第42話:単刀直入
「いや今日はね、朝から布団から出られんで。熱と倦怠感いう奴よ」
「風邪ですか?」
小さなティーテーブルを挟み、湯摺課長の対面のソファーにウイさんは座った。その隣に俺が座ると、夫人が部屋を出ていく。
「どうじゃろう。医者ぁ行って薬も
まるで俺達が来るのに合わせたようだ。そう思ったのと同じことを、課長も口にする。
どこかで聞いたような話、とは言わなかった。
「お大事にされてください。奥様も心配されるでしょうし」
「ほうよ、ほうよ。じゃけえ君らが、どんな悪事をバラしに来てくれたんかドキドキよ。まあ世の中、ええこと悪いことがどうやって決まるんか、二人ともよう知っとる思うけど」
夫人の出ていった引き戸を一瞥して、穏やかにウイさんは笑む。
応じて笑う課長は、お世辞にもニヤリと厭らしい。記憶では枯れたキュウリみたいだったのが、今は萎びたナスくらいには太った気がする。
それでも「のう、人吉」なんて、呼んでくれた日には
「は、はあ。ですね」
と、俺は以前のまま愛想笑いでやり過ごす。
「おいおい、何をビビっとるんや。相変わらず、しゃきっとせん男よのう人吉」
今度は大口を開け、ガハハ笑いの課長。サーバー室から出てくる度、これと用もなく呼び止められたのを思い出す。
「あら楽しそう」
静かに戸が開き、夫人が戻った。手にしたお盆には透明な湯呑みが見える。
室内は冷房が効いているけれど、外は蒸し暑い。出してもらった冷たいお茶をありがたく感じた。
「おいおい、泡の出る奴じゃないんか」
「そっちが良ければ持ってきますけど?」
ひと口サイズのチョコなんかが入った皿を、夫人はウイさんの前へ置く。
問いかけも夫でなく、眼だけは笑っていない笑みで彼女に。
「いえ。お話が済んだら、すぐにお暇しますので」
応じて、ウイさんの笑みが消えた。サッと面を外すみたいに、一瞬のことだ。
「そう。じゃあ私も交ぜてもらいましょ」
「どうぞどうぞ」
課長が口を挟む余地なしに、夫人もソファーへ腰を下ろした。夫の隣でありながら、なるべく夫から遠ざかって。
「単刀直入に」
「おい、浮橋くん」
切り出そうとしたウイさんに、課長は手を突き出す。
文字通りに口を塞ごうと、あるいは声を遮ろうと。したのかは知れないが、夫人を前にどちらもできるわけがない。
「私は湯摺課長と男女の、不倫の関係にありました。およそ半年前、昨年末までです」
ヘラヘラとごまかすようだった課長が、荒い鼻息と共に怒りの表情へ変わる。
「細かなことはさておき、三年ほど。奥様に、とても申しわけないことをしました」
ソファーに掛けたまま、ウイさんは二つに折れるように頭を下げた。もちろん夫人へ向けて。
たっぷり十秒くらい、二種類の睨む視線が彼女の背へ降り注ぐ。
顔を上げると、夫人が息を吸い込んだ。盛大な罵倒、若しくは矢継ぎ早の問い。何が正解か、ウイさんが言わせなかったので分からない。
「すみません」
と。前のめりの夫人に、彼女は手を突き出した。まかり間違えば、張り手になるところだ。夫人が黙ったのも言われたからというより、普通に驚いたに違いない。
「お怒りは分かります。でも奥様に、まだ聞いていただかないといけないことが」
「な、何です?」
声を裏返らせて、夫人は上品な風を保った。しかもすぐ、座り直す動作をした後「どうぞ」と薄く笑って見せもした。
湯摺課長は口を出さない。腕組みでふんぞり返り、蔑んだ視線をウイさんと俺とに向けるだけで。
「ここからは人吉が」
突然にバトンを渡されたのが誰か、把握するのに数瞬の間が空く。ぼうっとしていたつもりもないが、まだまだウイさんの時間が続くと思っていた。
「——あ。ええと俺、ですね」
先鋒と違い、どうにも温い。と思ったか知らないが、黙らされた夫人の眉間に皺が寄る。
一階のエレベーター前から。いや、この家の玄関前から。何を話すか考える時間は、ほとんど与えられていない。
「課長、ちょっと太っちゃったですね。よう食うて、よう寝られたんでしょうね。俺はね、あれからぐっすり寝た日なんかなかったですよ」
だから結局、くだらない当て擦りしか言えなかった。了に出逢うまで、彼に救われるまでの地獄の日々を思い返して。
「課長の罪を、全部なすりつけられてからね」
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