第六話〝死の咆哮〟
轟音が響いた。
「う、うああああ」
「だっ、大丈夫ですか!?」
低く腹の底が唸るような振動に気分が悪くなりそうな眠くなりそうな気がして、けれど、僕の見張り役を買っていた彼らの方がよほど苦しげにしたものだから、僕は急いて身をよじってベッドから降り、芋虫みたいに彼らの方へ這いつくばった。
聴力、知覚過敏、彼らはこの轟音のさなかにこの世の終わりみたいに声にならない絶叫をあげてうずくまっていた。ルカも縛られているのだろうし、この村では僕しかまともに動ける奴がいないんだとすぐにわかった。確信する。だったら今は、僕らを助けてくれた彼らを、僕が助ける時だ。
「み、ミミナガのおじさんっ、聞こえますか!? うるさくしてすみません、あの、たぶん僕しか動けないと思うから、この音の原因、僕が探して止めに行きます! だから縄をっ。逃げたりしません、助けていただいたんだ、恩返しだけ、させてください!」
長い耳を塞ぎにくそうに塞いだ見張りのおじさんが、這いつくばる僕をちらりと見下ろした。明らかに視力を感じない色の抜け切った目で何が見えているのだろう。あるいは僕の声を? ともかく僕は砂まじりの床に頬をくっつけたまま少しずれたメガネ越しにおじさんの目を見返す。彼は音の波に合わせて苦悶の表情を浮かべながら、かすかに思案するように息をつめた。
「絶対、みんな助けるから!」
言い直す。傲慢なくらいの方が意気が伝わるかなと思ったのだ。するとミミナガのおじさんは苦悶のうめきに失笑を混ぜて溢した。そして震える手が僕に槍を渡す。苦しい途中の彼らにできるのはそこまでだ。縄を切るのは自分でやる。もぞもぞと不恰好に全身を動かして、必死になって手足の縄を刃に押し付け、解いた。やっと立ち上がり、身体が動くことを確認して、メガネのずれを直す。
「ありがとうおじさん、待ってて! こんな音すぐ止めてくるから!」
叫びながらもう駆け出していた。貧弱な耳を澄まして、鳴り響く轟音の大きい方へ。走る走る。転ぶかも、ぶつかるかも、なんて気にしている場合ではない。命の恩人たちが苦しんでいるのだ。僕がちょっと怪我をしたっていい、音を止めるのが先に決まってる!
かろうじて木の幹と正面衝突なんて事態にはならず、せいぜい肩をぶつけるくらいで朝の森を駆け抜ける。痛みに食いしばった歯の隙間から浅い息が漏れていく。だが、長くは続かない。不意に木の根につまづいて、僕は勢いのまま派手に転倒した。しかも急な斜面で、湿った土は受け身を取ろうとしたその刹那にどろりと滑った。あっけなく下へ下へ。またこのパターンかよ! なんて叫びたくもなる。けれど方向は間違っていないようで、轟音は、はっきりと近づいて、もう僕でも耳を塞いでいないとかなりきついくらいになって、生理的な反射の涙が滲んできて、やがて滑落が止まった。ぜいぜいと肩を揺する。泥まみれだがたぶん血も混じっている。全身が少しずつ痛い。
それでもと立ち上がった。ぬかるみに気を払いながら、滑落に耐えたメガネに安堵と感謝をしながら、おそらく音の出所だろうものの方へ目を向ける。全貌は見えないが何かがそこにあることは気配でわかる。疲れた身体が勝手に激しく息を吸ってむせ込んだ。いやな匂いがしていた。冒険帰りのにいちゃんよりひどいにおいがする。滑落してから急ににおってきたということは、空気より重い気体、あるいは液体のミスト。
「……うぁ……、あ、かい……」
赤い。
赤はこのモノクロに閉ざされた世界でも誰でも知っている色だ。家畜を捌くとき見る。怪我をしたとき見る。瞼に強い光を当てても見える。僕ら生物の、身体の中の色。
赤が霧に混じって立ち込めていた。もとより湿った環境だがもっとじっとりした感触がある。においもどうやらここから来ているようだった。
できるだけ息をしたくないのに鼓動がそれを許さない。たびたび咳をしながらくらくらする頭を押さえ音のする方へ歩く。止めなきゃならない。止めなきゃ。僕だって、この音、この匂い、この赤が嫌で仕方がないから。
「うっ、」
耐えきれずに少量の胃液を吐いた。せっかくいただいたご飯がどろどろと喉の奥から出ていって黒い泥に混ざる。もったいなくて泣けた。
進む。もう耳がいかれたのか音が気にならなくなってきた。赤い霧の不快感だけ強烈なままだ。早くぜんぶ慣れろ。いかれてしまえ。僕は進まなきゃならない。恩返しをすると約束したのだから。
いつの間にやらガクガクと震え出した足を意地だけで前に進める。
わかっている。わかっている。この赤い霧とにおいのことをなんと呼ぶかなんてわかっている。それでもだ。それ、でも。
ぬち、と足元で何かが鳴った。
いっそう鮮烈な、赤を見た。
「……ッ!」
あまりのことに鳥肌が収まらなくなる。
吸いたくない「死臭」を忙しない呼吸器が肺に取り込むから、何もかも嫌になりそうだった。
でも、でも。でも!
脳裏でルカが笑っている。にいちゃんがのんびりと愚痴を言う。命を救ってくれたおじさんの苦しむ声が過ぎる。
僕が。僕がなんとか。しなきゃ。
あまりに大きな、そう大きな、死を前にしている。死がここにある。ものすごく遅れた現状認識が涙になって頬を伝った。そのとき轟音が。示し合わしたみたいにいっさい止んだ。目の前に横たわる大きすぎる死が、ねばつく温度がその一瞬で濃密な静寂を灯した。ああ。ああ。そうか。死に際だったんだ、あれは断末魔だったんだ、納得が全身を震えになって駆け巡る。
その大きな生き物はーー
そのあまりに色鮮やかな生き物の正体は――?
「ああ……、あああ……」
涙で。
世界が。洗い流されていく。
曇りが。霞が。……霧が!
流されていく。
ぎゅうと目を閉じた。計り知れない高密度の静寂に耳を塞いだ。うずくまって叫んだ。嘘だと言ってくれ。わからない。こんなの。ルカ。にいちゃん。ミミナガのおじさん。教えてくれ。いいやどうか知らないでくれ。こんな圧倒的な死のことを。僕しか見なかったのなら良かった。誰かがこの絶望に遭わなくてよかった。心底そう思う。
色が見える。
色が、見える。
500年の霧が晴れた。かのように僕には見えた。たぶん違う。湿度は変わらないから。ただ、僕のこの眼に色が見えた。あるはずもない10m先。うそだ。もっと。何十mも続いていた。もっともっと。何百m。そんな先に世界はないと信じていたのに。
極彩色で流線形で、左右と尻尾に三角のひれを持つ、華やかで巨大なその姿が、ああ、もういいや、言ってしまおう――メクジラの、死骸が、瞼に焼き付いてしまった。
また嘔吐する。恩人にもらった大切な食事が、赤と混じって濁っていく。拍子、僕の吐瀉物の中にメガネが落ちた。拾う気にもならないし、拾う必要ももうなかった。
「はあ、はあ、はあ」
頭が揺れる。死臭が満ちている。あかいろだ。それだけではない。桃紫青緑黄橙。人類が500年のあいだ知るよしもなかった鮮烈で暴力的なこの世界のトゥルーカラー。
急に広がった知覚情報に、とてもではないが脳が追いつかない。目を開くとたちまち気分が悪くなる。いつ終わるんだ、これは。戻るのか、僕の眼は。戻してくれ。こんな思いをするくらいなら何も見えない方がマシだ。美しいもんか。こんなのが美しくてたまるか。なあ、ルカ。いつかメクジラを見たいと頬を染めて語った君。生きているならいざ知らず、頼むからメクジラの死を見るのはやめておけ。血を吸い込むのもやめておけ。できればゴーグルなんかで眼を守るといい。見たくないものがぜんぶ見えるようになってしまうから。
メクジラの死骸を前に、血溜まりでのたうちまわって、どのくらい経ったのか。恐ろしいことに脳はそれでもこんな視界に順応し始めて、この短時間でなんとか立って歩けるくらいの回復を見せた。うそだろ、と何度目かの呟きをこぼす。死臭だってその頃にはわからなくなっていた。いちばん怖いものは慣れだ、と教訓ひとつ、僕はどうにか動かせる足で移動を始めた。とりあえず沢か何かを探す。死臭がうつった状態では誰に会っても迷惑に違いなかった。
ひとまず木々を伝って上へ逃れ、周囲に水場を探す。村の近くともあってすぐに沢が見つかる。まだ村はパニック状態なのか誰も出てきていなくて安心する。無心で身体を清め、服に染みた血を丹念に落として、きつく絞ってまた身につける。擦り傷に水の染みる痛みや濡れた衣服を着る気持ち悪さくらい、あの死を見届けた僕にはどうってことなかった。
「……つ、かれた……」
ぼやく。ぼやいたところで気づく。あの断末魔、間近の轟音に耳がやられたままだった。自分の声がうまく聞こえない。見えすぎる方に気を取られて気づくのに時間がかかった。何度か試しにあーあーと声を出してみるが一向に音が入ってこない。耳はもうだめなのかもしれない。メクジラの死に際の咆哮くらいしか、もう聞こえないのだろうか。それは嫌だな。
なんておぼろげに考えながら僕が囚われていた小屋へ戻ると、まだそこにミミナガのおじさんはいた。気分が悪いのか座ってじっとしていたけれど苦悶の表情ではない。災厄は去ったようだった。
ただいま、おじさん。すみません。耳が聞こえなくなりました。
言えているのかわからないまま、筋肉の記憶だけに従って言ってみると、彼はひどく驚いた顔で立ち上がり、僕に詰め寄ってくる。唇が動いている。わからない。
「ーー! ――!!」
「ごめんなさい聞こえなくて。えっと……そうだな……説明ですよね。クジラの死骸があって。あの音、クジラが最期に叫んでたみたいで……。おかげで耳やられちゃって。眼、は、何故かすごい見えるようになっちゃったんですけど。たぶんメクジラの血のせいだと思うんだけど……。このくらいです。とりあえずご無事そうで良かった。っと、そうだルカは? 無事ですか?」
言えているのだろうか。
不安になるが、おじさんが表情を変えたから、伝わってはいるのだと胸を撫で下ろす。が、最後の問いには、なんと重々しい表情で首を左右に振られてしまった。
「え!? ルカに何かあったんですか!?」
「――!!」
「聞こえないですって……」
ミミナガのおじさんは険しい顔をして、ふと僕の手を取り歩き出す。大人しく着いて行くと、似たような小屋の中、乱雑に解かれた縄の残骸と、ルカの靴と靴下が残っていた。
「まさか。……自力で逃げ出した?」
こくこくこく、と何度もうなづかれた。
「ま、マジかよ!? ほんっとに強いなルカは……ていうかまさかクジラのとこ行ってないよなっ……!?」
「――!」
「あの、それじゃあ僕ルカを探しに、っていうか、もうここ出てもいいですか? 音もおさまったみたいだし……」
「――」
「だめなの!? なんで!」
「――」
「僕は眼だけでも動けます! 耳だけで暮らしてる人たちが変な心配やめてください。それにルカを放って帰るなんて、あり得ねーから。知識も体力もないのに危険な場所にひとり出てった奴を、わかってて見捨てるなんて、ないから」
ルカは僕のきっかけになってくれた。ルカがいたから血溜まりの中ですべて投げ出してしまわず済んだ。
守らなくちゃいけない。
おじさんの手を振りほどいて走り出した。見えているから、もうどれだけ走ってもものにぶつかることはない。おじさんは追ってこなかった。放っておいてくれたというより、もとより疲弊しているところだったからだろう。
「助けてくれてありがとうございました!!!」
叫んでおく。叫べているかどうかわからない。でも喉は動く。息が声帯の隙間を通って飛んでいく。うまく言えていなかったとしても、何かは伝わる声が出せたはずだった。
空っぽの胃がキリキリと悲鳴をあげる。疲労が限界に近い。無視して、ひた走る。木肌は薄いグレージュ、葉は濃い緑青をして、森の続く限り同じ色が続く。見回しながらしばらく行くとすぐにルカを見つけた。まばらな森の木々をすり抜けて何百mも先。たたずんでいた。流石にこれだけ離れていたら顔などは見えないが、華奢な背格好と服装でわかる。
良かった。無事だった。
そう思って、まだ走れる、と全身に確信が響いて、限界を超えた足を進めた。近づいてくると彼女の細部まで見えるようになる。やっぱりルカだ。真新しい包帯の巻かれたぼろぼろの足、枝を引っ掛けたような破れだらけの上着、ほつれた長い髪、胸に抱えた何かまるくて暖かな色のもの、そして、
――――?
「ゴールドクラスの……メガネ……?」
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