第52話

 柔らかな砂を、波が撫でていくのを陸は眺めていた。目の前には随分と頑丈に、ベニヤ板が張り付けられた柵がある。前まではここから浜辺に下りることが出来たのだろう。今は、それに阻まれて立ち入ることが出来ないようだった。

 それでも陸はそこから海を眺めていた。朝日に温められた風が、顔にあたる。潮の匂いに、そっと目を細めていると背後でクラクションが短く鳴った。

「そろそろ行くぞ。新幹線に間に合わんだろ」

 父の言葉に頷き、陸は踵を返す。車に乗り込み、シートベルトを締めた。

「……気は済んだか?」

「はい」

 陸が肯定すれば、父は一瞬言葉を失った。しかし気を取り直して、ハンドルを握る。

「向こうでも元気でやれよ。まあ、尚宏くんのところに世話になるんだ。心配していないが……」

「大丈夫です。……ごめんなさい。父さ、ん……結局思い出せなくて……」

「いいんだ。……いいんだ、陸。生きていてくれたらな、父さんは、それでいいんだ」

 父、らしい。隣の男は自分にとっての父らしい。いたる浜に流れ着いたところを助け出されたあと、運び込まれた病院で教えられた。しかし、陸にとって、目の前の男に覚えがなかった。彼に、女の写真を見せられた。これが母だ、と。あまり好きじゃないなという感想しか、浮かばなかった。

 自分の名前は分かる。授業で教わったことも覚えている。人と過去だけが思い出せない。隣で車を運転する父も、写真で教えられたきりの、陸が海難事故にあった日に失踪したらしい母も、自分を見つけた友人も、一緒に学校で学んでいた級友も、まったく、知らない人間になっていた。

「だれか、一人でもいいです。覚えていますか」

 自分を診た医者の問いに、陸は首を振った。――本当は、一人だけいた。それも、ほんの僅かな記憶で、名前だけはどうにも思い出せない。あの、淡い珊瑚色の髪、色素の薄い瞳、冷たい肌。穏やかな低い声。それだけが、天貝陸と己の過去を、蜘蛛の糸のようにかろうじて繋いでいる。――それを、誰かに教える気にはならなかった。

 海沿いの道を車が走る。

 資料館が見えた。自分はあそこが好きだったらしい。何があるのかと父に聞いてみたが、何があるんだろうなあと、行ったことのない口ぶりで返された。行ってみようかと思ったが、入院している間の勉強と、通院に時間をとられて行けず、それきりだ。

 駅のロータリーで車は停まった。父の横顔を盗み見る。呆然とした顔に、疲れが滲みでていた。その理由はおそらく、自分なのだろうと思い至り、陸はドアを開け後部座席のボストンバッグを引っ掴んだ。

「それじゃあ、さようなら」

 父に別れを告げる。はっと我に返った父が、振り向いて何かを言おうと、喉を動かしたのを見たが、陸はそのまま静かにドアを閉めた。

 切符を買い、改札にそれを通す。

「陸」

 声をかけられた。平田だった。流れ着いた自分を、見つけた友人。

 改札を隔てて、こちらをじっと見つめている。

「平田くん」

「……どこ行くんだよ」

「従兄弟の家に行くんだ。そこから大学に通うから」

 平田は納得したように、頷いた。口をへの字に結んでいたが、列車が来るとアナウンスが聞こえてきて。口を開いた。

「じゃあ、またな」

「……また、ね。会えたら」

 陸がはにかんで笑う。彼に対しては、記憶を喪ったあとも、良い友人になれた。時間があれば、もっと仲の良い関係になれていたのではないかと思うほどには。

 列車がホームに滑り込んでくる。ボストンバッグを提げなおし、それに乗り込んだ。自分含めて片手ほどしか乗客はいない。ふかふかの長椅子に腰掛ける。扉が閉まり、発車した。

 窓から海が見える。春の海は、地平線が柔らかく見える。山に入るまで、陸はその景色を寂しそうに眺めていた。

 そうするほか、なかった。


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