第3話 クルミの幸せな牢獄
4か月続いたお砂糖生活は、フレンドからの密告で崩壊した。私の残業が続いていて、彼との時間を取れなかったのは申し訳ないと思っていた。それでも、私がいない間に現れたどこの誰とも知らない子に彼を取られたというのは、怒りを通り越してやるせない。
そして、どうして密告なんてことをしたのか、そのフレンドにも呆れてしまった。何も知らなければ私は、彼を取り戻す機会もあっただろう。繁忙期さえ過ぎれば彼との時間は元に戻るし、そうしたら、彼が私に気を戻すことも十分あっただろう。私は何も知らずに幸せでいられたはずなのだ。
ただ、何も知らずにいたかった。
傷心のままコミュニティの人間を全員ブロックした後、私は薄暗いマッチングワールドで適当に出会った人間とプラベに消えていった。何も知りたくなかった。相手のプロフィールすら見ないで、偶然目が合っただけのどんな顔をしていたかも覚えていないアバターとJUSTをしたところまで覚えている。酒を入れていたのかもしれない、それ以上のことは覚えていなかった。
それから一週間パブリックを彷徨って、今更新しいコミュニティに入っていく気力もないことに気が付いた私は、ぶいちゃを引退しようと思った。引っ越し前に近所のコンビニに哀愁を覚えるみたいに、ホームワールドの全てが暖かく見える。淡い光の差し込む天窓、花のテーブルランプ、中空に文字の書けるペン。どれも現実にはないものだ。ぶいちゃでの生活を思い返すほどに、ここで全てを終わらせることに躊躇いを覚えてしまう。
そうやってホームワールドの隅々を触って回った後、ログアウトボタンにビームを添えようとした時。誰かがjoinする音が聞こえた。
「こんばんは。あの後大丈夫でしたか?」
ネームプレートに書かれている『シグ』という名前には見覚えがなかった。noteも書かれていない。男性アバターを使う人が身近にいた覚えもなかったが、口ぶりからして近日中に出会ったのだろうと察した。
「……どうも」
どう返して良いか分からないなりの返事をすると、自分の声が涙混じりになっていることに気が付いた。ぶいちゃを去るのは、本当は嫌だった。
だから、だと思う。この後の私は彼に心酔してしまった。
彼は優しい人だった。コミュニティを失った私を自分のコミュニティに招き入れ、打ち解けやすい用に歓迎会まで開いてくれた。毎晩のようにV睡を共にしてくれたし、私も彼に毎晩joinするようになった。
お砂糖の話は私から持ち出した。コミュニティの皆からペアとして扱われてる以上、今更そんな形式張ったものは要らないだろうと思いながら、周りの皆への、言わば感謝の証として私たちは結ばれた。
「お前らやっとか~」
「クルミちゃんおめでとう!」
「シグもついにお砂糖持ちか」
皆にお砂糖報告をすると、祝福の声に包まれた。この時の私は、私とシグは、幸せの頂に居たと思う。どんな未来も幸せに飾れる気がした。シグと二人で、このVR世界を生きていく。そんな晴れやかな気持ちでいっぱいだった。
この幸せにヒビが入ることは、終ぞ無いに違いないと思えた。
「シグはさ、一人の時って何してるの?」
「ゲームしてる時もあるけど、本を読む時間の方が多いかな」
「シグってどんな仕事してるの?」
「IT系だよ。保守とか言って通じるかな」
「シグって今まで付き合った人っているの?」
「一人だけいるよ。でも、あまり面白い話はできないかな」
「シグ、昨日どこにいたの」
「フレンドのところだよ。誕生日のお祝いが長引いてね」
私は次第に不安になっていた。不安になって、シグの全てを知ろうとした。シグという人の全てを知りたかった。シグがいつどこで何を考えて誰とどんなことをしてどう感じているのか、過去も今も未来も全て、シグの全てを知りたかった。
漸く掴んだ幸せが、私の知らないところで壊れていくのはもう嫌だった。
「ねえ、シグ。リアルで会ってみない? 今度リアルVketってイベントが……」
「――ダメだよ」
その時シグは、今まで聞いたこともない冷たい声で返事をした。いつも余裕があって、優しくて、夢を見ているような時間を共有してくれるシグから、私の知らない声が飛んできた。突き放すように、拒絶するように、シグは私との間に明確な壁を作るように、拒否した。
狼狽えている私を見て、シグの方が先に冷静になって言い直す。
「ごめん。突き放すつもりはないんだ。僕はクルミと一緒にいたいよ。でもそれはVRでの話であって、リアルに持ち込みたいとは思えないんだ」
「どうして? リアルでは別に好きな人いるとか?」
自分でも醜いことを言っているのは分かる。それでも、シグのことが知りたかったのだ。
「……僕と出会った時のクルミは、何も知りたくないって言ってた。この世界には知らない方が良いことが一杯あって、それを知って不幸になるくらいなら何も知らないままで居たいって、そう言ってた。僕はその言葉に惹かれたんだよ」
「そんなの……」
覚えていない、なんて言おうとして言えなかった。覚えていなくても、それが私の言葉であることに間違いないと思えた。だって、シグと出会ったはずのあの頃は、私は確かに余計なことを知って破局した直後だったから。
「VR上なら、僕らは何も知らないままで幸せになれる。名前も顔も性別も、時には声だって要らない。何もないままで幸せになれるから、僕らはこの世界にいるんだ。……だから、クルミも何も知らないでいてほしい。リアルの僕を知ったら、君はきっと不幸になる。リアルの僕は君の思うような人間じゃない。だから、知らないままでいよう」
それに続いて、「僕だって、本当は会いたいんだ」とシグは泣きながら言った。会いたくても、会えない事情があるんだと言った。あまりに切実な訴えだった。私は、本当は知りたかった。むしろ余計に気になった。シグの言葉が本心だと伝わっているからこそ、どんな事情があるのか気になって仕方がなかった。
「分かった。ごめんなさい。シグにも事情があるんだね」
それでも、シグの言葉を信じてみようと思った。
私たちにはそれぞれリアルの生活が存在する。今リアルで何をしているのか、一体どんな顔をしているのか。今日何を食べたのか、明日は誰と過ごすのか。いつ起きたのか、どこを歩いているのか。知らないことが無数に存在する。VRでは誰しも、なりたい自分を演じることができる。リアルで何があっても、VRでは別人に成り代わることだってできる。
そして私たちは、何も知らなければ幸せでいられる。互いに惹かれ合ったVRでの人格を、ただそれだけを大切にしていれば、この幸せが失われることはない。
この閉ざされた雄大なVR空間で、私たちは恋を育んでいこう。お砂糖という名の鎖を繋いで、ずっと離れないでいよう。顔も名前も年齢も知らない。それでも「好き」と言い合える二人で、私たちはこれからも生きていこう。
致死量のお砂糖に包まれたのなら 文月瑞姫 @HumidukiMiduki
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