冷たすぎる雨は慈雨と呼べるのか


 * * *



 今日も淡々と研究員が記録をつけている。あたしはその顔を、じっと見つめる。研究員はあたしに見られていることに気付かないまま、徐々に眉を寄せていく。


 その様子に、あたしは察して口を尖らせた。溜息こそ吐かなかったものの、視線を窓へ投げる。外は今日もよく晴れていた。昨日も一昨日もよく晴れていた。変わらない日々。けれども流れていく雲は、昨日のものと今日のもの、同じじゃない。


 ――治験の最初こそ、研究員達はよく顔を明るくしていた。あたしには何が起きているのかよくわからなかったものの、いいことが起きていたに違いない。思い返せば、いまから半年ぐらい前まで、蕾に目に見えるような変化はなかった。『花憑き』の蕾に変化が見られないというのは、いいことである。


 けれどもやはり、時間が経つにつれて、蕾は大きくなっていった。あたしに重さの変化を感じさせないほどに、徐々に、ゆっくりと。


 研究員が何か言って出て行ったものの、あたしは興味が持てなくて、何を言っているのか理解できなかった。そして一人になる。今日は何をしようかなと考える。部屋から出ることは禁止されていないものの、だからといって図書室や談話室に向かう気もしない。病院の外へ行ってもいいというのなら、出て行ったかもしれないけれども、手続きが面倒だ。


 つと、サイドテーブルの花瓶が目に入る。以前ヴァネッサが置いていった花が茶色く枯れていた。白い花弁もすっかり汚れた様子で、テーブルの上に散っている。


「……なんか、かわいそうって感じ」


 最初はあんなにも真っ白で綺麗だったのに。

 しかし花が枯れることはいいことだ。


 ――本当に?

 ――花が醜くなるのは、いいこと?


 ……静かにベッドから抜け出す。裸足でぺたりと床に立てば、どうしてか新鮮な気持ちになれた。病室の中、優しく日光が当たる場所に立つ。外からの風が冷たくて、ネグリジェにも思える患者服の裾を揺らす。


 そういえば、数日前までは、あの枯れてしまった花だって、こうして揺れていたのだ。まるで水面の輝きを思わせるように。

 それはとても、綺麗で。


 手鏡を手に取れば、頭に白い蕾をつけたあたしが笑っていた。昔、この蕾は何色になるのだろうかと、胸を弾ませたっけ。結局のところ、どうやら何色にもならないよようだが、それもそれでいいと、いまは思う。何色にも染まらず純白に輝く様は、どこか凛々しくて憧れてしまう。


 きっと、この蕾は、あたしだ。あたしの理想だった。

 なりたいあたしの、姿。


 白い蕾は、半年前に比べれば、間違いなく大きくなっていた。香りだってわかる。

 ということは、死に近づいている、ということ。

 ――でもどうしてそれを、美しいと思ってしまうのだろうか。


 手鏡を持ったままくるりと回れば、まるで自分の蕾と踊っているような錯覚を覚えた。

 どうやっても咲くというのなら。美しく花開け。

 きっとあたしは、開花によって完成する。


 死への恐怖は不思議となかった。もしかすると、それが当たり前なのかもしれなかった。

 花は、花開くために蕾をつける。

 ならば、蕾をつけたあたしは、もしかすると、咲くのが正しいのかもしれない。

 存在理由を示せ。開花の輝きに、きっと意味がある。


 ……ただヴァネッサの姿が脳裏をよぎる。

 彼女はどう思うだろうか。



 * * *



「『機会仕掛けの竜』に入ろうと考えてるんです」


 ある日、突然のことだった。

 その日、ヴァネッサは病室にやってきた。今日は長居するといって、あたしの机を勝手に使い、勉強し始めた。珍しいけれども、初めてではない。話によると、ここでの勉強が捗るのだという。だから切羽詰まった時はここで勉強がしたいが構わないかと――優等生のヴァネッサでも切羽詰まることがあるのね――尋ねられたことがあって、あたしは「毎回花をもらってるしどうぞどうぞ使ってよ」と返した。


「でもあたし、たくさん話しかけちゃうわよ? だって退屈なんだもの」

「それは別に構いません、適当に流すので」

「ひどいっ! ひどいくらいに素直!」

「……そもそも私と話をして楽しいんですか?」


 その質問にあたしが頷けば、参考書に向かっていたヴァネッサがちらりと見て、奇妙なことに、もう一度あたしをちらりと見た。なんで勝手に引いているんだろう、とあたしは思った。


 以来、ヴァネッサは本当に時々、この場所を借りて勉強する。最初に言った通り、あたしが話しかけても適当に流して勉強を続ける。彼女から話すことはなかった。

 ――それが今日は違った。


「……ヴァネッサ、もしかして、いま何か言った?」


 ヴァネッサが何か言い出すとは信じられず、あたしは聞き返した。その時あたしは、ベッドの上でトランプタワーを作るのに必死で、いまの少しの動きでぱらぱらと崩れてしまった。


「……『機会仕掛けの竜』に入ろうと思ってるんです」


 トランプの一枚が、木の葉のようにベッドの上から滑って床に落ちた。ペンを置いたヴァネッサが立ち上がり、拾い上げる。スペードの3。


「どうしたの急に」


 トランプが差し出されるものの、あたしは受け取れなかった。本当に、唐突だったのだ。


「……ノイ、あなた、いまここにいるから知らないんでしょうけど、私はもう五年生なんです。五年生って、卒業後どうするか決めなくちゃいけないんです」


 あたしがきょとんとしているのを見かねてか、ヴァネッサが散らばったトランプをまとめ始める。


 そういえば、聞いたことがある。五年生になったら、卒業後どうするか決めなくてはいけない、と。あたしは四年生の頃に、治験・実験協力をすると決めてここに来たものの。


「それで、私は『機会仕掛けの竜』の研究員になろうと思ったんです。試験の申し込みはもうしました」

「……へ、へえ」


 意外、というよりも、予想外、というよりも。

 ――この感覚を正しく表現する言葉は、恐怖、だったのかもしれない。

 『機会仕掛けの竜』とは『花憑き』の研究機関で、花を消し去ろうとする組織だ。


「あんた……なんていうか、本当にそういうのが好きね」


 あたしは焦りを隠してベッドの上で腕を組む。ヴァネッサは綺麗にまとめたトランプを、サイドテーブルにおいた。そこには、今日新しく貰った花も飾ってある。

 ヴァネッサはずれたメガネを正す。瞳はあたしに向けられてはいなく、そっぽ向いている。


「それで……ここに来る頻度が、増えるかと思います。勉強、たくさんしないといけないですし、ここには研究員の人がたくさんいますからね。当たり前ですけど。いろいろ話を聞いたり、試験についてアドバイスを貰ったりしたいんです」

「ここで勉強する方が集中できるっていうのなら、それはいいことだし、研究員からも話を聞けるんだから、それはいいことなんじゃない? もしかするとコネで入れちゃったりね!」


 あたしはいつものように笑って返した。そういう風にして、返した。

 内心、言葉にできない不安があったけれども。


「ノイ、『機会仕掛けの竜』に入るのは、そんなに甘くないですし、私は正々堂々やりますよ」


 ヴァネッサがメガネの向こうの瞳を光らせる。机の上に開かれたままの参考書に、視線が向けられる。

 あたしには見えない、どこか遠くを見ていた。


「とにかくちゃんと勉強しないと……それに、しっかり学ばなくては……『花憑き』を治す方法に、至ることができません」


 『花憑き』を治す。

 言葉がついに、あたしの胸を貫いた。

 そして改めてあたしに向けられたヴァネッサの瞳が、さらに穿つ。


「ノイ、私は『花憑き』を治したいんです」

「……どうしてそこまで?」


 やっとの思いで声を絞り出したが、あたしは至って普通に尋ねた。いつもの調子で、両手を大げさに広げて、まるで女優になったかのように声を響かせる。


「本当に真面目……というか、誰かに尽くさなきゃとか、誰かがやらなきゃってことをやりがちじゃない? そういうの好きなの?」

「なんだか嫌な言い方ですね? でも言いたいことはわかりますが……そういうのではありません」


 ヴァネッサは怒らない。遠くを見ているような瞳に、果たしてあたしは映っているのだろうか。


「ただあなたと一緒にいることが多かったので……もし『花憑き』の研究に加わって、その花をなくすことができれば、それはいいことだと思ったんです……あなた、そういえば治験を受けるか受けないかの時に、長生きして欲しいか、なんて聞いてましたね」


 ちらりとヴァネッサはあたしから視線を外す。メガネが光を反射して、その瞳が見えなくなってしまった。けれどもあたしには、彼女が花瓶の花を見ているのだとわかった。


「花は命を奪うものですから。もし、なくなるよう研究を進めることができたら、私は……」


 すぐにでも、研究員になりたいんです。


 彼女がそう言ったように思えたものの、夕日の中で聞こえた幻聴だったのかもしれない。

 ただあたしは、どうしてか不意にぽつりと胸の中に落ちた「つまらない」という雫を感じていた。

 雫は透明で冷たい。にわか雨を彷彿させた。

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