第11話

 次のバイトが見つからないまま、一週間が過ぎた。

 三月の末にはあれほどピンク色だった桜も、いまはすっかり若葉に緑一色に様変わり。

 小雨のちらつく少し暗い空、ひんやりとした風が肌を刺激する今日は、おれの初めての出勤日でもあった。この日のために小学三年生向けの算数ドリルをやりこみ(さすがに簡単だったので安心した)、おれは満を持して、授業が始まる三十分前には到着していた。

 いよいよだ。そう思って塾のドアの取っ手に手をかけた、そのとき。

「もう、やめてよー!」

「きゃあー!」

「ちょっと、なにすんの!」

 突如背後から飛んできた黄色い悲鳴に、おれはふりかえる。すると三人の小学生の女の子たちが、こちらにむかって駆けてくるところだった。

「ど、どうしたんだ?」

 その中の一人がハルだと気づいたのは、そう声をかけてから。そして彼女らを追いかけている、半袖半ズボンに黒いランドセルを背負ったやつの存在にも。

「おーまーえー!」

 宏太はあからさまにやべ、という顔をしたが、おれは逃がさない。回れ右しようとした宏太を、おれは後ろからがし、と掴んだ。

「何やってんだ宏太!」

 手には細い木の棒。それを取り上げて、おれは怒鳴った。

「目に入ったら危ないだろ!」

 だが宏太はまた、あの澄んだ目でキッとおれを睨むだけだった。以前ペット用品店で見せたような柔らかさはなりを潜め、

 硬い殻を被っているように見えた。それも、イガグリみたいにトゲトゲの。おれはクールダウンして、言い聞かせるように宏太に向きなおる。

「……なあ宏太。誰かを傷つけたらダメだろ。こんなふうに人を追いかけまわして、怖がらせてもダメだ」

 真一文字に結ばれた口は、何をしても開きそうにない。ため息をこらえ、おれはいつもみたいに、宏太の目を覗き込んで言った。

「お前は、一体何に怒ってるんだ?」

 宏太はうるせえ、ともクソジジイ、とも言わなかった。力が抜けたから、おれも肩を掴んでいた手を放す。宏太はくるっと背を向け、ゆっくりとまた、夕方の人通りの多い道を歩いて行く。とぼとぼと肩を落とすその小さな背中を目で追っていると、なんだか罪悪感がこみ上げてきた。

 ……いや、おれ間違ってないよな。棒を持って走ったら危ないもんな。見て見ぬふりなんてできないはずだ。でも、おれの口は勝手にその背中に声をかけていた。

「宏太」

「……」

「たんぽぽなら、無害らしいからウサギにあげても問題ないぜ」

「……」

「うそじゃねえ。わざわざ図書館で調べてやったんだ」

 宏太は十メートルくらい先で、そっと振り向く。

「人間にも?」

 どうしてそんなことを聞くのだろう。少し戸惑ったが、たぶんな、と言った。

「たんぽぽの天ぷら、意外とうめえからな」

 宏太は「あっそう」と言って――実際には聞こえなかったが、口の形でそう見えた――今度こそ去って行った。

 それから、おれの後ろに隠れていた三人の少女に向き合う。けがはないかと問うと、三人とも首を振った。

「ううん、ないよ、先生」

 ハルがそう言ったが、その目は少し潤んでいる。マスクの中から、ずび、と鼻をすする音もした。おれはなんといったらいいかわからなくて、うろたえる。

「そっか、ハルちゃん、塾行ってるんだもんね」

 それじゃあね、と手を振って、ハル以外の二人の女の子は、近くに宏太がいないのを確認するように左右を見て、それから去っていた。

「……ハル、その、宏太にいじめられてるのか?」

 もっとオブラートに包むとか、デリカシーのある聞き方もあっただろうに、おれはいつも、ストレートに球を放ってしまう。

 ハルは目を見開いて、それからううん、と首を振った。ハルが何も語らない以上、詮索することははばかられた。だから空気を変えるように、ランドセルに手をやり、「さ、中に入ろうぜ」と明るい声を出す。

 なんだか不穏な幕開けになってしまったが、初回の授業はあっけないほどスムーズに進んだ。算数のプリントを解くハルを、横からそっと見守るおれ。

 驚いたのは、そのプリントを終え、自分で持ってきたドリルを解き始めたときのことだ。明らかにその内容が小学三年生レベルではない。すでに分数や円の面積なんかの問題もすらすらと解いている。この調子だと、中学の内容に入るのも時間の問題ではないか。背中に冷や汗を感じながら、おれは質問されたときのために、脳内の引き出しをひっくり返して数学の記憶を探した。だがハルは、淀みなく数式を書き込んでいく。中学の頃の参考書、どこにやったっけ。家に帰ったら早急に探さなければならないようだ。

 ちらりと見えたランドセルの中身は、教科書やドリル、本でいっぱいだ。少し持ち上げてみたとき、その重さに驚いた。おれのスカスカだったランドセルとは違う。だがその分、ハルは毎日いろんなことを吸収しているのかと思うと、おれは尊敬のまなざしを向けずにはいられなかった。

「すげえなあ、ハル。ほんとに優秀だ」

「ううん」

「なんだよ、謙遜すんなって。おれも負けないように勉強してくっからよ」

 ハルは笑っていた。ベランダのプランターに種を埋めて、毎日水をやって、それでようやく芽が出たときみたいな感動が湧き上がる。結局この日は、定期的にくしゃみをするハルに、「大丈夫か?」とティッシュを差し出す係と化していたおれだったが、こんなふうに笑ってくれたから良しとしよう。

 ハル見送るために、外へ出る。このまま平穏にサヨナラができると思っていたが、残念ながらそんなことはなかった。

 ドアの前には、宏太がいて、佐々木さんが困ったように話しかけている。

「宏太……」

 だがおれを見るなり、すぐさま逃げだす。それにはもう慣れっこなのだけど、ハルが心配になってそっと彼女をうかがう。だがハルは、動揺するでもなく、じっと、ここではないどこか一点を見つめているようだった。それから宏太については一言も触れず、落ち着いた表情で帰っていった。去りぎわにまたくしゅん、とくしゃみをしたので、思わずジーパンの中のポケットティッシュをぎゅ、と握った。

「バイバイ、ハルちゃん。また来週ね」

 佐々木さんに向き直り、おれは聞いた。

「あいつ、またなにかイタズラでもしてました?」

「ううん。今日はなにも。でも、しばらくは花壇に花を植えない方がいいかもしれないわね」

 そういう佐々木さんは少し疲れたような顔をしていた。それ、ほんとはウサギのエサにするつもりだったんですよ、とは言わなかった。別の目的があったとはいえ、宏太がまだこの塾に執着している以上、問題は解決していないと思ったからだ。黙ったおれに、佐々木さんは話題を変えた。今日はどうだった? と聞かれたので、おれは「何もすることがないです」と正直に答えた。

「だってもう、六年生くらいの範囲やってますよ?」

「あら。じゃあ近々、レベルをあげないとね。相沢くんも頑張って。中学レベルならあなたも余裕でしょ?」

「いや、まあ、たぶん……」

 聞いていた話とは違っていたが、まあいいだろう。

「これからもよろしくね。その……ハルちゃんは、本当に優しい子で。でもね、去年、不登校になってしまったことがあって」

「不登校、ですか」

「ちょっとしたことも、本気で受け止めてしまう繊細さんなのよね。だから、たとえ学校で嫌なことがあっても、ここが逃げ場になればいいかなあ、なんて考えているのよ」

 そういうふうに言ってくれる誰かがいるのは、幸せなことだと思う。

 ハルが明日も嫌な思いをせずに一日を過ごせるようにと願いながら、おれは小さく頷いた。

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