藤原章成ふじわらのあきなりが目を開けると、わららかな(にこやかな)顔があった。

「ああ、よかった。目を覚ました」


 ったかしらと、墨染すみぞめのころもを着て、僧だと分かる。一重の眼、小鼻は矢尻やじりのように広がって、笑む薄い口縁くちびる


 章成は喘ぐ。声が出ない。体が動かない。


「君、道に倒れ伏して(行き倒れて)たんだよ。ここは、円覚寺えんがくじだ」

「あか…も、が、さ……」

 章成はれたかそけき(かすかな)声を、喉から押し出す。


「ああ。わかっている。人払ひとばらいしてある。私は、赤斑瘡あかもがさが出たことがあるから、出ないんだ」

 言いながら、角盥つのだらい(持ち手のあるうつわ)の冷たい水に、きれ(布切れ)をひたしてしぼり、章成の乾いた口縁くちびるに当てる。章成の口に、水がる。喉を動かして、章成は飲んだ。



 章成は、自身が赤斑瘡で死ねば、紀長谷雄きのはせおの家をけがしてしまうことをおそれて、出て行った。人を避け、みやこを出ようと、さまよい歩き、みちに倒れ伏した。



「弟の斎会さいえ法事ほうじ)に、経を読みに来てね。終えたら、すぐ帰ろうと思っていたんだけど、訪ねて来る者が多くて、居続けてしまった。さて、帰ろうとあゆみ始めたら、君と行き会ったんだよ。これは、弟が結んでくれたえにしだね」

 きれを唇から離すと、また冷たい水に浸して、絞る。こうぶりもなく、もとどり(結った髪)もけて、乱れてかかる章成の黒髪をかきあげると、額に絞った裂を置く。


「私の親族うからで、医道にひそかにひいでた者がいてね。使いを出して呼んだから、じきに来るよ」

 僧――惟喬これたかは笑む。

 田邑帝たむらのみかど文徳もんとく天皇)の子、前の帝(清和せいわ天皇)の兄。紀氏の皇子おうじ。帝になれなかった親王みこ




 紀長谷雄きのはせおの家では、高欄こうらん(外廊下の柵)に止まった惟喬の使い――たかの足に結びつけられた文を取ろうと、長谷雄が恐れながら簀の子すのこの上を這い寄っていた。


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