第39話:終わりの形

 湿った土と、枯れ葉の香り。胸いっぱいに吸い込み、ここに居ると感覚へ刻み込む。俺にとって、了そのものの匂い。

 しかし現実、彼がどこに居るかも知らしめる。


「そうじゃ、黙っとけばええんよ」


 短い沈黙が破られた。これも現実で、いまだ玲菜は寝言を吐く。睨んでも、いつの間にか夫の膝に埋もれた後ろ頭へしか届かない。


「ね。お家買うのに貯めたお金、あるんでしょ? それあげて、黙っといてもらえばええんよ。あんたが仕事辞めんかったら、またすぐ貯められるわ」

「僕はいいけんど」


 いいのかよ。とは頭に浮かべるだけで、声にしない。責める言葉を使えば、きっと止まらなくなる。


「あの……非常識と分かっちょりますが、黙っちょってもらうわけにはいかんですか? 玲菜の言うごと、三千万くらいならあるんやけ」


 こいつも、と考えかけてやめた。言うべきことだけを言って、それで終わりだ。


「ああ非常識じゃ。俺に言えるんは、もう了に関わるないうこと。お前らに弔われるとか、冗談じゃないわ」


 言って、立ち上がる。抱きしめた了をそのままに。


「ヘイちゃん、それでええん?」

「ええよ。子供にやり返すな言うといてから、これ以上に言うこともないけえ」


 ウイさんに問われ、振り返る。それがちょうど出口の方向だ。

 俺の肩越し、了には母親の姿が見えただろう。だが、どちらも何も言わなかった。


「あと、嫁さんを警察へ連れてけえよ。一週間経って、了のじいちゃんばあちゃんに連絡なかったら、俺が行くけどの」


 言葉をつかえさせながら、なんとか言いきった。おそらく感情がだだ洩れていたが、上出来としておこう。

 どんな返答があろうと、これで後腐れない。


「ジャージ、このまま帰らしてもらいますね。あたしらが着たん、返されても気分悪いでしょ。お金はあとで、値段調べて送ります」


 あ。

 部屋を出た後ろで、俺のうっかりをフォローしてくれるウイさん。赤面しつつ、そのまま表の戸を出た。

 五分ほど遅れて、彼女も出てくる。手には大きな紙袋があり、たぶん洗濯してもらった俺達の服だ。

 閉じる扉の向こう、玲菜とその夫が垣間見えた。眩しい陽光の下からは、表情まで見えなかったが。


「すんません」

「え、なんで?」

「いや。服、すっかり忘れとって。カッコつけたのに、カッコわる——」


 堤防沿いの道を行く。来た道も、玲菜の歩いた道も避け、少し回り道で駅へ戻ろうと思った。


「ヘイちゃん、カッコ悪ぅないよ!」

「あはは。ありがと、了」


 律儀に褒めてくれる了が、海を眺めていたからかもしれない。彼の背丈では見えないものが、俺の肩からは見える。


「ほんま、カッコ悪うないよ。お人好しじゃねえとは思うけど」

「お人好し?」


 俺の真っ白のジャージとお揃いの、派手なピンクのウイさんが並んで歩く。

 これもペアルックというのだろうか。だとして、照れるような間柄でもないけれど。


「だってヘイちゃん、もの凄い怒っとったでしょ。ちょっと間違まちごうたら、あの二人ボッコボコにしとったんじゃない?」

「……あの旦那に、返り討ちでしょ」

「そうかも」


 これとスポーツに励んだこともない俺では、ケンカをしても勝負が見えている。大切な何かの為とかでもない限り。

 守りたいものは、俺の腕の中に居る。戦う時があったとしたら、とっくに過ぎている。


「旦那さん。今朝、急に体調が悪うなって寝とったんじゃって。目ぇ覚めとったはずじゃのに、奥さんが叫んだのとか全然聞こえんかったんじゃって」


 幾つか、気にはなっていたことだ。今さらどうでも良くもあったが。


「出てくるのに時間かかったん、その話のせいですか」

「うん。ヘイちゃん、あの旦那さんが気の毒じゃ思うとるんでしょ」

「まさか。そんなん思うわけないでしょ」


 バカげたことを。

 鼻で笑おうとして、むせた。ゴホゴホやっていたら、「大丈夫?」と了が頭を撫でてくれる。


「あの人、なんも悪いことしとらんもんねえ。自分のせいじゃないのに、詰腹切らされるだけよね」


 そこに居たから。誰かにとって、都合がいいから。思いもよらぬ災難は、ある日突然に襲う。

 でも、本当にそうだろうか。思いをよせる・・・・・・ことはできなかったろうか。

 玲菜の夫の偏執的な愛情を思うと、首を傾げたくなる。


「ヘイちゃんとあの人は、全然違うんよ」

「知っとりますよ」


 そこはもういいのだ。苛立ちなどはまるでなかったが、自分の気持ち的にもはっきり言っておきたかった。

 だから会話を断ち切るような言い方になったかもしれない。


「ごめん」

「え、何でです?」

「ヘイちゃんて、呼んだらいけんのじゃった」


 アスファルトに浮いた砂が、ジャリジャリ歌う。船で作業をする人や、行く船の声がひっきりなし。

 一瞬たりと、静寂のないのがありがたい。


「——もう、ええんですよ」

「うん、ごめん」

「怒りますよ」


 精一杯、乾いた笑い声を作る。彼女もまた「そっか」と笑った芝居をする。


「ほんまに、前のことはええんです。今から先、了に何をしてやれるかだけ考えたいんで」

「うん。あたしも手伝てつどうてええ?」


 いやそれは、あなたには第一に考えねばならないことがあるはずだ。

 そう言うのが常識的だけれど、見え透いている。既にウイさんも、戦う時を逸したと知っているのだから。


「まあ、しゃあないですね」

「やった。了くんに何してあげよ?」


 俺との話はおしまい。そう示すように、彼女は堤防の側へ回った。赤ちゃんをあやすみたいに、了の頬をつついて遊ぶ。


「僕も、僕も何かする。ヘイちゃんとウイ姉ちゃんに、何かする!」

「何かって何よ」


 海を眺めながらも、話を聞いていたらしい。問えば思いつきとみえて「うーんとね、うーんとね」ばかりで答えが出ない。


「ま、とりあえず帰ろうや。急ぐこともないし、どっか寄り道しながらでも」


 こうして俺達の、ウイさんを加えた道中は終わりを迎え——なかった。

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