(二)

 目を覚ました時、酷く重かった。意識ははっきりしていくが、体は動かしたくない。僕は目を閉じてベッドの中、寝転んだまま考え事をした。

 ここは何処だろうか。あの男が使ったのは何だろうか。大丈夫とは何のことだったのだろうか。

 声がする。耳をすますと会話が聞こえた。

「やっと研究を試せるんだね」

「はい、きっと大丈夫です」

大丈夫と言った声は、僕を気絶させた男のものだった。彼には腹が立った。怒鳴ってやりたかったが、やり取りを盗み聞きすることにした。研究とは何のことだろうか。

「彼が来てくれてありがたい。実験を行っている最中は口を塞いでしまうからね。暫く食事を摂らなくても大丈夫な人が必要だったんだ。彼は本当に大丈夫なんだろうね」

「大丈夫といっていました」

「それなら大丈夫だね」

つまりこういうことか。この二人は僕で実験をするつもりなのだ。

 危険を感じ、体が勝手に起き上がった。足を伸ばして上半身を立てた体勢になる。いきなり瞼を開いたので少しの間照明が痛かった。それに慣れて視界が正常になると、椅子に座ってこちらを見ている二人を認識することができた。大丈夫男が左側、科学者であることをアピールするように白衣を着た男が右側にいた。

「起きたのか」

白衣の男がそう言った。あまりにも穏やかなその発声は、僕の体を固めていた恐怖を和らげた。

「よく寝ていたねえ。協力してくれるっていうのは本当かい」

ああ、あの男、白衣の彼に嘘を言ったな。台詞から悪意が感じられないのはそのせいだと考えた。

「実はさっき少し会話を聞いていたんですけど、僕、暫く食事を摂らなくても大丈夫な人じゃないんですよ。そこの彼なんですけど、何もちゃんと説明していないんです。大丈夫か大丈夫じゃないかを教えてほしいとしか話してくれませんでした」

白衣の男は驚いた顔をし、そして尋ねる。

「それはマル、本当なのか?」

「はい」

「はい」

僕と大丈夫男が同時に返事をした。それを受けて目の前の二人が不思議そうにこちらを見る。頭を回転させて、なるほど、理解した。変だとは思ったが、マルというのは何かの言い違いではなく、大丈夫男の呼称だったのだ。白衣の彼がマルと言うイントネーションは人を呼ぶときのものではなく通常のものであった。それが彼を呼ぶときの正しい発音なのだろうが、少し迷惑に思ってしまった。名前ということをよく分かったと自分で自分をほめたい気分だった。

「マルって名前なんですか」

「え、ああそうです。自分がマル。漢字は弾丸のガン。そしてこの方がフカ博士」

「フカ?」

「私の本名は深沢なんだが、彼はそう呼んでいる。マルは丸だがね」

「そうですか。自分は山口です。すみません、話が逸れました。つまりマルが、あ、マルと呼んでいいですか?」

「はい、大丈夫です。大丈夫です」

大丈夫はこの人の口癖なのだろう。うっとうしい。しかし、しょうがない。なぜか敬称無しで呼ぶことを了承してくれたが、その方が都合はいいので別に気にすることもない。

「マルがあなたに嘘を吐いていたということです」

「マルの言い分を聞こう」

僕とフカ博士の視線が同じところを向いた。そこには少し慌てた表情があった。それから観念したような表情になり、口が動いた。

「いや、なかなか協力者が見つからなくて、つい不正をしてしまいました。山口さんには謝らなければいけないと思います。申し訳ありませんでした」

そんなにちゃんと謝罪されるとは予想していなかった。そして、そこはあまり怒っていないところだったから、少し困った。

「いやね、それはいいんだよ。迷惑なだけだったから。まあ迷惑なのもよくないんだけど。気絶させるのは駄目じゃないかな、というか駄目なんだよ」

「なに、そんなことしたの。すみません山口さん、許してくれますか」

「まあ、そんなに謝ってくれるなら許すんですけど。それよりなんですか、暫く食事を摂らなくても大丈夫な人って」

僕は、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「ああ、その事も言っていないのか。ええと、実験に使う装置を着けるのは丁寧に丁寧にやらないといけないんですよね。時間が懸かる。毎度外すよりも着けっぱなしの方が良いと思って、そういう人を探していたんです。口が塞がってしまうんでね」

「何の実験なんですか」

「私は味覚について研究していて、口の感覚に刺激を与える装置を開発したんです。実験は、それを試す、というものでね」

「なるほど、なんとなく内容は理解できました」

彼はつまり、まだ成果を出していない発明家というところだろう。世の中には実際そういう人が多いのかもしれない。

「しかし、危険じゃないですか。栄養が無ければ衰弱してしまうでしょう。点滴でもあるんですか」

「いや、無いんだけどね。でも大丈夫な人もいるかなって。カフカの『断食人間』的なイメージだったんだけど」

「なんですかそれ」

「知らないならいいんだ」

フカ博士は少し残念がって、それから部屋は沈黙となった。

 私は不思議な気持ちだった。それはこの状況だったり、会話をしている自分だったりに向けられたものである。現実味のない世界に投げ込まれたところで割と冷静でいられているのは意外だった。

「とにかく、僕は帰してもらえるんでしょうか」

それを言うと、二人は困った顔をした。そしてフカ博士が答える。

「いや、良ければ協力してほしいんだけど。ううん、どうしようか。……ああそうだ。一日だけならどうだい」

「はい?」

「一日分だけやってほしい。その間はやっぱり食事は摂れないんだけど、それくらいなら、どうだろう。それくらいなら、大丈夫かな」

僕は悩んだ。実は、研究に少し興味が出てきていた。さらに、一日だけなら我慢できそうなのだ。短くなら実験に参加したくなっていた。

「危険じゃないんですよね。それなら、大丈夫、だと思います」

「ああ、ありがとう。本当にありがとう。困ってたんだ。ありがとう」

僕はまた嫌になった。今度は「ありがとう」か、と。この、同じ言葉を何度も繰り返してしまうのは日本人のどうしても直らないところなのだろうか。それに出会う度に考える。そして、それを自分もしていることを反省する。マルとの最初の会話を文章にしたら読みにくくてしかたないだろう。あえてそうするという手もあるが。

「大丈夫ですか」

マルが尋ねた。余計なことを考えて、少しぼうっとしていたようだ。僕は答える。

「大丈夫」

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