第0章 紅蓮の女獅子と蒼き太陽ー②

そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。

 誰にも期待されたことのない自分を、今でもまだお飾りの将軍に過ぎない自分を、彼女は信頼できると言ってくれた。

 ユングヴィは、初めて、自分が何のために将軍になったのかを知ったような気がした。

「だから、そなたに託すぞ」

 王妃は、それまで大事に抱えていた荷物を、ユングヴィに押しつけた。

 受け取ってから、気がついた。

 人間だ。人間の子供だ。人間の子供を、大きな布で包んでいる。

 温かい。生きている。

「この子さえ……、この子さえ、生きて、いれば。アルヤ王国は、死なぬ」

 その一言で、ユングヴィは察した。

 第一王子だ。次の神となる──今の王よりなお神に近いとされている、何よりも尊い存在だ。

「ユングヴィ、頼む」

「王妃様、そんな──」

「そなたが。そなたが、この子を、守っておくれ。いずれきたるその日まで、そなたがこの子を見ていておくれ」

 ユングヴィがその子を抱えたのを見てから、王妃は、目を細め、震える手でユングヴィの頰を撫でた。

「嫁入り前のそなたに、まだ分別のない子供を預けるなど、酷な話かもしれぬが。わらわは、そなたであれば、この子を正しく導いてくれると信じられる」

 次に、ユングヴィの手首を、強い力でつかんだ。

「頼むぞユングヴィ。その子さえ生きていればアルヤ王国は死なぬ。わらわなどここに捨て置け、その子だけ連れてどこかへ逃げるのだ」

「王妃様……! ですが──」

「よいのだ」

 ユングヴィは懇願するように言った。

「王妃様もお連れします」

 だが、頭ではわかっていた。

 王妃の怪我は広範囲にわたっているようだ。自分も疲れている。もし預けられた子供が本当に第一王子なら、今すでに六歳になっているはずだ。いくら鍛えているといっても、ひとりで二人を抱えて走ることはできない。まして地上は戦火に包まれていて、どこに逃げれば安全かわからなかった。

 それでも、嫌だった。

「王妃様も、一緒にお連れしますから……!」

「ユングヴィ」

 初めて神剣を抜いてしまった十四の時から十六になるこんにちまで、二年間ずっと見守ってくれていたのは、国王とこの王妃だったのだ。

「聞き分けよ」

 王妃が、厳しい語調で告げた。

「これは命令だ」

 涙がにじんだ。

「行け、ユングヴィ」

 視界がゆがんだ。

「そなたはその子を死守せよ。何もかもを捨て置いて、その子を守り抜き、その子とともに生き延びることだけを考えるのだ」

「……う」

「泣くでない。言うことを聞きなさい」

 たしなめる声が優しい。

「そなたがその子を守り切れるか否かが、この国を左右するのだ。そう、心得よ」

 手の甲で頰の涙をぬぐった。

 それが、二年間世話になった王妃の、最後の願いなのだ。それをかなえられるのは、今ここにいる自分だけなのだ。

 壁に突き立てていた神剣を引き抜いた。

 さやに納めると光が消えて王妃の顔が見えなくなった。

 暗い地下道に声だけが響いた。

「神剣も。そなたと、その子の、ためにある。それを、ゆめゆめ、忘れることのなきよう」

 ユングヴィは一度ひざまずいた。

「申し訳ございません……! ユングヴィは……、ユングヴィは、王妃様をお助けせず──」

 歯を食いしばり、立ち上がる。

「ただただ、逃げることにします……!」

 幼子を、抱き上げた。この子ひとりであれば軽い。

 走れる。

 王妃に背を向けて走り出した。涙はあふれて止まらなかったが振り切った。

 この国の未来を託されたのだ。

「頼んだぞ、ユングヴィ」

 倒れる音が、かすかに響いた。

「生きよ、ユングヴィ。──生きよ、ソウェイル──」


ユングヴィはもともと路上生活を送る孤児だった。寒い冬は地下水路カナートに潜って暮らしていた。だから今も王都の地下にの巣状に張り巡らされた道をそらで歩ける。

 王妃に別れを告げたユングヴィが地上に顔を出した時、あたりはすでに静まり返っていた。まるで王都全体が死んでしまったかのようだった。

 住宅街の一角に出たというのに、住民の姿がまったく見えない。みんな避難したのだろうか。そうであってほしい。屋根や壁が破壊され、物品が道路に散乱し、時折炎のぜる音だけが聞こえてくる現状の街に、人が残されているとは思いたくない。

 それに、ひとけがないのは、今に限っては好都合だ。

 抱えてきた荷物を一度地面に置く。

 布をぐのはまだ早い。絶対に敵兵のいる可能性がないところまで行かなければ危険だ。

 まだ立ち止まってはだめだ。

 つまさき立ちで、家々の屋根の向こう側に見えるはずの蒼宮殿を探した。

 蒼宮殿はアルヤ王国の象徴だ。あおと白と金のタイルで組み上げられた玉ねぎ形の丸屋根の巨大な正堂、同じくタイルで覆われた数え切れないほどの部屋を有するいくつかの建物、それら全体を囲む壁、そして壁から突き出すように立っているやはり玉ねぎ形の丸屋根のついた四本の塔は、アルヤ王国そのものである王の住まいにふさわしい。

 アルヤ王国における王は絶対不可侵の存在だ。神の子孫であり、神の化身とされている。そして、この国をあまねく照らす太陽である。王とは、夏にはれつな熱で人々を罰し冬には朗らかな日差しで人々を和ませる、太陽そのものだ。

 そんな王のけんぞくたちがまつられている神殿の本宮が蒼宮殿だ。つまり、アルヤ人にとってもっとも神聖な建物だ。

 皮肉にも、家々の屋根が破壊されていたために遠くまでよく見えた。

 ユングヴィは絶句した。

 蒼宮殿の四本の塔のうち、みっつの屋根に穴が開いている。タイルは崩れ、内部に敷かれた色とりどりのじゆうたんが露出している。

 王国軍は蒼宮殿を守りきれなかったのか。

 もっと近くで様子を見たかった。ここからでは蒼宮殿周辺の詳細が見えない。

 幸いにも、砲撃はすでに止んでいるようだった。これ以上の破壊がなされる雰囲気ではなかった。

 むしろ、背筋が寒くなるほど、静かだった。

 ひとりで首を横に振った。

 そんなはずはないだろう。他の将軍たちは戦い続けているはずだ。他の将軍たちは誰ひとりとして王や蒼宮殿や王都を放って逃げ出すようなきようものではない。ユングヴィとは違って、である。

 今の自分には、王妃に託されたを守るという大事な務めがある。ただ逃げ惑っているわけではない。そう、自分に言い聞かせた。

 いずれにせよずっと住宅街の一角でやり過ごしているわけにはいかない。ここは住民たちが自由に出入りできる場所だ。その住民たちがいない以上、敵兵が自由に探索できる。どこかに隠れる必要がある。

 敵兵が自由に探索できないところ、と思って、ユングヴィはつばを飲み込んだ。

 蒼宮殿に潜伏するほうがかえって安全ではないか。なぜなら宮殿にはこの兵や国境から転戦してきた他の部隊が立てこもっているはずだからだ。他の部隊、他の将軍たちに守られている宮殿の中だったら、敵兵も簡単に入ってこられないのではないか。

 宮殿の中に行こうと、ユングヴィは決意した。塔に穴が開いているが、正堂の中には味方になってくれる人が残っているはずだ。

 残っていなければ、それはすなわちアルヤ王国軍の全滅を意味した。そうなれば自分たちは王都どころかアルヤ王国から出ていかなければなるまい。

 この目で見て確かめなければならなかった。

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