狼の冬(後編)
◇◇
はじめてこいつを認識したのは、入学してからすぐのことだった。
どこかのバカみたいに悪目立ちしてたからじゃない。
こいつはそんな一芸でひけらかさなくたって、誰の目から見ても別格だった。
小柄なのにそれを感じさせない堂々とした立ち振る舞いと、大胆不敵に見合うだけの圧倒的なルックス。
元の顔のよさもあったろうが、弛まぬ努力と専心がその裏にあったろうことは想像に難くない。
私ら"普通の女の子"が必死こいて努力して、愛想の裏で互いを牽制し合ってる中、絶世の美人のくせにその何倍も工夫を欠かさないなんて化け物が入ってきたら、誰ひとり勝てるわけがないのは当然だ。
そのくせこいつは、外見だけじゃなく振る舞いまで抜きん出てた。
頭がいいのだ。学力もそうだし、何より立ち回りが上手かった。
人がどういう人間を好きになるのか、慕いたいと思うのか、逆らえないと思うのか。そういうことを、あいつは熟知していた。
たぶん、いちばん最初に理解したのは私だ。
このクラスでやっていくにあたって、誰に取り入ればいいのか。
理解したなら迷いはなかった。話しかけて、それとなく隣のポジションをキープして、来たるスクールカーストの形成に備えた。
案の定、こいつは一週間もする頃にはクラスの花形になっていた。
そして私は、その隣に立つことを許されたナンバーツー。
付き合い出して程なく、きらびやかなのは表だけで、中にどろついた歪みを抱えてることに気付いたけども、ぶっちゃけそこはどうでもよかった。
こいつがどんなに性格悪かろうが、構わない。
天性のいじめ加害者だろうが、別にいい。
だって、こいつは強いから。
このチンケな箱庭の中でいちばん強くて、綺麗だから。
ならその隣にいれば、私が食いっぱぐれることはない。
野心はなかった。だって私は、自分が
学校だってひとつの社会だ。
そして社会で生きていくコツは、出る釘にならないこと。
眩しいヤツに寄生して、甘い汁を吸いながら、その他大勢の中の首席を狙うこと。
そう思ってた。
それでいい筈だった。
『わたしの友達を助ける、正義のヒーローになってみませんか?』
――あのちびっ子が私の前に現れるまでは、そうだったんだ。
◇◇
結菜はポケットからサバイバルナイフを抜き出した。
いつかこういう日が来ると思って、通販サイトで購入していたものだ。
地を蹴る足に迷いはなかった。
自分でも驚く。いつの間にか私には、人を殺す覚悟ってやつが備わっていたらしい。
来瑠は忌まわしげに見つめながら、しかし何も構えなかった。
当たり前だ。結菜は知っている、来瑠は格闘技経験のある暴力の化身だ。
下手に凶器で戦うより徒手空拳の方が遥かに強い。
それこそ、相手があの怪物教師みたいなイレギュラーでもない限りは。
八朔は恐らく殺られたのだろう。であればやはり、自分がやるしかないのだと兜の緒を締め直す。
この決闘において、小椋結菜はあくまでチャレンジャー。
高嶺来瑠は女としても、生き物としても、自分より圧倒的に優れている。
「今だから言うけどさ」
だが、流石に本気の殺意に直面したことなんてそうない筈だ。
なら、勢い任せで案外押し切れたりするかもしれない。
そんな楽観的思考に逃げた自分を、結菜は呪い殺したくなった。
「私、あんたのこと、ずっと嫌いだったんだよね」
ナイフを振るう前に、来瑠の前蹴りが結菜の腹筋を打ち抜いた。
勢いが逆に作用して、強烈な衝撃で吹き飛ばされて床を転がる。
来瑠はそんな彼女のことを、ゴミを見るように見下ろしている。
「あんたの魂胆、読めてないとか思ってた?
私にすり寄って、まるで長い付き合いの友達みたいに媚びてきてさ。
何するにも金魚のフンみたいにくっついてきて、正直鬱陶しいことこの上なかったよ」
まずい――直感任せに、無様に転がって逃れたのは正解だった。
踏み込んできた来瑠の靴底が、一秒前に結菜の顔面があった場所を踏み潰していた。
わかってたことだが化け物だ。体格がどうとかじゃない、人を害するセンスが違いすぎてる。
「あんたに一度でも頭下げちゃったのは消えない汚点だけど、反逆しても結局誰かのコバンザメやってる辺りは流石の一貫性だね。
私が言うのもなんだけどさ、あんたもなかなかおめでたい頭してるよ。この期に及んでまだ、詩述のクズが自分に賭けてくれたとか思ってんの?」
「ッ、ち……!」
「あんた如きが、私に勝てるわけないでしょ。
捨て駒なんだよ、お前。あんたとぶつかって消耗した私を潰すのがあのチビの目的だって、ちょっと考えたら分かんないかな」
矢継ぎ早に投げつけられる罵倒は、しかしすべてが本音と正論だった。
結菜だって分かっている。小綿詩述は既に一度、来瑠の暴力を舐めて痛い目を見ているのだ。
自分ごときが来瑠に勝てるだなんて、本気でそう信じてくれるほど、あの探偵は献身的でも夢見がちでもない。
「は……」
捨て駒。ああ、きっとそうなのだろう。
「……わかってんだよ、そんなこと」
だからどうしたと、結菜は歯を剥き出して笑った。
向かってくる来瑠に、ナイフ片手にまた突っ込む。
自分は大仰な格闘技なんてもの、まったくやったことがない。それどころか喧嘩だって、女子らしい牧歌的なつかみ合いくらいしか経験がない。
よってこうするしかないのだ。当然、その浅慮は格上の暴力によって打ちのめされる。
「はぁ、はぁ……知った風な口、利くなよ。言っとくけどなぁ、お前が思ってるよりずっとアレは性格終わってんだよッ!」
足払いからの膝蹴りで鼻血が噴き出した。
吹き飛んだ拍子に机の角に後頭部を打ち付け、頭がくらくらする。
それでも、垂れ落ちる雫を拭いながら、食らいつくように立ち上がり。
そのまま、また突撃する。これしかない。だけど、これならできるんだ。
「わがままで、上から目線で、腹黒で、そのくせクソみたいに陰気な女に今もねちねちご執心。ゲロをドブで煮込んだみたいな、完膚なきまでの地雷女……!」
「……、……なら」
「それでもずるずる付き合って、気付けばこうして地獄の果てだよ。
あぁほんと、一発顔面ぶん殴ってやりたいくらい。そのくらいしたって文句言われないと思うんだけどね、私としてもさ――」
詩述の望む未来に、自分はいない。
火箱風花とふたりで歩む"あの頃"の再演こそが、アレの望みだから。
自分など捨て駒。助手はおろか、目的のために使い捨てられる鉄砲玉でしかない。
分かってる。分かってる――
「でも」
そう、でも。
それ、でも。
「ほっとけないんだよ」
ほっとけない。
見過ごせなかった。
あいつは、
ふてぶてしくて可愛い顔の下に、大きな歪みと哀しみを隠してる。
それを隠しながら、取ってつけたみたいな虚勢で生きてるあの女を、どうしても小椋結菜は見捨てることができなかった。
自爆テロをやる人間の気持ちなんて、私にはさっぱり分からない。
だけど、ああたぶん今、自分はこう思ってる。
たとえ捨て駒でも。
用が済めば終わって、忘れ去られてしまうような存在だとしても。
顧みられることなんて、天地がひっくり返ってもないのだとしても――
「私は、あいつのためなら、どんなものだって捨てられる」
――私は、あいつのために死ねる。
一過性の熱病と笑うなら笑え。どうせ負けたら死ぬのだ、志なんて高ければ高いほどいいだろう。
「……あっそ。勝手にすれば」
心底呆れたように、来瑠は吐き捨てた。
けんもほろろ、暖簾に腕押し。
でもそこには、最初はなかった苛立ちみたいなものがあった気がして。
だから結菜は殴られながら、それでも笑った。
お父さんはいつでも笑っていた。自殺する前の日だって笑ってた。
なら私もそうしよう。笑って死のう、あのわがままなお姫さまのために。
がむしゃらに振るうナイフの切っ先が、わずかな手応えを伝えた。
来瑠の頬に生まれた、一筋の線。
そこから滴り落ちるルビーの雫に、思わず一瞬棒立ちになりかける。
が、それをぐっと堪えたら、押し寄せるのは悦びだった。
「なんだ。あんたみたいな悪魔でも、ちゃんと流れてんじゃん。赤い血」
しの、しの――私、あんたのことがわかんないよ。
扉が開き、忌まわしい女と並んで見守る探偵の存在を視界の端に認めて独りごちる。
わからないことだらけだ。これからもっと知っていきたいけど、まあ、多分叶わないんだろう。
喉に拳の一撃を食らってたたらを踏みながら、結菜は血まみれの顔で格好つけた。
◇◇
鬱陶しい腰巾着だと思っていた。他人に寄生しないと生きられない、情けない生物だと見下していた。
私にとって、いちばんになるのは難しいことじゃない。
顔はいい。勉強もできる。才能もある。後はほんの少しの努力をすれば、私は世界の主役になれた。
今まで十何年と生きてきて、自分より上の同年代を見たことがない。
どいつもこいつも馬鹿に見えたし、顔の描かれた野菜も同然だった。
くだらない、つまらない。私の役に立つか、いい悲鳴をあげてくれるかでしか区別のしようがない路傍の石ども。
他人を尊重しましょうと道徳の教科書は言うけれど、一体何をどうしたら圧倒的格下に手など差し伸べる気になれるのか、私にはとんと分からなかった。
そんな私にとって、こいつはその石ころどもの一個以上でも以下でもない。
確かに顔はいい方だ。でも私には及ばない。他にも、私に勝っている場所は皆無と言っていい。
所詮は端役のモブキャラで、やっぱり魅力なんてひとつもなくて、そんな奴だけど世渡りと空気を読む力だけはあるようだから利用してやった。
実際、まあ、使える奴ではあった。
特にそのモラルの無さには助けられた。
私が何をしても、こいつは眉を顰めるでもなくついてきた。
主役の私と、右腕のこいつ。私達に逆らおうとする奴はいなかった。
それでも私にとってこいつという人間は、あくまでも媚びることに忙しない、情けないコバンザメでしかなかった。
こいつもきっと、自分がそう思われてることには気付いてたろう。
馬鹿な雑魚だけど、強い人間の機嫌を取るのにだけは才覚を発揮する人間だったから。
プライドもない、野心もない。自分より上の人間がいるということを屈辱にも思わない、ありふれた負け犬。
その筈だったから、私は自分の学校生活が破綻することになっても、こいつという個人を恐いと思ったことは一回もなかった。
こいつは、どこにでもいる三下だ。
ひとりじゃ何も出来ない、誰かに使われないと自分の価値も示せない滓。
だからなおさら、私は今イラついているんだろう。
そんな格下の石ころが、何を思ったか死物狂いでらしくないことをしている。
勝てるわけもないのに、この私に噛み付いて。
捨て駒だって分かってるのに、逃げも裏切りもせず必死に働いて。
何度殴っても蹴り飛ばしても立ち上がってくるこいつに、私は、苛立っている。
――お前、そんな顔する柄じゃないだろうが。
その場その場で、自分にとって得になる強い奴に着く。
そうやって生きて、欲を出さずに暮らしてきたのがお前だろ。
なのになんで、そのお前が。
お前が、そんな――
◇◇
あまりにも一方的な戦いだった。
決闘というより、それこそ虐めに近いかもしれない。
火箱風花は、そう思った。
見ているこっちが辛くなってくるような光景が、詩述に連れられた部屋の中で繰り広げられていた。
「はあ。期待はしてませんでしたけど、だらしないことこの上ないですね」
詩述は呆れたように、風花のとなりで、手を繋いだまま嘆息した。
ナイフを持って臨んでいるのに、未だ殺せていないどころか素手の来瑠に一方的に殴りつけられている、実に不甲斐ない光景だった。
そのくせ、かすり傷ひとつ付けただけで何やら不敵な科白を吐いている始末。
不甲斐ない。だらしない。あんなに啖呵を切っておいて、蓋を開けてみればやっぱりこのザマか。
所詮は三流、強い者に寄生するしか能のない腰巾着。鉄砲玉の役目すらまともに勤め上げられるか怪しい体たらくに辟易を禁じ得ない。
「困りました、私のワトソンくんが負けちゃいそうですね。
嫌いですけど、やっぱり来瑠さんは強いです。強いし、怖い。あの猛獣を倒すなんて、大の男でも厳しいんじゃないでしょうか」
「……、……」
「よかったですね、風花ちゃん。愛しの王子様が勝ちそうですよ」
来瑠の推測は当たっている。
結菜の予想は的中している。
無論詩述は、自分の狙いがバレていることなど予想済みであったし。
それは、風花に対しても例外ではなかった。そうでなければいかに自信家の詩述といえど、こうも分かりやすく余裕をひけらかす真似などしない。
「ここだけの話ですけどね。わたしあの人のこと、好きでもなんでもないんですよ」
小綿詩述は、小椋結菜の敗北を前提に策を練っている。
風花がそれを非情と謗ることは、もちろんなかった。
その資格がないのは言うまでもない話だ。
学校中の人間を殺し、死体の上で愛を貫く道を選んだ自分に、他人の非道を罵る資格なんてあるわけもない。
「見て分かるでしょ。あれは他人に媚びを売って諂わないと生きられない、弱い生き物なんです。わたしの大好きな風花ちゃんを、あのボス猿と一緒に虐めておいて、親身に接すればわたしが振り向いてくれると本気で信じてるおめでたいお馬鹿さん。見世物としては上等でも、パートナーとしてはまったく論外です」
教室で、一対一で対峙した時のことを思い出す。
今だから言うが、逃げ出したくなるほど怖かった。
風花は来瑠の行動をすべて受け入れるし、彼女になら虐められても、何をされても絆と認識することができる。
でも、それ以外は別だ。結菜と初めてふたりきりになり、詰められていたあの時、風花の脳裏に去来していたのは今も拭えない過去のトラウマ。
自殺を考えるほど自分を追い詰めたいじめっ子達の姿が、目の前の結菜と重なっていた。
けれど、そんな中でも大胆に、あの人の心の柔らかい部分に切り込めたのは――
「勝てないんだったら、せめて小物なりに頭を使って戦えばいいのに。そんなこともできないから、あの人はつまらない半端者なんですよ」
「……詩述ちゃん」
「はい?」
苛立ちを隠そうともせず自分に詰め寄って、饒舌にまくし立てるその姿が、とても弱々しいものに思えたからだ。
「もしかして、怒ってる?」
「――――は?」
記憶の中にある結菜の姿が、いま隣にいる詩述のそれと重なった。
だから気付けば、問うていた。
風花は対人コミュニケーション能力に問題を抱えている。
なのでこの性格なのに、いざとなるとこのように、言葉をオブラートに包むことを忘れてしまう。
「ごめんね。でも、その……詩述ちゃんがそうやってたくさんまくし立てるのって、大体怒ってる時だから」
のだが、風花のそういう一面を詩述は知らなかった。
彼女達の青春は仲良しこよしで、それが崩れてからも、ただ一方的に詩述が風花を使い続けるだけのものだったから。
言うなればある種の主従関係。故に敵同士になって初めて詩述は、この小動物めいた少女の予期せぬ攻撃に呻く羽目になった。
「ねえ、詩述ちゃん」
「……なんですか」
「私が言うようなことじゃないって、分かってるんだけど……」
詩述はさっきまでの饒舌が嘘のように、不貞腐れたような顔をしていた。
一年だけとはいえ、ほとんど毎日朝から晩まで一緒にいた仲だ。
この
小綿詩述という人間は他人を打つことは得意でも、打たれることには慣れていない。
だから何か予期せぬ出来事が起こると、大抵こうして拗ねた子どもみたいに不機嫌な顔をして眉を顰めるのだ。
それだけに今の詩述の反応は、先の風花の言葉が正鵠を射ていることを暗に物語っている。風花には、それが分かった。
――すでに、彼女との青春は終わった。
――自分はくーちゃんのことが好きで。
――だから、詩述ちゃんという過去の友達を踏み越えることを選んで。
――たくさん殺して、ここにいる。
――分かってる。分かってるけれど、言わずにはいられなかった。
「詩述ちゃんはもう少し、自分のきもちに素直になった方がいいと思う」
それは、あの時私ができなかったことだから。
風花はこんな地獄のどん底に至っても、詩述という友達を見捨てられない。
何百という人間を随意に殺せる声を持ちながら、未だに詩述と、その相棒である結菜に対し使えてないのが証拠だ。
醜悪な矛盾を、風花は自覚している。この決闘の決着がついたら、来瑠は絶対に彼女を殺すというのに。
なのにこうして、慮るようなことを言ってしまう。
自分は屑だ。詩述を突き放したあの時と変わらない、生きるに値しない命。
そう分かった上で、でもその陥穽を捨てられないのが、火箱風花の原罪。
「風花ちゃんはおかしなことを言いますね」
詩述は、鼻で笑って言った。
この世でいちばん大切な人と繋いだ手に、自分でも分からないほどかすかな力を込めながら。
「わたしに限って、あるわけがないでしょう。そんな不合理が」
言いながら、懐の中に入ったなにかをそっと押さえた。
いつか手に入れるトロフィーとはいえ、今は敵である風花の前で、自分の魂胆を滲ませてしまうまさに"不合理"なその行動も無意識だった。
そんなふたりのぎこちないやり取りに視線を向ける余裕もなく――恋する人でなし達は、暴力を寄る辺に殺し合いを続けていた。
◇◇
結菜が、ただ一心にナイフを振るう。
先の一撃以外、一発たりとも当たっていない。掠めてすら、いない。
両者の有様は、残酷なほどに対照的だった。
顔を腫らし鼻血を垂らして、ぜぇはぁと喘鳴のような呼吸を漏らして必死に立ち向かう結菜と。
その猛攻を悉く捌き、すでに先の不覚による出血さえ止まっている来瑠。
誰がどう見ても明らかな優劣。暴力というジャンルですら、結菜は来瑠に勝てないとはっきり示されている。
なのに――
「……私もさ、あんたが嫌いだったよ。来瑠」
「……ッ」
殴られ、蹴られ、傷だらけの結菜は笑み。
一方的に打ち据えている来瑠が、焦燥に駆られた顔をしている。
「火箱なんかに執着するあんたが嫌いだった」
黙れ。
前蹴りで吹き飛ばす。
立ち上がろうとするのでまた蹴り飛ばす。
それでも、結菜は沈黙しない。口も、身体も。
「誰より綺麗で、可愛くて、強いくせに……あんなうじうじしたクソにかかずらって恍惚としてるあんたに、腹が立った」
火箱風花。
気弱で、どんくさくて、顔以外に何の取り柄もない情けない女。
思えば詩述と出会う前から、結菜は風花のことが嫌いだった。
何故? 場違いだからだ。役者が足りない、何もかも足りない。
どうして絶対的主役である来瑠がこんな女に執着しているのか、心の底ではずっとずっと疑問だった。
「――今だって、正直ムカついてるよ。
ああ、私は多分、
詩述が見ている。
でも、本音を繕う余裕はなかった。
だってこうしてる間も、正直意識は朦朧としてるのだ。
少しでも気を抜けば気絶してしまいそうだった。そんな状況で言っていいことと悪いことの区別なんてつけられる筈がない。
「あんたも、しのも――なんだってあんな女がいいのさ。
あんた達はおろか、私にすら勝ってるところがないようなクソ女。
ずっと聞きたかったの、いい機会だから教えてよ。
どいつも、こいつも――なんでそんなに、アレがいいんだよ」
結菜の眼は、もう虚ろだった。
身体中が痛い。這い蹲って許しを乞いたい。
来瑠の傍で機嫌を取ってた頃は楽だった。
今からでも、あの頃に戻りたい。
なのにああ何故、まだ自分はこんなに必死こいて振り絞ってるのか。
「私でよかったじゃん。しのも、お前も」
主役になれなかった少女は、いつだってそこにコンプレックスを感じている。
理解も共感もできない陰気な小動物が運命の中心になって、こうしている今も優勝景品の立場に甘んじている現実に腸が煮えくり返る。
「答えてよ、なあ――来瑠。私達、ずっと一緒だったマブじゃんか」
来瑠が風花に傾倒し出した頃から、違和感はあった。
自分より何もかも秀でてて、その気になればこの世の誰だって虜にできるような少女が、なぜこんな見る価値もない格下に倒錯しているのか?
その答えが出る前に、結菜の前には詩述がやってきて。
そいつまで風花に同じ
だって形はどうあれ、声枯らしの魔力に侵されるまで、ふたりは友達だったから。
たとえ利用し、される間柄だったとしても。嘘偽りだったとしても、形式だけでも友達だった事実に嘘偽りはないから――。
「……今更そんなこと、私に聞くなよ」
問われた来瑠は、ちいさく答えた。
「説明したって、あんたは絶対納得しないでしょ」
「は。私が、取るに足らない格下だから?」
「童貞かよ。言葉の行間を読んで察してほしいんだけどな」
「上から目線で語ってんじゃねえよ。お前だって男と付き合ったことなんてない癖に!」
「いちいちキレんなよみっともない。あんたがあの探偵気取りのチビにぞっこんだから、説明しても分かんないだろって言ってんの!!」
怒り狂った来瑠が、結菜の右頬を殴り飛ばした。
吹き飛ばされかけるが、踏み止まる。
その場で結菜も反撃し、拳を握って振るう。
それが来瑠の顔面を正面から捉え、ナイフで刻んだ以上のダメージを与え、数歩の後退を余儀なくさせた。
「はあ、はあ……」
「ッ、はは……」
息を切らす、来瑠。
這々の体で尚笑う、結菜。
「来瑠を殴れる日なんて、来ると思わなかったな」
「言ってろよ、雑魚が。ただじゃ殺してやらないからね」
結菜が切り込む。
来瑠の腕を浅く斬りつける。
来瑠が殴る。
結菜は腹を殴られ、胃液をごぶりと溢れさせる。
「なんでふーちゃんが好きなのって? そんなの、決まってるだろ」
来瑠が、追撃する。
振るう足が結菜の脇腹に炸裂し、吹き飛ばした。
「――――可愛いんだよ。あいつが、いちばん」
吐露される本音は惚気のように聞こえるが、一切の嘘がなかった。
そう、すべてはそこだ。
火箱風花は可愛い。高嶺来瑠という、自他の美醜とそれにより生まれる格差を誰より意識しながら生きてきた人間だからこそ、この世の花めいた風花の可憐さは彼女が今抱く"好き"のすべてを一言で断言させる威力を秘めていた。
そしてその理屈は同じく、結菜にも適用される。
「ッ、ぐ……、……ああ、そういうこと。なら確かにそうかもね、今の私じゃ火箱はもちろん、他の女なんて考えられない!」
吹き飛ばされて尚、食い下がる。食らいつく。結菜が血まみれで意地を見せる。
可愛い。そうまで建前を削いだ本音を伝えられたらこちらも誤魔化しようがない。
「――だってしのがいちばん可愛いもん。お前見る目なさすぎなんだよ来瑠ッ!」
「眼ぇ腐ってんのか。ふーちゃんに比べたらあんなクソチビ、ただのイキった厨二病のガキでしかないっての……!」
結論なんて出るはずがないのだ。
以前ならいざ知らず、こうなってはもはや未来永劫に平行線。
高嶺来瑠は狂っている。火箱風花に魅入られている。
小椋結菜も狂っている。小綿詩述を放っておけない。
ふたつの恋は形も違う、経緯も違う、オリジンも違う。
でも、けれど、確かなことがひとつある。
彼女達はどちらも、狂おしいほどに恋をしている。
「根暗のお人形に愛を囁いて満足って独りよがりすぎだろ。自分で慰めてるのと変わんないだろ、それは――!」
結菜の拳が再び、来瑠の顔を殴った。
だが来瑠がすかさず顎を跳ね上げる。
「捨て駒にされて悦んでるマゾ女が、人様に偉そうなことほざいてんなよ――!」
続いて、轟いた鋭い蹴りが彼女の手元を打ち据えた。
「が、ぅっ……!」
凶器であり、抑止力でもあったサバイバルナイフが。
蹴りに押されて、宙を舞い彼方まで飛んでいく。
ただでさえ明確に優劣のついていたふたりが、より絶望的な状況に陥った。
こうなればもう、小椋結菜が高嶺来瑠に勝てる道理は微塵もない。
そして無論、来瑠はその絶好の好機を見逃さないのだ。
「死ねよ、結菜」
轟く正拳突きが、結菜を殴って追い打ちをかける。
一撃一撃の重さが明確に、彼女の放つ悪あがきの攻撃とは違っていた。
「安心しな。あんたが死んだら、すぐに詩述もそっちに送ってあげる」
「が、ぁ――」
「あんたにかける義理はないけど、それなりに連れ添ったよしみで温情くらいはくれたげるよ。ふたり揃って地獄に行って、身の丈に合った乳繰り合い方してればいい。私達の前から消えるなら、そのくらいは許してあげるから」
斯くして小椋結菜は、順当に詰む。
むしろここまで食いつけた時点で、彼女の身の丈を鑑みれば破格の成果だ。
何しろ役者が違う、生物としての格が違う。
すべての要素で明確に劣っていた結菜が、ここまで来瑠に楯突けたのを金星と呼ばずして何とする。
けれどそんな夢の時間もこれで終わり。
ナイフを失い、地に臥した結菜の首を、来瑠の腕が掴んだ。
「――じゃあね、結菜。あの世でお幸せに」
このまま絞め殺して、それで終わりだ。
人なら、もう何人も殺している。
苛め殺した、名前も覚えてない同級生。
実の父親。憎くて堪らなかった、抑圧の象徴。
怪物教師。顛末はどうあれ、アレを死に追いやったのは自分だ。
今更躊躇などしない。いや、そういう機能はとっくに壊れている。
来瑠にとって世界とは、自分を中心にしたちいさな円環だから。
その環の外にあるものを、来瑠は一顧だにしない。
たとえ偽りでも、互いに腹に一物抱えながらでも、共に青春を過ごした相手だろうが、それは変わらない。
首へかけた腕に力を込める。結菜が暴れる。来瑠は無視する。徐々に、目の前の美顔が鬱血してくる。
あるのは達成感だった。
これでようやく、後は消化試合だ。
詩述が何を隠しているか知らないが、今更あんな雑魚に遅れは取らない。
来瑠は、そう思っていたから。だから――
「……っ……!?」
頚椎をへし折る勢いだった腕を真横から掴まれ、強引に退かされた事実に、本当に思考を空白で染められた。
「な……っ、お前……!」
「かはっ……! はぁ、はぁ……――っ、へへ……」
マウントポジションで首を絞められていた筈の結菜が、来瑠の手を掴んでいる。
高嶺来瑠は暴力の化身。現に結菜はまぐれ当たりを除けば、彼女へまったく有効打を与えられなかった。
なのに来瑠は今、腕を掴む手を退かせなくて狼狽していた。
「痩せっぽちのちびっ子が、健全な女子高生に勝てると思ってんなよ……ッ。
確かに喧嘩じゃあんたみたいな化け物、どうにかできるわきゃないけどさ……。
それでも力なら……腕相撲なら、ちょっとは付け入る隙もあるんじゃない……!?」
来瑠の強さは、あくまでも叩き込まれた格闘技術によるものだ。
しかし純粋な力に限って言うならば、むしろ彼女は非力な部類である。
小柄な体格、細い腕。屈強には程遠く、そもそも護身術を習っていたのも何年も前の話だ。生来の膂力の欠如と、数年間のブランク、そして王手をかけたが故の油断――三種要素が絡み合って、小椋結菜に一縷の活路を作り出す。
「お、前、ぇっ……!」
ぐ、と歯を食いしばって、一筋の涎を垂らす来瑠。
焦っている。ようやくこいつの意表を突くことができた。
会心の手応えと共に、結菜は空いた片手で素早く懐をまさぐった。
取り出したのは、アイスピック。母親が晩酌の際、氷を砕くのに使ってたのをくすねて持ってきた。
もしナイフを奪われたりするようなことがあればこっちを使おうと思っていた、その小心が今、勝利の一輪花を咲かす極上の肥料に変わる。
(見てろよ、しの――あんたにとって私は今も変わらず、つまんないし見どころもない半端者かもしれないけどさ……)
身を跳ね起こしながら、凶器を握る手に力を込めた。
狙う先は一箇所だ。人体の急所、すなわち首。
(大好きなんだ、あんたのこと)
好き。好き。あんたのいない世界はもう考えられない。
あんたがいない舞台に生きるくらいなら、喜んで私から舞台を降りよう。
(あんたが本当に心の底から笑える場所が、"そこ"しかないってんなら)
ただし、自分に与えられた役目をこなして、大団円をお膳立てしてからだ。
来瑠を殺す。そうすればもう、小綿詩述の花道を阻む敵はいない。
(死ぬほど悔しいけど、あんたは"そこ"で幸せになればいい!
私が、お前をそこまで連れてってやる!!)
この土壇場で遂に完了する覚悟。
小椋結菜はもう鬱屈を捨てた。
風花への嫌悪を掻き捨て、詩述の幸せだけを望んで最後の一撃を放つ。
歪んではいても、最後の最後で結菜はかつて憧れた境地に至ったのだ。
「――――――――、ぇ」
すかっ、と。
無情なほどあっさりと、空を切った。
両腕は押さえている。腕が使えない、それも力ずくで封じられているとなると、人体の可動性は著しく落ちるものだ。
ましてやこの密着した体勢である。どう見ても来瑠の詰み、勝利を確信してしまった結菜は責められない。
彼女に落ち度があったとすれば。
それは、高嶺来瑠が化け物であると分かっているのに、常人基準の"詰み"を押し付けて満足してしまったこと。
「は…………ありかよ、そんなの」
来瑠は、ただ避けただけだ。
腕を封じられ、まともに身動きも取れない状態で、頭を後ろに引いて咄嗟に躱しただけ。
動転と焦燥の中、わずか一瞬の判断でそれができる人間。
万能の天才・高嶺龍櫻が生み出した不世出の子。彼女に備わった圧倒的な才能は、どこまでも残酷に小椋結菜という脇役の奮闘を否定していた。
失意が脱力を生む。
これもまたほんの刹那のことだったが、佳境に入った命のやり取りの中では致命的な隙すぎた。
緩んだ拘束から腕を外して。すぐさま、アイスピックを奪い取る。
結菜が我に返る瞬間に、両腕で握ったそれを振り上げた。
――ぐぢゅり、と。今度こそ、肉を貫く音が響いた。
◇◇
「お前、さぁ……わかってたけど、強すぎだろ……」
「当たり前でしょ。あんたが私に勝ったことなんて、一回でもあった?」
結菜は、どこまで行っても凡人だ。
来瑠のような天才にはなれないし、だからこそこういう生き方しか選べなかった。
だから彼女のように、身を反らして咄嗟に避けるなんて芸当は当然できない。
結菜にできたのは、悪あがきのようにのたくって、わずかに狙いを外させただけ。
当然、無傷とはいかない。結菜の右肩に、深々とアイスピックが突き刺さっていた。
――痛い。傷口が熱い。叫び出したいほどの激感が身体中を駆け回ってる。
――恥も外聞もなく泣き喚いてしまいたかったし、実際、情けないことに涙は溢れて顔中ぐちゃぐちゃだ。
――なのに不思議と、気分はどこかさっぱりしていた。
――まあこうなるわな、という諦めが、さっきまであれほどヒートアップしてた脳髄を急激にクールダウンさせていた。
「はぁ……なんで、こんなことになっちゃったのかなぁ」
結菜は、ぐちゃぐちゃの顔で自嘲するように笑った。
来瑠は、
「私、さ。どこかで、あんたとはずっと一緒なもんだと思ってた」
「……、……」
「腹ん中で何思ってるかはさておいて、さ。私達、息ぴったりだったじゃん? 何をするのもふたり一緒で、嬉しいことがあったら笑って、ムカつくことがあったら怒って、悪だくみして……そういうのが、ずっと続くんだと思ってたよ」
もう、万策は尽きていた。
だが、それで大局は変わらない。
悲しいことだが、
けれど負けてしまった今となっては、逆にそのことがありがたい。
自分がここで来瑠に殺されようと、詩述が後を引き継いでくれる。
自分の犠牲を礎にして、この化け物を殺して、幸せになってくれる。
だから悔いはない。自分はいざ死を前にしたらみっともなく喚いて命乞いする人間だと思っていたが、案外実際直面してみると心は静かだった。
最後にこんな思い出話ができるくらいには、落ち着いていた。
「来瑠が私を見下してるのはわかってたし、私も、来瑠を本当に好きだったわけじゃないけど――そんな退屈なのがずっと続いていくのも、案外、悪くはなかったのかもね」
「……それ、命乞いのつもり?」
「したところで殺すでしょ、あんたは。だからまあ、ただの感傷だよ」
来瑠は自分を殺す。
詩述は自分の死体を踏み越えて、あいつだけのハッピーエンドを勝ち取りに行く。
命乞いなど意味はないし、するつもりもなかった。
身を引いてもいいと言った言葉に嘘はない。たとえその退場が、我が身の滅びという形だったとしても。
「高校出て、大学行って、就職して、結婚して、子どもができて……おばあちゃんになってもずっと、何のかんの言いながらもずるずる、"友達"をやって――どっちかが死んだ時に、泣きはしないけどちょっとだけ寂しくなる。そういう関係で生きてくってのも、きっと、それはそれでよかったと思うんだ」
――はあ。
来瑠が、ため息をついたのが聞こえた。
肩に刺さったままのアイスピックを引き抜きながら、来瑠は呆れたように結菜のことを見下ろしている。
「じゃあ、何」
来瑠も、結菜が前座でしかないことは理解していた。
詩述は何かを隠してる。奥の手を、まだどこかに秘めている。
であれば、こんな三下と会話など交わしている暇はない。
今すぐにとどめを刺して、詩述を殺しに向かうべきだ。
そう分かっていて、なのに死に行く結菜に言葉をかけてしまったその無駄は、高嶺来瑠という怪物の中に残されたか細い人間性の発露であり。
「あんたは今――後悔してるの?」
そして――ずっと一緒にやってきたかつての相棒への、餞別だったのかもしれない。
はっ、と、結菜は笑った。
「まさか」
ああ、そうだ。
もしもを空想してどれだけ感傷に浸っても、だからといって今この瞬間に至るまでの運命と比較すればそんなの滓以下の幻想でしかない。
そう、まさに運命だった。小椋結菜にとって小綿詩述という人間は、退屈な日常と、現実に迎合し生きることを選んだ惰弱な自分を破壊してくれる太陽だった。
心のどこかじゃ分かってた。太陽に近付きすぎた凡人がどうなるかなんて分かってた。分かってた上で、それでも蝋の翼で翔ぶことを選んだ。
そのくらい、詩述が好きだった。たぶん初めて出遭った時から、あの憎たらしい微笑みに恋をしていた。
「たとえ添え物でも、捨て石でも、本当に……命だって投げ出してもいいと思えるくらい、楽しかった」
恋は盲目、まさにその通りだと思う。
だってこんなことになってもまだ、ひとつの後悔も抱けないんだから。
「女の趣味が悪いのも、一緒だったね」
「そうだね。こんなことになる前に、一回くらい恋バナしとくんだったな」
「かもね。だったら案外、もうちょっと胸襟開いて話せてたかも」
世界を壊してもいいと思える、そんな恋があると初めて知った。
禁断の果実だ。蛇に唆されて林檎を食べたアダムとイヴは、さながら恋に落ちて血に染まった自分達のよう。
「もういい?」
「あー……ま、いいよ。痛いのは嫌だから、次はちゃんと終わらせてね」
もう逃げないから。
そう言って、結菜はもう一度笑った。
来瑠が、アイスピックを再度振り上げる。
滴り落ちる血のしずくが、彼女達の青春の総決算みたいに見えた。
「じゃあね、来瑠。先に地獄で待っててあげる」
「そっちこそね、結菜。大丈夫、相方もすぐにそっちに逝くよ」
◇◇
小綿詩述の切り札をここで明かそう。
それは、拳銃であった。
風花と共に裁きを行っていた頃。
麻薬取引の元締めを務めるヤクザ者を殺し、その死体からくすねた一丁だ。
弾丸は一発きり。だが、命を奪うには十分過ぎる力がそこには宿っている。
来瑠がどれだけ強かろうと、科学の叡智、人を殺すという目的のために生み出された兵器を前にしてはどんな技術も才能も意味を成さない。
そして学校という閉塞した屋内環境であれば、拳銃の命中率は限りなく向上する。
まさしく切り札だ。結菜と対決し消耗したところで満を持して使えば、この不毛な争いをほぼ確実に終わらせることができる。
思えば実に、実に長い旅路だった。
風花に捨てられ、自分の過ちを自覚して。
心まで枯れ果てるほど泣きながら、ずっと策を練ってきた。
風花の隣に自分以外の誰かがいて、自分が与えられなかった悦びを彼女に与えている事実に気が狂いそうになった。
なんとしても殺したかったから、あらゆる手段でその失脚に向けアプローチをした。
協力者が必要だったので、なるべく来瑠に近い位置にいて、その上で深い鬱屈を抱えている人間を相棒としてチョイスした。
多少の失敗はあったが、それでも盤石だった筈だ。だからこうして、事は詩述の想定通りに進んでいる。
「……、……」
満を持して、詩述は銃を取り出した。
風花がぎょっとする気配がする。
繋いだ手に、緊張と葛藤が伝わってきた。
止められるだろう。阻まれるだろう。
そう思っていたが、風花は何もしなかった。
その理由は、ついぞ詩述には分からなかったけれど――それならそれで構わない。むしろ好都合だ。邪魔が入らないのなら、より自分の勝ちは確定的になる。
視界の先で、ひとつの命が失われようとしていた。
つまらない女だ。くだらない女だ。
初めて会った時から、率直に言って失笑を禁じ得ない相手だった。
主役になることを諦めて、脇役に甘んじて、媚び諂う生き方を選んだ女。
負け犬のくせに最初の憧れを捨てられず、悪魔が一言誘惑するだけでほいほい従ってしまうほど浅ましい小物。
対等に付き合う人間としては論外だが、いずれ鉄砲玉にする都合のいい協力者としては最適の人材。
なので使った。いいように動かして、弄んでやった。
自分の目は正しかったと、詩述は改めてそう思う。
当然勝てはしなかったが、鉄砲玉として期待通りの役目を果たしてくれた。
あとは引き金ひとつで、すべてが終わる。小椋結菜の死を踏み台にして、この贖罪は、失ったものを取り戻す旅路は終わるのだ。
照準を合わせる。
指を、そこに当てる。
あとは引き金を引くだけ。
それだけで、失ったすべてを取り戻せる。
「詩述ちゃん」
声がする。
大好きな人の声が。
「撃たないの?」
言われて初めて、自分が動揺していることに気がついた。
「は――、……ぁ、――ぅ……?」
引き金に押し当てた指が、ふるふる震えている。
疑問符が止まらない。自分で自分のことが理解できない。
歓喜のあまりに身体が誤作動でも起こしているのか。
そうでなくちゃあり得ない、そうでなくちゃおかしい。
「ふ、ふふ。よく、やってくれました、結菜さん――」
結菜は死ぬだろう。
だが自分の目的は達成される。
来瑠さえ排除できれば、後はすべてが風花の"声"で罷り通るのだ。
寄る辺を失った風花は必ず自分のところに帰ってくる。
自分に気色の悪い傾倒を見せている結菜が消えれば、これ以上愛しの彼女に妙な危害を加える輩も現れまい。
なにもかもが好都合だ。さあ撃て、今撃て。撃ってすべてを終わらせろ。
「――最後の最後に、あなたはようやく、私の役に立った……!」
アルカイックスマイルを浮かべて、萎えかけた決意を奮い立たせる。
そもそも何故、この土壇場で自分は決意を萎えさせようとしていたのだろう?
その手の感情とは無縁だと思っていたが、流石に状況が状況だから緊張でもしていたのかもしれない。
きっとそうだ。
そうに決まっている。
晩秋のある日に出会った。
コンプレックスを逆手に取り、煽てて利用してやった。
友達付き合いを求められるのは鬱陶しかったが、黙って利用していればいいものを感情に任せて当たってしまったのは未熟と言う他ない。今思うと浅慮も浅慮だった。あそこで彼女を失ったら、自分はどうやって高嶺来瑠に勝つつもりだったのだろう。
それに、そのせいで不快な思いをする羽目にもなってしまった。
まったく一生ものの屈辱だ。あんな端役のゴミクズに、心を救われたなんて。
『
『私をヒーローにしたのは、あんたでしょ』
雨に濡れた自分に目線を合わせながら、格好つけて言う顔を覚えている。
あの時はあまりにも馬鹿馬鹿しくて、言葉も出なかったけれど。
誰かに手を差し伸べてもらったのは、きっとあれが初めてだった。
世界は、小綿詩述に対して無関心だ。
それはきっと、生まれた時からそうだった。
もういない姉の面影を自分に重ねていた両親。
空寒い白眼視の日々は、まるで透明人間になったようで。
だから風花との一年間は世界が色づいて見えたものだったが、自業自得で繋いだ手を解かれてしまい、詩述はまたひとりになった。
でも、少なくともここ最近は、ひとりぼっちではなかったのだ。
結菜がいたから。おせっかいなヒーロー気取りが、何をするにもついてきたから。
あの日から、自分はあたたかな家庭というものを知らない。
父のいない家の中で、自分はそれこそ透明人間だった。
食事は出る。必要な時は会話もしてくれる。でもそれだけ。そこには、何の温度もない。
――口に出すのは癪だけれど、実は、ちょっとだけ嬉しかった。
一緒に食卓を囲む誰かがいるのも。
他愛ない、本当にくだらない話をするのも。
テレビを見て、やいのやいの突っ込みを入れたりするのも。
休みの日に、どこかに連れ出されて遊んだりするのも。
鬱陶しいと思う一方で、たぶん、まんざらではなかった。
きっと、認めたくなかったのだろう。
それを認めてしまったら、あの青春が汚されてしまうような気がして。
他でもない自分自身の手によって、今も生きていると信じた青春の腐乱死体に、白木の杭を打ち立ててしまうような気がして。
アイスピックが振り上げられる。
もう時間はない。
詩述は震える指で、引き金を引いた。
一発きりの弾丸が、軽やかな破裂音と共に疾走する。
反動で背中がドアにぶつかった。残弾のない拳銃が、からんと床を転がる。
血は流れなかった。
ひゅ、と喉から間抜けな音が漏れた。
外したのではない。確かに当たっている。
弾丸は、来瑠が振り下ろそうとするアイスピックの先端に当たって、それを鬼の手元から弾き飛ばしていた。
「……あ……」
――――なんで。
なんで、わたしは。
こんな――――
「あ、あ……」
そう、外したんじゃない。
むしろ、狙った的にきちんと命中した。
詩述の運動神経からすれば驚異的なまでのラッキーショット。
その事実を理解していたのは、当人だけだった。
来瑠を撃ち殺すつもりだった。
なのに撃つ瞬間、咄嗟に狙う先を変えてしまった。
来瑠の頭から、振り下ろされるアイスピックへ。
殺すのではなく、救けるための銃撃へと変えてしまった。
あの青春を取り戻すためには、絶対に高嶺来瑠を排除しなければいけないのに――
残り一発の銃弾で、詩述は、結菜を救けてしまった。
繋いだ手が、緩やかに離れる。
あの時は風花から離した。
でも今は、詩述からだった。
◇◇
自分から離れていく親友の背中を見送って、声枯らしの少女は思い出していた。
ふたりの夏。私達の夏。
あの頃、私達の世界はふたりの形に閉じる円環だった。
――この先も、いつまでも。
――ずっと、この子の手を握っていよう。
そんな誓いが、守られることはなかったけれど。
走っていく友の背中に、風花は桜の花を見た。
迎えることのできなかった、冬のその先。
いつまでもあの冬に囚われていた少女の門出。
腐って落ちた果実は土に還って、いつかまた新たな芽を息吹かせる。
あの子にとっては、この寒い寒い地獄の中。
かつて取り合った手は離れ、別々な道を歩んでく。
「――――さよなら、私の親友」
来瑠を押しのけて結菜に縋り付いて泣くかつての"片割れ"に、風花は祝福するようにそう言った。
青春が終わり。
少女達は、大人になっていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます