血ぃ見たん?」
そう言うくらいだから、勘違いでないのだろう。頷くと、ウイさんは自分のピンクの腹を撫でる。
「真っ赤っかじゃった。ガラス、かなり刺さっとったらしいわ。でも内臓まで行くようなんはなかったって」
「どうりで痛い思うた」
布団の中、俺も腹に触れてみる。テープ留めのガーゼが腹巻きのごとく。意識すると急にズキズキとした。
「
腹を抱え、堪えた。
細めた視界の端にウイさんの膝が見える。彼女が引き寄せた丸椅子は、一つ。
「……課長は」
「残念ながら無事じゃね、暴れた時のすり傷があるくらいって。明日また、専門のお医者さんが検査して終わり」
ヘイちゃんも、と教えてくれるウイさんはいつも通りに思えた。
そこに焚き火があって、ウインナーや卵なんかがあって。ついでにアルコールもあれば、上機嫌で料理を始めてくれそうに。
「助けてくれたんですね」
もう痛みは落ち着いた。でも怖くて、痛いフリをし続ける。助けてくれたのが誰か、分かっていても名を言えない。
きっと彼は、今この部屋に居ないのだ。あの時のまま姿が見えないのは、そのせいだ。
「うん、了くんね——」
あっさり、ほとんどためらう気配もなく。彼女はそのまま何やら言いかけた。が、ノックの音。俺達の居る、この部屋の扉から。
「どうぞ」
ウイさんが出迎えて、現れたのは湯摺課長の奥さん。先だっての格好のまま、部屋に一歩入るなり、頭を下げた。全身、内側へ丸め込むように小さくなった。
「いや、あの」
湯摺夫人は何もしていない。むしろ突然に押しかけられて、何が何やらという状況だろうに。
気の利いた言葉も言えず、俺は闇雲に丸椅子へ手を向けた。するとウイさんが夫人の腕を取り、連れてきてくれる。
ただしまた三歩の距離で、夫人は腰を折り曲げる。
「申しわけございません」
「いえ奥さんは別に」
「およそのことは、あの場で察しました。それに浮橋さんから、何もかも」
何もかもですか、そうですか。
なおさらに俺から言うべき言葉がなくなった。情けなく、あうあう呻きながら夫人とウイさんとを見比べる。
「奥さん。お互い、お話しにくいですから。座りましょう」
俺に向いたことのない種類の、ウイさんの優しい声で夫人は腰を下ろした。それでも伏し目がちに、隙あらば頭を下げてくるが。
「結論から申しまして、人吉さんの退職理由は書き換えることになりました。本人に責任のない会社都合ということで」
「えっ? ええとそれは」
「再雇用も可能ですけれど、気詰まりでしょう? ですから正規の退職金と、今回のお見舞の形で一時金もお出しします」
なんだ。なんの話だ。
いやもちろん、湯摺計器における俺の扱いとは分かる。それをどうして、課長の奥さんが。
「もしご不快でなければ、伝手のあるどこかへご紹介なども」
「あの、ちょ、ちょっと待ってください」
不快なんてとんでもない。立場を回復してくれるだけでなく、いきさつを知らない別の職場を世話してくれるなんて願ったり叶ったりだ。
しかしどうにもフワフワとして、現実味がなかった。
「なんでそこまで。自分で言うのもなんですけど、課長の標的にされるくらい使えん人間ですよ」
「それは私には分からないことですけれども。正直を申しまして、こちらにも事情がございます」
事情と言った途端、夫人の背筋が伸びた。厳しい顔つきながら、ハキハキと口調まで変わる。
「人吉さんをここまで追い詰めたのは、あの男の暴走に間違いありません。しかしことを明るみにして、何も知らない社員や家族を迷わすわけにもいきません」
罪を被せられたデータ漏洩は、湯摺計器が身売りする手土産のはず。スケープゴートを選ぶのは課長の独断で暴走としても、それ以外を会社の上層部が知らないわけがない。
とすると
「口止め料ってことですか」
「その通りです。人吉さん一人が胸に納めてくだされば、何もなかったことにできます」
「人柱が居なくなりますけど」
「そこはそれ。私の夫は首一枚で居残ります」
ピシッと聞こえてきそうに整った佇まいで、かなりダークな言葉を夫人は吐いた。この事態さえ、想定されたケースの一つに過ぎない。そう思えてくる。
俺はなるほどとも言えず、ぽかんと口を開いたままでいた。
「問題ございませんようでしたら、この線で進めさせていただいても?」
「え。ええ、どうぞ」
入室した時には、憔悴した犯罪者の妻という風でしかなかった。それがたった数分のやりとりを経て、商談を纏めたビジネスウーマンのごとく颯爽と部屋を出ていく。
見送って、ウイさんが扉を閉めた後。根本の疑問に思い至った。
「同族企業なんは知っとりますけど。奥さんに、あんだけ言う権限があるんですかね」
「湯摺課長、お婿さんらしいわ」
俺の目覚める前に聞いたのだろう。短い彼女の返事に、申し分なく解答が含まれていた。「なるほど」と今度こそ頷く。
「じゃけえ、あたしも。いつかバレた時には酷いことんなるけど、それまでは見逃すって」
なぜかウイさんは扉の脇の洗面台に立ち、ついでのように言った。けたたましく水を流しながら。
「ありがとね、ヘイちゃん」
「俺のおかげは
どう言いわけしても実行犯の事実は消えない。ならば望めるうち、最善に近い判決ではなかろうか。
そう納得することにした。
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