物忌み

 雅楽寮うたりょうけがれに触れることがあったとして、出入りした者は皆、十日の物忌ものいみとなった。


 紀貫之きのつらゆきは、紀善道きのよしみちの家で籠もることになった。

 善道は、貫之を雅楽寮に連れて来てしまったことを、ひどく心に病んで、貫之が病にかかってしまった時のことも思いやって、家に連れて来たのだ。


 善道の家の閉ざした門には、「物忌ものいみ」と書かれたやなぎの木の札が下げられている。

 寝殿しんでん(屋敷)の、ひがしたい(東にある建物)の、半蔀はじとみ(上半分だけのり上げ窓)を上げ、下ろした御簾みすすだれ)にも、物忌札ものいみふだは下げられている。


前帝さきのうえ諒闇りょうあん(喪の期間)が明けて、すぐにがくや舞をしたから、お怒りになったんだろうか…」

 善道は火桶ひおけ火鉢ひばち)のうづ(灰の中に埋めた火の着いた炭)を、火箸ひばしき起こしながら、うなだれる。


 定省さだみは立ったまま、閉じた扇の先を御簾のはずれに差し入れて、外を垣間見かいまみ(覗き見)ている。

 御簾の隙間から冷たい風が吹き込んで、掻き起こした炭を赤めた。善道は寒さに首をすくめ、返り見る。


 定省の後ろ姿に、善道は言った。

「君、簀の子すのこ(建物の周囲まわりの外廊下)を歩いている時も、此方彼方こちあちを見てたよね」

「それは、」

 定省は振り返る。善道は気付いた。

「『風邪かぜを引き込んでしまった時に、すぐに静めてもらいたいから』って言って、本意ほい(本当の目的)は、紀氏のむすめかっ」



 紀善道は、紀貫之にも、雅楽司うたのつかさたちにも、章成の病を赤斑瘡あかもがさではなく、「風邪」と空言そらごと(嘘)を言っていた。

「『風邪』に触れて、熱が出た時には、紀氏が静める」などと善道が言った時には、さすがに貫之は、怪しむ顔様かおざまになったが。



いな。風邪を引き込んでしまった時に、すぐに静めてもらいたいのは、まことだ(本当だ)。でも、思えば、ここは紀氏の家だなと…」

「ここには、誰も近寄らないように言ってあるから、見てたって、母も、姉妹おんなはらからも、女房(侍女)も、来ないよ」

 善道は向き直ると、火桶に炭を足して手をかざしている貫之を見て、あきれる。

「よく関わりのないさまでいられるよね…」

「関わりはないので。」

なり(そうだね)…」


 しかし、定省は扇を束帯そくたいほうふところ(上着の内)に入れると、二人の間のしとね敷物しきもの)に座って、火桶に手をかざす。


「母と、私を舞人まいうどすすめた藤原叔子ふじわらのとしこ様が、いとど心許こころもとながって(とても待ち遠しく思われていて)いらっしゃるんだ。私が風邪を引き込んで、舞えなかったら、いとど(とても)なげかれる。風邪を引き込んでしまったら、すぐに静めてくれ」

「それは――長谷雄はせお様が、すぐに静めてくれるよ」

「ならば、ここではなく、長谷雄様の家に居た方がいいのではないか」

「今は、長谷雄様は、章成の風邪を静めるのに忙しいからねっ」

「そうか…。章成も早く静まればいいが…」


 二人が話すのを聞いてもいないような貫之の横顔を、定省が見つめる。


「君の母の親族うからのことを聞いていなかった」

「母の親族にも、五節ごせち童女わらわを務めた者はおりません」

 定省に貫之は横顔を見せたまま、言い閉じた(断言した)。

「母のうじは」

「舞の練習ならいをしましょうか」

 なおも聞く定省をえて(さえぎって)、善道が立ち上がった。



 内教坊ないきょうぼう妓女ぎじょが、宴の後の、物のまぎれで、はらんで産まれ、ったのが、貫之の母だ。うじなど、分かりもしない。

――氏が分かったところで、名乗りもできない。



前帝さきのうえ諒闇りょうあんが明けて、すぐにがくや舞をしたことをいてなかったか、君…」

 定省は、善道を見上げた。

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