川へ向かう道


 * * *



 もしも時間の流れというものが目に見えて、それが川に似ているのなら。

 あたしはまだ、その流れに乗っている。浮いている。

 けれどもミオは沈んでしまった。沈んで消えていった。


「去年はまだ、まれに『花憑き』を見たんだけどさ」


 あたしはミオの墓石の前に座り込んだままだった。誰もいないから気にしない。この場所までは、街を満たす花弁が飛んでこない。


「もう今年は、全然見ないよ。みんな多分『発蕾』したらすぐに切り落としてるんだと思うんだよね~、まあ切断するとハゲがしばらく残るから、年頃になってからやるとなると、大変だし」


 手術後、ようやく包帯を外していいと言われ外してみると、綺麗に頭皮が見えていたことを思い出す。そこに蕾がないことよりも驚いた。つるつるだった。髪の毛が生えてくるのには結構な時間がかかって、だからそれからも、しばらく包帯を巻いていたことを思い出し、あたしは笑う。

 ミオは笑わないけど。


「それに、切り落とすと蕾はすぐに枯れるから、育てて記念品に~なんてこともできないし」


 切り落とされた蕾はすぐに枯れる。あの美しい庭園に行くことはない。


「あたしのも枯れちゃったし……って、まあそのあたりは、あんたも似たようなもんか……」


 結局あたし達は、どちらも咲くことができなかった。

 一緒にいることはできなかった。

 約束は果たされなかった。


 しゃがんでいるのがつらくなって、あたしは一度立ち上がる。誰もいないことを改めて確認すれば、ミオの墓石に寄りかかった。


 かつてミオは温かかった。白い手は、冷たさの中に確かな命の温かさを秘めていた。

 いまはただ冷たい。冷たくて、まるで色が抜かれたような無機質の白さに染まっている。今日の天気はもはや虚しさを覚えるくらいに青く晴れていて、けれどもミオの墓石は、その色に染まることもない。


 あたしは、もしかすると、彼女が喋るのを待っていたのかもしれない。しばらく黙っていた。

 ただやっぱり一人で、自分からこの静寂を破るしかなかった。


「ねえミオ」


 ――ミオが自殺してから、ずっと、彼女に尋ねてきたことがある。


「どうしてあの時、一言声をかけてくれなかったの?」


 もし、一緒に死のうと言ってくれたのなら、あたしは。


 十年経った今でも考える。もしもあの時。けれどもミオはどうして、と。

 彼女なら、きっとあたしの手を取って言ってくれたはずだった。一緒に死んで欲しい、と。

 でも。


「……きっと、あたしが何ていうか、わかってたから聞かなかったんだろうけどさ」


 もしも、あたしが彼女にそう言われたのなら、きっと震えていただろう彼女の手を、包むように握り返していたと思う。


 そして、多分、そう、多分。


 ――生きてみるのも、ありなんじゃない?


 あたしは、おそらく、そう返していた。


「ねえミオ」


 それから、ミオにはもう一つ、尋ねたいことがあった。


「――あの時、なんて言ったの? あたし、記憶から消しちゃったの」



 * * *



 『花憑き』の治療法が見つかった。

 その噂を聞いて、当時ノーヴェ女学院五年生だったあたしは、一つ、夢を見た。


 初めて未来のことを思い描いた。


 ノーヴェ女学院五年生といえば、卒業目前の学年であるため、先生から将来のことについて聞かれ、また考えさせられる学年となる。あたしもちょうど、そういった面談を繰り返していたものの、何もなかったのである。


 だって、未来なんてないのだから。

 だって、ミオと共に咲くと、約束したのだから。


 ところがもしも。もしも自分が、大人になれたのなら?

 自分は一体、何ができるのだろう。

 咲かない、早死にしないということは、どういうことなのだろう。

 そして――大人になったミオは、どうなるのだろう。


「ミオはさ」


 深夜の邂逅は、満月の夜に行われる。昼間でも問題なくあたし達は会うことができたが、あたし達はこの特別な時間を、長いこと大切にして守ってきていた。


「ミオはさ、もし大人になれたら、どうする?」


 ミオが自殺する前の、最後の深夜の邂逅。あたしはそっと尋ねてみた。


「どうしたの急に?」

「いや~最近面談いっぱいあるじゃん。あたし、何にもないから、先生にめちゃくちゃ言われるんだよね」

「そういえばフルスって、よく呼び出しされてるし、面談も時間がかかってるね」


 鈴のようにミオが笑えば、青い蕾が月光にきらめいた。


「私はね、もう普通に『咲いちゃうから何も考えてないです』って言ってる」

「……それ、ありなのっ?」

「ありだよ。でもね、毎回そう言ってるけど、毎回すんごく怒られる!」

「だめじゃん!」


 きらきらきらと、輝くように、あたし達の笑い声が響く。

 ――あの笑顔の中、ミオの瞳に光はあっただろうか。

 やがてあたしは溜息を吐いて、大きくのけぞった。


「やっぱりちゃんと自分で考えなきゃだめかぁ」

「……いつもみたいに適当じゃあだめなの?」

「それでもいいけどさ……先生相手に誤魔化すの、面倒だし」


 『花憑き』の治療法だって、見つかったのだから――なんて、言わない。

 あたしは生きることを、考えなくてはいけない――なんて、口にできない。

 裏切りにも似ているような気がして、怖かった。


「とりあえず、消去法で……不器用だから何か作ったりする仕事はだめ。家事とか全然できないから、飲食店で働くのとか絶対無理、ていうか人の命令聞くの無理」

「花屋は? お客さん、少ないよ?」

「あ~無理無理。動物どころか自分の世話もできないから!」


 本当に、なりたいものなんて、ないのだ。

 しかし見上げた空に、星はいくつもあったから。


「……でもそのうち、何かできることとか、やりたいこと、見つけられるでしょ、さすがに」


 ――きっとミオは、この時、あたしの瞳に輝きを見たのだと思う。

 並んで空を見上げた彼女は、口をかすかに開けて、数多の星の光に晒されていた。

 そして彼女はどの星の輝きも、拒絶した。


「ねえフルス」


 不意にミオはすっくと立ち上がった。座ったままの、あたしを見下ろす。


「私、フルスのこと――」


 ――その後の彼女の言葉を、私は思い出せない。確かに聞いたはずだった。それなのに、忘れてしまった。


 正しくは、おそらく、記憶から消してしまった。

 自分自身で、消してしまった。


 それがミオからあたしに対する、何らかの感情を示す言葉、意味を含んだ声だったとは憶えている。

 それしか憶えていない。


 表情だって影になってわからなかった。かすかに口元が見えていたのは憶えている。笑っていた、と思う。優しく、寂しそうに。


「――そろそろいかなきゃ。明日、起きられないわ」


 と、その数秒がまるで夢だったかのように、ミオは顔を上げて、再び花畑を見据えた。

 やがて彼女は、道を歩き出す。


「ばいばい、フルス」

「――あっ、うん、また明日ね、ミオ」


 花があれば、頭に蕾があったままだったのなら、あたし達の終点は同じはずだった。

 でも道が伸びれば、変わることもあるだろう。二手に分かれることもあるだろう。


 あの時、あの瞬間、道が分かれたのかもしれない。

 そしてミオはその道を歩き続け、あたしの歩く道から離れていき、消えた。


 ――明日は来なかった。

 この後ミオは、冷たい川に飛び込んだ。

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